← Library‹ 如是我聞 一

他人たにんを攻撃こうげきしたって、つまらない。攻撃こうげきすべきは、あの者ものたちの神かみだ。敵てきの神かみをこそ撃うつべきだ。でも、撃うつには先まず、敵てきの神かみを発見はっけんしなければならぬ。ひとは、自分じぶんの真しんの神かみをよく隠かくす。

これは、仏ふつ人にんヴァレリイの呟つぶやきらしいが、自分じぶんは、この十じゅう年間ねんかん、腹はらが立たっても、抑おさえに抑おさえていたことを、これから毎月まいつき、この雑誌ざっし(新潮しんちょう)に、どんなに人ひとからそのために、不ふ愉快ゆかいがられても、書かいて行いかなければならぬ、そのような、自分じぶんの意思いしによらぬ「時期じき」がいよいよ来きたようなので、様々さまざまの縁故えんこにもお許ゆるしをねがい、或あるいは義絶ぎぜつも思おもい設もうけ、こんなことは大袈裟おおげさとか、或あるいは気障きざとか言いわれ、あの者ものたちに、顰蹙ひんしゅくせられるのは承知しょうちの上うえで、つまり、自分じぶんの抗議こうぎを書かいてみるつもりなのである。

私わたくしは、最初さいしょにヴァレリイの呟つぶやきを持もち出だしたが、それは、毒どくを以もって毒どくを制せいするという気持きもちもない訳わけではないのだ。私わたくしのこれから撃うつべき相手あいての者ものたちの大半たいはんは、たとえばパリイに二十にじゅう年ねん前まえに留学りゅうがくし、或あるいは母ははひとり子こひとり、家計かけいのために、いまはフランス文学ぶんがく大だい受うけ、孝行こうこう息子むすこ、かせぐ夫おっと、それだけのことで、やたらと仏人ふつじんの名前なまえを書かき連つらねて以もて、所謂いわゆる「文化ぶんか人にん」の花形はながたと、ご当人とうにんは、まさか、そう思おもってもいないだろうが、世よの馬鹿ばか者しゃが、それを昔むかしの戦陣せんじん訓くんの作者さくしゃみたいに迎むかえているらしい気配けはいに、「便乗びんじょう」している者ものたちである。また、もう一ひとつ、私わたくしのどうしても嫌きらいなのは、古ふるいものを古ふるいままに肯定こうていしている者ものたちである。新あたらしい秩序ちつじょというものも、ある筈はずである。それが、整然せいぜんと見みえるまでには、多少たしょうの混乱こんらんがあるかも知しれない。しかし、それは、金魚きんぎょ鉢はちに金魚きんぎょ藻もを投入とうにゅうしたときの、多少たしょうの混濁こんだくの如ごときものではないかと思おもわれる。

それでは、私わたくしは今月こんげつは何なんを言ゆうべきであろうか。ダンテの地獄じごく篇へんの初はじめに出でてくる(名前なまえはいま、たしかな事ことは忘わすれた)あのエルギリウスとか何なんとかいう老ろう詩人しじんの如ごとく、余あまりに久ひさしくもの言いわざりしにより声こえしわがれ、急きゅうに、諸君しょくんの眠ねむりを覚さます程ほどの水みず際立きわだった響ひびきのことは書かけないかも知しれないが、次第しだいに諸君しょくんの共感きょうかんを得える筈はずだと確信かくしんして、こうして書かいているのだ。そうでもなければ、この紙かみ不足ふそくの時代じだいに、わざわざ書かくてもないだろう、ではないか。

一群いちぐんの「老大らおたい家か」というものがある。私わたくしは、その者ものたちの一人ひとりとも面接めんせつの機会きかいを得えたことがない。私わたくしは、その者ものたちの自信じしんの強つよさにあきれている。彼かれらの、その確信かくしんは、どこから出でているのだろう。所謂しょい、彼かれらの神かみは何なんだろう。私わたくしは、やっとこの頃ごろそれを知しった。

家庭かていである。

家庭かていのエゴイズムである。

それが結局けっきょくの祈いのりである。私わたくしは、あの者ものたちに、あざむかれたと思おもっている。ゲスな言いい方かたをするけれども、妻子さいしが可愛かわいいだけじゃねえか。

私わたくしは、或ある「老大らおたい家か」の小説しょうせつを読よんでみた。何なんのことはない、周囲しゅういのごひいきのお好このみに応おうじた表情ひょうじょうを、キッとなって構かまえて見みせているだけであった。軽薄けいはくも極きわまっているのであるが、馬鹿ばか者しゃは、それを「立派りっぱ」と言いい、「潔癖けっぺき」と言いい、ひどい者ものは、「貴族きぞく的てき」なぞと言いってあがめているようである。

世よの中なかをあざむくとは、この者ものたちのことを言いうのである。軽薄けいはくならば、軽薄けいはくでかまわないじゃないか。何故なぜ、自分じぶんの本質ほんしつのそんな軽薄けいはくを、他たの質しつと置おき換かえて見みせつけなければいけないのか。軽薄けいはくを非難ひなんしているのではない。私わたくしだって、この世よの最もっとも軽薄けいはくな男おとこではないかしらと考かんがえている。何故なぜ、それを、他たの質しつとまぎらわせなければいけないのか、私わたくしにはどうしても、不可解ふかかいなのだ。

所詮しょせんは、家庭かてい生活せいかつの安楽あんらくだけが、最後さいごの念願ねんがんだからではあるまいか。女房にょうぼうの意見いけんに圧倒あっとうせられていながら、何なんかしら、女房にょうぼうにみとめてもらいたい気持きもち、ああ、いやらしい、そんな気持きもちが、作品さくひんの何処どこかに、たとえば、お便所べんじょの臭においのように私わたくしを、たよりなくさせるのだ。

わびしさ。それは、貴重きちょうな心こころの糧かてだ。しかし、そのわびしさが、ただ自分じぶんの家庭かていとだけつながっている時ときには、はたから見みて、頗すこぶるみにくいものである。

そのみにくさを、自分じぶんで所謂しょい「恐縮きょうしゅく」して書かいているのならば、面白おもしろい読物よみものにでもなるであろう。しかし、それを自身じしんが殉教じゅんきょう者しゃみたいに、いやに気取きどって書かいていて、その苦くるしさに襟えりを正ただす読者どくしゃもあるとか聞きいて、その馬鹿ばからしさには、あきれはてるばかりである。

人生じんせいとは、(私わたくしは確信かくしんを以もて、それだけは言いえるのであるが、苦くるしい場所ばしょである。生うまれて来きたのが不幸ふこうの始はじまりである。)ただ、人ひとと争あらそうことであって、その暇々ひまひまに、私わたくしたちは、何なんかおいしいものを食たべなければいけないのである。

ためになる。

それが何なんだ。おいしいものを、所謂しょい「ために」ならなくても、味あじわわなければ、何処どこに私わたくしたちの生いきている証拠しょうこがあるのだろう。おいしいものは、味あじわわなければいけない。味あじわうべきである。しかし、いままでの所謂しょい「老大らおたい家か」の差さし出だす料理りょうりに、何なん一ひとつ私わたくしは、おいしいと感かんじなかった。

ここで、いちいち、その「老大らおたい家か」の名前なまえを挙あげるべきかとも思おもうけれども、私わたくしは、その者ものたちを、しんから軽蔑けいべつしきっているので、名前なまえを挙あげようにも、名前なまえを忘わすれていると言いいたいくらいである。

みな、無学むがくである。暴力ぼうりょくである。弱よわさの美うつくしさを、知しらぬ。それだけでも既すでに、私わたくしには、おいしくない。

何なんがおいしくて、何なんがおいしくない、ということを知しらぬ人種じんしゅは悲惨ひさんである。私わたくしは、日本にっぽんの(この日本にっぽんという国号こくごうも、変かえるべきだと思おもっているし、また、日ひの丸まるの旗はたも私わたくしは、すぐに変改へんがいすべきだと思おもっている。)この人ひとたちは、ダメだと思おもう。

芸術げいじゅつを享楽きょうらくする能力のうりょくがないように思おもわれる。むしろ、読者どくしゃは、それとちがう。文化ぶんかの指導しどう者しゃみたいな顔かおをしている人ひとたちのほうが、何なんもわからぬ。読者どくしゃの支持しじにおされて、しぶしぶ、所謂いわゆる不ふ健康けんこうとかいう私わたくし(太宰だざい)の作品さくひんを、まあ、どうやら力作りきさくだろう、くらいに言いうだけである。

おいしさ。舌したがあれていると、味あじがわからなくて、ただ量りょう、或あるいは、歯はごたえ、それだけが問題もんだいになるのだ。せっかく苦労くろうして、悪わるい材料ざいりょうは捨すて、本当ほんとうにおいしいところだけ選えらんで、差さし上あげているのに、ペロリと一飲ひとのみにして、これは腹はらの足たしにならぬ、もっとみになるものがないか、いわば食慾しょくよくに於おける淫乱いんらんである。私わたくしには、つき合あいきれない。

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