或る雑誌の座談会の速記録を読んでいたら、志賀直哉というのが、妙に私の悪口を言っていたので、さすがにむっとなり、この雑誌の先月号の小論に、附記みたいにして、こちらも大いに口汚なく言い返してやったが、あれだけではまだ自分も言い足りないような気がしていた。いったい、あれは、何だってあんなにえばったものの言い方をしているのか。普通の小説というものが、将棋だとするならば、あいつの書くものなどは、詰将棋である。王手、王手で、そうして詰むにきまっている将棋である。旦那芸の典型である。勝つか負けるかのおののきなどは、微塵もない。そうして、そののっぺら棒がご自慢らしいのだからおそれ入る。
どだい、この作家などは、思索が粗雑だし、教養はなし、ただ乱暴なだけで、そうして己れひとり得意でたまらず、文壇の片隅にいて、一部の物好きのひとから愛されるくらいが関の山であるのに、いつの間にやら、ひさしを借りて、図々しくも母屋に乗り込み、何やら巨匠のような構えをつくって来たのだから失笑せざるを得ない。
今月は、この男のことについて、手加減もせずに、暴露してみるつもりである。
孤高とか、節操とか、潔癖とか、そういう讃辞を得ている作家には注意しなければならない。それは、殆んど狐狸性を所有しているものたちである。潔癖などということは、ただ我儘で、頑固で、おまけに、抜け目無くて、まことにいい気なものである。卑怯でも何でもいいから勝ちたいのである。人間を家来にしたいという、ファッショ的精神とでもいうべきか。
こういう作家は、いわゆる軍人精神みたいなものに満されているようである。手加減しないとさっき言ったが、さすがに、この作家の「シンガポール陥落」の全文章をここに掲げるにしのびない。阿呆の文章である。東条でさえ、こんな無神経なことは書くまい。甚だ、奇怪なることを書いてある。もうこの辺から、この作家は、駄目になっているらしい。
言うことはいくらでもある。
この者は人間の弱さを軽蔑している。自分に金のあるのを誇っている。「小僧の神様」という短篇があるようだが、その貧しき者への残酷さに自身気がついているだろうかどうか。ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、苦痛なものである。何が神様だ。その神経は、まるで新興成金そっくりではないか。
またある座談会で(おまえはまた、どうして僕をそんなに気にするのかね。みっともない。)太宰君の「斜陽」なんていうのも読んだけど、閉口したな。なんて言っているようだが、「閉口したな」などという卑屈な言葉遣いには、こっちのほうであきれた。
どうもあれには閉口、まいったよ、そういう言い方は、ヒステリックで無学な、そうして意味なく昂ぶっている道楽者の言う口調である。ある座談会の速記を読んだら、その頭の悪い作家が、私のことを、もう少し真面目にやったらよかろうという気がするね、と言っていたが、唖然とした。おまえこそ、もう少しどうにかならぬものか。
さらにその座談会に於て、貴族の娘が山出しの女中のような言葉を使う、とあったけれども、おまえの「うさぎ」には、「お父さまは、うさぎなどお殺せなさいますの?」とかいう言葉があった筈で、まことに奇異なる思いをしたことがある。「お殺せ」いい言葉だねえ。恥しくないか。
おまえはいったい、貴族だと思っているのか。ブルジョアでさえないじゃないか。おまえの弟に対して、おまえがどんな態度をとったか、よかれあしかれ、てんで書けないじゃないか。家内中が、流行性感冒にかかったことなど一大事の如く書いて、それが作家の本道だと信じて疑わないおまえの馬面がみっともない。
強いということ、自信のあるということ、それは何も作家たるものの重要な条件ではないのだ。
かつて私は、その作家の高等学校時代だかに、桜の幹のそばで、いやに構えている写真を見たことがあるが、何という嫌な学生だろうと思った。芸術家の弱さが、少しもそこになかった。ただ無神経に、構えているのである。薄化粧したスポーツマン。弱いものいじめ。エゴイスト。腕力は強そうである。年とってからの写真を見たら、何のことはない植木屋のおやじだ。腹掛丼がよく似合うだろう。
私の「犯人」という小説について、「あれは読んだ。あれはひどいな。あれは初めから落ちが判ってるんだ。こちらが知ってることを作家が知らないと思って、一生懸命書いている。」と言っているが、あれは、落ちもくそもない、初めから判っているのに、それを自分の慧眼だけがそれを見破っているように言っているのは、いかにももうろくに近い。あれは探偵小説ではないのだ。むしろ、おまえの「雨蛙」のほうが幼い「落ち」じゃないのか。
いったい何だってそんなに、自分でえらがっているのか。自分ももう駄目ではないかという反省を感じたことがないのか。強がることはやめなさい。人相が悪いじゃないか。
さらにまた、この作家に就いて悪口を言うけれども、このひとの最近の佳作だかなんだかと言われている文章の一行を読んで実に不可解であった。
すなわち、「東京駅の屋根のなくなった歩廊に立っていると、風はなかったが、冷え冷えとし、着て来た一重外套で丁度よかった。」馬鹿らしい。冷え冷えとし、だからふるえているのかと思うと、着て来た一重外套で丁度よかった、これはどういうことだろう。まるで滅茶苦茶である。いったいこの作品には、この少年工に対するシンパシーが少しも現われていない。つっぱなして、愛情を感ぜしめようという古くからの俗な手法を用いているらしいが、それは失敗である。しかも、最後の一行、昭和二十年十月十六日の事である、に到っては噴飯のほかはない。もう、ごまかしが、きかなくなった。