← Library‹ 如是我聞 四

或ある雑誌ざっしの座談ざだん会かいの速記そっき録ろくを読よんでいたら、志賀しが直哉なおやというのが、妙みょうに私わたくしの悪口わるぐちを言いっていたので、さすがにむっとなり、この雑誌ざっしの先月せんげつ号ごうの小論しょうろんに、附記ふきみたいにして、こちらも大おおいに口汚くちぎたなく言いい返かえしてやったが、あれだけではまだ自分じぶんも言いい足たりないような気きがしていた。いったい、あれは、何なんだってあんなにえばったものの言いい方かたをしているのか。普通ふつうの小説しょうせつというものが、将棋しょうぎだとするならば、あいつの書かくものなどは、詰つめ将棋しょうぎである。王手おうて、王手おうてで、そうして詰つむにきまっている将棋しょうぎである。旦那だんな芸げいの典型てんけいである。勝かつか負まけるかのおののきなどは、微塵みじんもない。そうして、そののっぺら棒ぼうがご自慢じまんらしいのだからおそれ入いる。

どだい、この作家さっかなどは、思索しさくが粗雑そざつだし、教養きょうようはなし、ただ乱暴らんぼうなだけで、そうして己おのれひとり得意とくいでたまらず、文壇ぶんだんの片隅かたすみにいて、一部いちぶの物好ものずきのひとから愛あいされるくらいが関せきの山やまであるのに、いつの間あいだにやら、ひさしを借かりて、図々ずうずうしくも母屋おもやに乗のり込こみ、何なんやら巨匠きょしょうのような構かまえをつくって来きたのだから失笑しっしょうせざるを得えない。

今月こんげつは、この男おとこのことについて、手て加減かげんもせずに、暴露ばくろしてみるつもりである。

孤高ここうとか、節操せっそうとか、潔癖けっぺきとか、そういう讃辞さんじを得えている作家さっかには注意ちゅういしなければならない。それは、殆ほとんど狐狸こり性せいを所有しょゆうしているものたちである。潔癖けっぺきなどということは、ただ我儘わがままで、頑固がんこで、おまけに、抜ぬけ目め無なくて、まことにいい気げなものである。卑怯ひきょうでも何なんでもいいから勝かちたいのである。人間にんげんを家来けらいにしたいという、ファッショ的てき精神せいしんとでもいうべきか。

こういう作家さっかは、いわゆる軍人ぐんじん精神せいしんみたいなものに満みたされているようである。手て加減かげんしないとさっき言いったが、さすがに、この作家さっかの「シンガポール陥落かんらく」の全ぜん文章ぶんしょうをここに掲かかげるにしのびない。阿呆あほうの文章ぶんしょうである。東条とうじょうでさえ、こんな無む神経しんけいなことは書かくまい。甚はなはだ、奇怪きっかいなることを書かいてある。もうこの辺へんから、この作家さっかは、駄目だめになっているらしい。

言いうことはいくらでもある。

この者ものは人間にんげんの弱よわさを軽蔑けいべつしている。自分じぶんに金かねのあるのを誇ほこっている。「小僧こぞうの神かみ様さま」という短篇たんぺんがあるようだが、その貧まずしき者ものへの残酷ざんこくさに自身じしん気きがついているだろうかどうか。ひとにものを食くわせるというのは、電車でんしゃでひとに席せきを譲ゆずる以上いじょうに、苦痛くつうなものである。何なんが神かみ様さまだ。その神経しんけいは、まるで新興しんこう成金なりきんそっくりではないか。

またある座談ざだん会かいで(おまえはまた、どうして僕ぼくをそんなに気きにするのかね。みっともない。)太宰だざい君くんの「斜陽しゃよう」なんていうのも読よんだけど、閉口へいこうしたな。なんて言いっているようだが、「閉口へいこうしたな」などという卑屈ひくつな言葉遣ことばづかいには、こっちのほうであきれた。

どうもあれには閉口へいこう、まいったよ、そういう言いい方かたは、ヒステリックで無学むがくな、そうして意味いみなく昂たかぶっている道楽どうらく者しゃの言いう口調くちょうである。ある座談ざだん会かいの速記そっきを読よんだら、その頭あたまの悪わるい作家さっかが、私わたくしのことを、もう少すこし真面目まじめにやったらよかろうという気きがするね、と言いっていたが、唖然あぜんとした。おまえこそ、もう少すこしどうにかならぬものか。

さらにその座談ざだん会かいに於て、貴族きぞくの娘むすめが山出やまだしの女中じょちゅうのような言葉ことばを使つかう、とあったけれども、おまえの「うさぎ」には、「お父ちちさまは、うさぎなどお殺ころせなさいますの?」とかいう言葉ことばがあった筈はずで、まことに奇異きいなる思おもいをしたことがある。「お殺ころせ」いい言葉ことばだねえ。恥はずかしくないか。

おまえはいったい、貴族きぞくだと思おもっているのか。ブルジョアでさえないじゃないか。おまえの弟おとうとに対たいして、おまえがどんな態度たいどをとったか、よかれあしかれ、てんで書かけないじゃないか。家内かない中ちゅうが、流行りゅうこう性せい感冒かんぼうにかかったことなど一いち大事だいじの如ごとく書かいて、それが作家さっかの本道ほんどうだと信しんじて疑うたがわないおまえの馬面うまづらがみっともない。

強つよいということ、自信じしんのあるということ、それは何なんも作家さっかたるものの重要じゅうような条件じょうけんではないのだ。

かつて私わたくしは、その作家さっかの高等こうとう学校がっこう時代じだいだかに、桜さくらの幹みきのそばで、いやに構かまえている写真しゃしんを見みたことがあるが、何なんという嫌いやな学生がくせいだろうと思おもった。芸術げいじゅつ家かの弱よわさが、少すこしもそこになかった。ただ無む神経しんけいに、構かまえているのである。薄うす化粧けしょうしたスポーツマン。弱よわいものいじめ。エゴイスト。腕力わんりょくは強つよそうである。年としとってからの写真しゃしんを見みたら、何なんのことはない植木うえき屋やのおやじだ。腹掛はらがけ丼どんぶりがよく似合にあうだろう。

私わたくしの「犯人はんにん」という小説しょうせつについて、「あれは読よんだ。あれはひどいな。あれは初はじめから落おちが判わかってるんだ。こちらが知しってることを作家さっかが知しらないと思おもって、一生いっしょう懸命けんめい書かいている。」と言いっているが、あれは、落おちもくそもない、初はじめから判わかっているのに、それを自分じぶんの慧眼けいがんだけがそれを見破みやぶっているように言いっているのは、いかにももうろくに近ちかい。あれは探偵たんてい小説しょうせつではないのだ。むしろ、おまえの「雨蛙あまがえる」のほうが幼おさない「落おち」じゃないのか。

いったい何なんだってそんなに、自分じぶんでえらがっているのか。自分じぶんももう駄目だめではないかという反省はんせいを感かんじたことがないのか。強つよがることはやめなさい。人相にんそうが悪わるいじゃないか。

さらにまた、この作家さっかに就ついて悪口わるぐちを言ゆうけれども、このひとの最近さいきんの佳作かさくだかなんだかと言いわれている文章ぶんしょうの一行いっこうを読よんで実じつに不可解ふかかいであった。

すなわち、「東京とうきょう駅えきの屋根やねのなくなった歩廊ほろうに立たっていると、風かぜはなかったが、冷ひえ冷びえとし、着きて来きた一いち重じゅう外套がいとうで丁度ちょうどよかった。」馬鹿ばからしい。冷ひえ冷びえとし、だからふるえているのかと思おもうと、着きて来きた一いち重じゅう外套がいとうで丁度ちょうどよかった、これはどういうことだろう。まるで滅茶苦茶めちゃくちゃである。いったいこの作品さくひんには、この少年しょうねん工こうに対たいするシンパシーが少すこしも現あらわれていない。つっぱなして、愛情あいじょうを感かんぜしめようという古ふるくからの俗ぞくな手法しゅほうを用もちいているらしいが、それは失敗しっぱいである。しかも、最後さいごの一行いっこう、昭和しょうわ二十にじゅう年ねん十じゅう月がつ十じゅう六ろく日にちの事ことである、に到いたっては噴飯ふんぱんのほかはない。もう、ごまかしが、きかなくなった。

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