伸子の診察を終って入って来た乙骨医師は、五十をよほど越えた老人で、ヒョロリと瘠せこけて蟷螂のような顔をしているが、ギロギロ光る眼と、一種気骨めいた禿げ方とが印象的である。が、庁内きっての老練家だったし、ことに毒物鑑識にかけては、その方面の著述を五、六種持っているというほどで、無論法水とも充分熟知の間柄だった。彼は座につくと無遠慮に莨を要求して、一口甘そうに吸い込むと云った。
「さて法水君、僕の心像鏡的証明法は、遺憾ながら知覚喪失だ。だいたい廻転椅子がどうだろうがこうだろうが、結局あの蒼白く透き通った歯齦を見ただけで、僕は辞表を賭けてもいいと思う。まさしく単純失神と断言して差支えないのだ。ところで、ここで特に、熊城君に一言したいのだが、あの女が兇器の鎧通しを握っていたと聴いて、僕は数当て骨牌の裏を見たような気がしたのだよ。あの失神は、実に陰険朦朧たるものなんだ。あまりに揃い過ぎているじゃないか」
「なるほど」法水は失望したように頷いたが、「とにかく細目を承ろうじゃないか。あるいはその中から、君の耄碌さ加減が飛び出して来んとも限らんからね。ところで、君の検出法は?」
乙骨医師はところどころ術語を交えながら、きわめて事務的に彼の知見を述べた。
「無論吸収の早い毒物はあるにゃあるがね。それに、特異性のある人間だと、中毒量はるか以下のストリキニーネでも、屈筋震顫症や間歇強直症に類似した症状を起す場合がある。しかし、中毒としては末梢的所見はないのだし、胃中の内容物はほとんど胃液ばかりなんだ。――これはちょっと不審に思われるだろう。けれども、あの女が消化のよい食物を摂ってから二時間ぐらいで斃れたのだとしたら、胃の空虚には毫も怪しむところはない。それから、尿にも反応的変化はないし、定量的に証明するものもない。ただ徒らに、燐酸塩が充ち溢れているばかりなんだ。あの増量を、僕は心身疲労の結果と判断するが、どうだい」
「明察だ。あの猛烈な疲労さえなければ、僕は伸子の観察を放棄してしまっただろう」法水は何事かを仄めかして、相手の説を肯定したが、「ところで、君が投じた試薬は、たったそれだけかね」
「冗談じゃない。結局徒労には帰したけれども、僕は伸子の疲労状態を条件にして、ある婦人科的観察を試みたんだ。法水君、今夜の法医学的意義は、Pennyroyal(毒性を有する薬草)一つに尽きるんだよ。あの×・××ぐらいを健康未妊娠子宮に作用させると、ちょうど服用後一時間ほどで、激烈な子宮痲痺が起る。そして、ほとんど瞬間的に失神類似の症状が現われるんだ。ところが、その成分である Oleum Hedeomae Apiol さえ検出されない。勿論あの女には、既往において婦人科的手術をうけた形跡がないばかりでなく、中毒に対する臓器特異性を思わせる節もないのだ。そこで法水君、僕の毒物類例集は結局これだけなんだけども、しかし結論として一言云わせてもらえるなら、あの失神の刑法的意義は、むしろ道徳的感情にあると云うに尽きるだろう。つまり、故意か内発か――なんだ」と乙骨医師は卓子をゴツンと叩いて、彼の知見を強調するのだった。
「いや、純粋の心理病理学さ」法水は暗い顔をして云い返した。「ところで、頸椎は調べたろうね。僕はクインケじゃないが、恐怖と失神は頸椎の痛覚なり――と云うのは至言だと思うよ」
乙骨医師は莨の端をグイと噛み締めたが、むしろ驚いたような表情を泛べて、
「うん僕だって、ヤンレッグの『病的衝動行為について』や、ジャネーの『験触野』ぐらいは読んでいるからね。いかにも、第四頸椎に圧迫がある場合に衝動的吸気を喰うと、横隔膜に痙攣的な収縮が起る。だがしかしだ。その肝腎な傴僂というのは、あの女じゃない。それ以前に、一人亀背病患者が殺されているという話じゃないか」
「ところがねえ」と法水は喘ぎ気味に云った。「無論確実な結論ではない。恐らく廻転椅子の位置や不思議な倍音演奏を考えたら、一顧する価値もあるまいよ。けれども一説として、僕はヒステリー性反覆睡眠に思い当ったのだ。あれを失神の道程に当ててみたいのだよ」
「もっとも法水君、元来僕は非幻想的な動物なんだがね」と乙骨医師は眩惑を払い退けるような表情をして、皮肉に云い返した。「だいたいヒステリーの発作中には、モルヒネに対する抗毒性が亢進するものだよ。しかし、どうあっても皮膚の湿潤だけは免れんことなんだがね」
ここで乙骨医師が、モルヒネを例に亢進神経の鎮静云々を持ち出したのは、勿論法水に対する諷刺ではあるけれども、それは、折ふし人間の思惟限界を越えようとする、彼の空想に向けられていたのだ。と云うのは、そのヒステリー性反覆睡眠という病的精神現象が、実に稀病中の稀病であって、日本でも明治二十九年八月福来博士の発表が最初の文献である。現に、好んで寺院や病的心理を扱う小城魚太郎(最近出現した探偵小説家)の短篇中にも――殺人を犯そうとする一人の病監医員が、もともと一労働者にすぎないその患者に、医学的な術語を聴かせ、それを後刻の発作中に喋らせて、自分自身の不在証明に利用する――という作品もあるとおりで、自己催眠的な発作が起ると、自分が行いかつ聴いたうちの最も新しい部分を、それと寸分違わぬまでに再演しかつ喋るのであるから、別名としてのヒステリー性無暗示後催眠現象と呼ぶ方が、かえって、この現象の実体に相応するように思われるのである。それであるからして乙骨医師が、内心法水の鋭敏な感覚に亢奮を感じながらも、表面痛烈な皮肉をもって異議を唱えたのも無理ではなかった。それを聴くと、法水はいったん自嘲めいた嘆息をしたが、続いて、彼には稀らしい噪狂的な亢奮が現われた。