しかし、法水は、いったん止めた動作を再び開始して、両側の扉を一杯に開ききると、なかには左右の壁際に、奇妙な形をした古代時計がズラリと配列されていた。外光が薄くなって、奥の闇と交わっている辺りには、幾つか文字面の硝子らしいものが、薄気味悪げな鱗の光のように見え、その仄かな光に生動が刻まれていく。と云うのは、所々に動いている長い短冊振子が、絶えず脈動のような明滅を繰り返しているからであった。この墓窖のような陰々たる空気の中で、時代の埃を浴びた物静けさが、そして、様々な秒刻の音が、未だに破られないのは、恐らく誰一人として、つめきった呼吸を吐き出さないからであろう。が、その時、中央の大きな象嵌柱身の上に置かれた人形時計が、突然弾条の弛む音を響かせたかと思うと、古風なミニュエットを奏ではじめたのであった。廻転琴(反対の方向に動く二つの円筒を廻転せしめ、その上にある無数の棘をもって、梯状に並んでいる音鋼を弾く自動楽器)が弾き出した優雅な音色が、この沈鬱な鬼気を破ったとみえて、再び一同の耳に、あの引き摺るように重たげな音響が入ってきた。
「灯を‼」熊城は吾に返ったかのごとくに呶鳴った。真斎の手で壁の開閉器が捻られると、はたして法水の神測が適中していた。と云うのは、奥の長櫃の上で、津多子夫人は生死を四人の賽の目に賭けて、両手を胸の上で組み、長々と横たわっているのであった。その端正な美しさは、とうてい陶器で作った、ベアトリチェの死像と云うほかにないであろう。しかし、引き摺るような鈍い音響は、まさに、津多子夫人が横たわっている附近から発せられてくる。薄気味悪い地動のような鼾声、それも病的な喘鳴でも交っているかのような……。ああ、法水が死体と推測した津多子夫人は、未だに生動を続けているではないか。皮膚はまったく活色を失い、体温は死温に近いほどに低下しているけれども、微かに呼吸を続け、微弱ながらも心音が打っている。そして、顔だけを除いて、全身を木乃伊のように毛布で巻き付けられているのだった。その時、廻転琴のミニュエットが鳴り終ると、二つの童子人形は、かわるがわる右手の槌を振り上げて、鐘を叩いた。そして、八時を報じたのであった。
「抱水クロラールだ」法水は呼気を嗅いだ顔を離すと、元気な声で云った。「瞳孔も縮小しているし、臭いもそれに違いない。だが、生きていてくれてなによりだったよ。ねえ熊城君、津多子夫人の恢復で、この事件のどこかに明るみが差すかもしれないぜ」
「なるほど、薬物室の調査は無駄じゃなかったろうがね」と熊城は苦いものに触れたような顔になって、
「だが、おかげさまで、とんだ悲報を聴かされてしまったよ。物凄い幻滅だ。あの銅版刷みたいに鮮かな動機を持った女が、なんという莫迦げた大砲を向けてきたんだい。一つ君に、霊媒でも呼んでもらおうかね」
事実熊城が云ったように、遺産配分からただ一人除かれていて、最も濃厚な動機を持っているはずの押鐘津多子夫人には、どこかに脆い、破れ目でも出来そうなところがあるように思われていた。その矢先に、兇悪無惨な夢中の人物となって現われたばかりでなく、しかも、法水の推測を覆して、今度は不可解な昏睡状態に、微妙な推断を要求しているのだった。その予想を許されない逆転紛糾には、ひとり熊城ならずとも、まったくたまらない事件に違いないのである。検事も腹立たしげに吐息して云った。
「ただただ驚くばかりさ。僅々二十時間あまりの間に、二人の死者と二人の昏倒者が出来てしまったんだ。どのみち、問題になるのは、文字盤が廻される以前さ。それまでに、犯人は昏倒させた津多子を、ここへ運び入れたのだろう」と云って、法水を確信ありげな表情で見て、「しかし法水君、だいたいの薬量が判れば、それを咽喉に入れた時刻の見当がつくだろう。そこに僕は、何かあるのじゃないかと思うよ。この昏睡には、きっと裏のまたその裏があるに違いないのだ」と意気地なくも検事も、やはり津多子夫人に纏わる、動機の確固たる重さに引き摺られるのだった。
「たしかに明察だ」法水は満足そうに頷いたが、「だが、薬量などはどうでもいい事なんだよ。何より問題なのは、犯人にこの人を殺す意志がなかったという事だ」
「なに、殺す意志がない⁉」検事は思わず鸚鵡返しに叫んだが、すぐに異議を唱えた。「しかし、薬量の誤測ということは、当然ないとは云えまい」
「ところが支倉君、この出来事には、薬量が根本から問題ではないのだ。ただ眠らせてこの室に抛り込んでおきさえすれば、それが論なしに致死量になってしまうのだよ。多量の抱水クロラールには、いちじるしく体温を低下させる性能があるのだ。それにこの室は、石と金属とで囲まれていて、非常に温度が低い。だから、窓を開いて外気を入れさえすれば、この室の気温が、ちょうど凍死に恰好な条件になってしまうじゃないか。ところが犯人は、そういう最も安全な方法を択ばないばかりでなく、現在見るとおり木乃伊みたいに包んでいて、不可解な防温手段を施しているんだよ」と相変らず法水は、奇矯をきわめる謎の中から、さらにまた異様な疑問を摘出するのだった。
ところが、はたして彼の言のごとく、窓の掛金には石筍のような錆がこびり付いていて、しかも、清掃されている室内には、些細の痕跡すら留められていない。法水は、運び出されてゆく津多子夫人を凝然と見送りながら、なにかしら慄然としたような顔になって云った。
「たぶん明日一日おけば、充分訊問に耐えられるだろうとは思うが、しかしこの一事だけは、どうあっても記憶しておかなけりゃならん。何故に犯人が、津多子夫人の自由を奪って拘禁したか――という事なんだ。あるいは僕の思い過しかもしれないがね。そういう手段を採るに至った陰険な企みと云うのが、もしかしたら、意識が恢復してから吐かれる、言葉の中にあるのではないかと思われるんだよ。どうして、破れ目がありそうだと、そこにはきまって陥穽があるんだから」