← Library‹ 黒死館殺人事件 第六篇 算哲埋葬の夜 一、あの渡り鳥……二つに割れた虹

紙谷伸子かみたにのぶこの登場とうじょう――それが、この事件じけんの超頂点ウルトラ・クライマックスだった。と同時どうじに、妖気ようき祲気しんきの世界せかいと人間にんげんの限界げんかいとを区切くぎっている、最後さいごの一線いっせんでもあったのだ。何故なぜなら事件じけん中ちゅうの人物じんぶつは、クリヴォフ夫人ふじんを最終さいしゅうにしてことごとく篩ふるい尽つくされてしまい、ついに伸子しんしだけが、残のこされた一ひと粒つぶの希望きぼうになってしまったからだ。しかも、かつて鐘鳴器カリルロン室しつで彼女かのじょが演えんじたところのものは、とうてい曖昧あいまい模糊もことした人間にんげんの表情ひょうじょうではない。いかなる畸矯変則へんそくをもってしても律りっしようのない……換言かんげんすれば、殺人さつじん犯人はんにんの生せい具ぐ的てき表現ひょうげんを最もっとも強烈きょうれつに表象ひょうしょうしている、一いち個この演劇用仮面マスクに相違そういないのである。それゆえ、ここでもし法水のりみずが、伸子しんしの秤量しょうりょうを機会きかいに転回てんかいを計はかることが出来できなかった暁あかつきには、恐おそらくあの暗黒あんこく凶悪きょうあくな緞帳カーテンが、事件じけんの終幕しゅうまくには犯人はんにんの手てによって下くだされるであろう。否いなそうなることは、この事件じけんの犯罪はんざい現象げんしょうを一貫いっかんしている虬みずちのような怪物かいぶつ、――すなわち事件じけんの推移すいい経過けいかが明白めいはくにそれへ向むかって集束しゅうそくされてゆこうとしても、法水のりみずでさえどうにも防ふせぎようのない、あの大魔霊デモーネン・ガイストの超ちょう自然しぜん力りょくを確認かくにんするにほかならないのである。それゆえ、伸子しんしの蒼白そうはくな顔かおが扉ドアの蔭かげから現あらわれると同時どうじに、室内しつないの空気くうきが異常いじょうに引ひき緊しまってきた。法水ほうすいにさえ、抑おさえようとしても果おおせない、妙みょうに神経しんけい的てきな衝動しょうどうが込こみ上あげてくる。そして、全身ぜんしんを冷つめたい爪つめで、掻かき上あげられるような焦慮いらだたしさを、その時ときはどうすることも出来できないのであった。

伸子しんしは年齢としのころ二十にじゅう三さん、四よんであろうけれども、どちらかと云いえば弾力だんりょく的てきな肥ふとり方かたで、顔かおと云いい体躯たいくの線せんと云いい、その輪廓りんかくがフランドル派はの女人にょにんを髣髴ほうふつとさせる。けれども、その顔かおは日本にっぽん人にんには稀めずらしいくらい細ほそ刻こく的てきな陰影いんえいに富とんでいて、それが如実にょじつに彼女かのじょの内面ないめん的てきな深ふかさを物語ものがたるように思おもわれた。のみならず、最もっとも印象いんしょう的てきなのは、そのクリクリした葡萄ぶどうの果みみたいな双そうの瞳ひとみである。そこからは智ち的てきな熱情ねつじょうが、まるで羚羊かもしかのような敏すばしこさで迸出はしりだしてくるのだけれども、それにはまた、彼女かのじょの精神せいしん世界せかいの中なかにうずくまっているらしい、異様いように病的びょうてきな光ひかりもあった。総体そうたいとして彼女かのじょには、黒死こくし館かん人にん特有とくゆうの、妙みょうに暗くらい粘ねん液質えきしつ的てきなところはなかったのである。しかし、三み日かにわたって絶望ぜつぼうと闘たたかい凄惨せいさんな苦悩くのうを続つづけたためか、伸子しんしは見みる影かげもなく憔悴しょうすいしている。すでに歩あゆむ気力きりょくも尽つき果はてたように思おもわれ、その喘あえぐような激はげしい呼吸こきゅうが――鎖骨さこつや咽喉のどの軟骨なんこつが急せわし気きに上下じょうげしているのさえ、三さん人にんの座所ざしょから明瞭はっきりと見みえる。しかし、フラフラ歩あゆんで来きて座ざに着つくと、彼女かのじょは昂奮こうふんを鎮しずめるかのように両眼りょうめを閉とじ、双もろの腕うでで胸むねを固かたく締しめつけていて、しばらく凝然じいっと動うごかなかった。それに、黒地くろじの対ついへ大おおきく浮うき出だしている茅萱ちがや模様もようの尖さきが、まるで磔刑槍はりつけやりみたいな形かたちで彼女かのじょの頸くびを取とり囲かこんでいる。それなので、偶然ぐうぜんに作つくられてしまったその異様いような構図こうずからは、妙みょうに中世ちゅうせいめいた問罪もんざい的てきな雰囲気ふんいきが醸かもし出だされてくる。そして、樫かしと角石かどいしとで包つつまれた沈鬱ちんうつな死しの室むろの周囲ぐるりへ、それが渦うずのように揺ゆるぎ拡ひろがってゆくのだった。やがて、法水ほうすいの唇くちびるが微かすかに動うごきかけて沈黙ちんもくを破やぶろうとしたとき、あるいは先手せんてを打うとうとしたのだろうか、突如とつじょ伸子しんしの両眼りょうめがパチリと見開みひらかれた。そして、彼女かのじょの口くちからいきなり衝ついて出でたものがあった。

「私わたくし、告白こくはくいたしますわ。いかにも鐘鳴器カリリヨン室しつで気きを失うしないました際さいには、鎧通よろいどおしを握にぎっておりました。また、易介えきすけさんが殺ころされた前後ぜんごにも、今日きょうのクリヴォフ様さまの出来事できごと当時とうじにだって、奇妙きみょうなことに、私わたくしだけには不在証明アリバイと云いうものが恵めぐまれておりませんでした。いいえ、私わたくしは最初さいしょから、この事件じけんの終点しゅうてんにおかれているんですわ。ですから、ここで幾いくら莫迦ばか問答もんどうを続つづけたところで、結局けっきょくこの局状シチュエーションには批評ひひょうの余地よちはございませんでしょう」と伸子しんしは何なん度ども逼つかえながら、大おおきく呼吸いきを吸すい込こんでから、「それに、私わたくしには固有こゆうの精神せいしん障礙しょうがいがあって、時折ときおりヒステリーの発作ほっさが起おこります。ねえそうでございましょう。これは久我鎮子くがしずこさんから伺うかがったことですけども、犯罪はんざい精神せいしん病理びょうり学がく者しゃのクラフトエーヴィングは、ニイチェの言葉ことばを引ひいて、天才てんさいの悖徳はいとく掠奪りゃくだつ性せいを強調きょうちょうしております。中ちゅう世紀せいき全体ぜんたいを通つうじて最もっとも高たかい人間にんげん性せいの特徴とくちょうとみなされていたのは、幻覚げんかくを起おこす――云いい換かえれば、深ふかい精神せいしん的てき擾乱じょうらんの能力のうりょくを持もつにあり――ですと。ホホホホホ、これでございますものね。すべてがそろいもそろって、それも、明瞭めいりょう過すぎるくらいに明瞭めいりょうなんですわ、もう私わたくしには、自分じぶんが犯人はんにんでないと主張しゅちょうするのが厭いやになりました」

それは、どこか彼女かのじょのものでないような声音こわねだった。――ほとんど自棄じき的てきな態度たいどである。しかし、その中なかには妙みょうに小児こどもっぽい示威じいがあるように思おもわれて、そこに、絶望ぜつぼうから踠もがき上のぼろうとする、凄惨せいさんな努力どりょくが、透すかし見みえるのだった。云いい終おわると、伸子しんしの全身ぜんしんを硬張こわばらせていた靱帯じんたいが急きゅうに弛緩しかんしたように見みえ、その顔かおにグッタリとした疲労ひろうの色いろが現あらわれた。そこへ、法水のりみずは和なごやかな声こえで訊たずねた。

「いや、そういう喪服もふくなら、きっとすぐに必要ひつようでなくなりますよ。もし貴女あなたが鐘鳴器カリルロン室しつで見みた人物じんぶつの名なが云いえるのでしたら」

「すると、それは……誰だれのことなんでしょうか」と伸子しんしは素知そしらぬ気きな顔かおで、鸚鵡おうむ返かえしに問とい返かえした。しかし、その後あとの様子ようすは、不審ふしん怪訝けげんなぞというよりも、何なんか潜在せんざいしている――恐怖きょうふめいた意識いしきに唆そそられているようだった。けれども、気早きばやな熊くま城じょうはもはや凝じっとしてはいられなくなったと見みえて、さっそく彼女かのじょが朦朧もうろう状態じょうたい中ちゅうに認したためた、自署じしょの件くだり(グッテンベルガー事件じけんに先例せんれいのある潜在せんざい意識いしき的てき署名しょめい)を持もち出だした。そして、それを手短てみじかに語かたり終おえると開ひらき直なおって、厳きびしく伸子しんしの開口かいこうを迫せまるのだった。

「いいですかな。僕ぼく等とうが訊ききたいのは、僅たったそれだけです。どんなに貴女きじょを、犯人はんにんに決定けっていしたくなくも、つまるところは、結論けつろんが逆転ぎゃくてんしない限かぎりやむを得えません。つまり、要点ようてんはその二ふたつだけで、それ以外いがいの多おおくを訊たずねる必要ひつようはないのです。これこそ、貴女きじょにとれば一生いっしょう浮沈ふちんの瀬戸際せとぎわでしょう。重大じゅうだいな警告けいこくと云いう意味いみを忘わすれんように……」と沈痛ちんつうな顔かおで、まず熊くま城じょうが急迫きゅうはく気味きみに駄目だめを押おすと、その後あとを引ひき取とって、検事けんじが諭さとすような声こえで云いった。

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