こうして、再びこの狂気双六は、法水の札を旧の振り出しに戻してしまった。しかし、その悲痛な瞬間が去ると同時に、法水には再び落着きが戻ってきた。けれども、その耳元に、代り合って這い寄ってきたものがあったのだ。と云うのは、先刻からあるいは幻聴ではないかと思われていた、あの水流のような響だったのである。恐らく角柱のような空間を通ったり、あるいはまた、それに窓硝子の震動なども加わったりするせいもあるだろうが、今度は前にも倍増して、さながら地軸を震動させんばかりの轟きであった。そして、そのおどろと鳴り轟く響が、陰惨な死の室の空気を揺すりはじめたのである。それこそ、中世独逸の伝説――「魔女集会」の再現ではないだろうか。幾つかの積石と窓を隔てて、たしか、この館のどこかに瀑布が落ちているのだ。それが、目前の犯行に、直接関係があるかどうかはともかくとして、あるいは、ファウスト博士特有の装飾癖が壮観嗜みであるにもせよ、とうていそのような荒唐無稽な事実が、現実に混同していようとは信じられぬのである。ああ、その瀑布の轟き――華美な邪魁な夢は、まさにいかなる理法をもってしても律し得ようのない、変畸狂態のきわみではないか。しかし法水は、その狂わしい感覚を振りきって叫んだ――「開閉器を、灯を!」
すると、その声に初めて我に返ったかのごとく、聴衆はドッと一度に入口へ殺到した。その流れを、暗黒と同時に扉を固めた熊城が制止したので、しばらくその雑沓混乱のために、開閉器の点火が不可能にされてしまった。あらかじめ観客の注意を散在せしめないために、階下の一帯を消燈しておいたので、廊下の壁燈が仄のりと一つ点いているだけ、広間も周囲の室も真暗である。その喧囂たるどよめきの中で、法水は、暗中の彩塵を追いながら黙考に沈みはじめた。そこへ、検事が歩み寄って来て、クリヴォフ夫人が背後から心臓を刺し貫かれ、すでに絶命しているという旨を告げた。
しかし、その間に法水の推考が成長していって、ついに洋琴線のように張りきってしまった。そして、目前の惨事に、最初から現われてきた事象を整理して、その曲線に、一本の切線を引こうと試みた。――第一、演奏者中にレヴェズがいないという事だ。(しかし、聴衆の中にも彼の姿は見出されなかったのである)。それから、暗黒と同時にこの室が密閉されたという事――つまり、事件の発生前後の状況が、ともに同一であるという事だった。ところが、最後の開閉器を捻ったのは誰か――云い換えれば、最も重要な帰結点であるところの消燈の件りになると、それに端なくも、法水は一道の光明を認め得たのであった。と云うのは、装飾灯が消える直前に、津多子が入口の扉に現われて、扉際にある開閉器の脇を通ってから、その側の端に近い、最前列の椅子を占めたからである。
事実それに、法水が発見した最初の座標があったのだ。それは、アベルスの「犯罪形態学」の中に挙げられている詭計の一つで、蓋附き開閉器に電障を起させるために、氷の稜片を利用するという方法である。つまり、把手に続いている絶縁物に稜片の先を挾んで置くので、把手を捻ると、接触板が微かに触れる程度で点燈される。が、その直後、把手に腕を衝突させるのが狡策であって、そうすると氷の先が折れて、稜片の胴が、熱のある接触板の一つに触れる。したがって、そうして溶解した氷の蒸気が陶器台の上に水滴を作れば、当然そこに電障が起らねばならない。しかも、溶解した氷は、そのまま消失してしまうのである。すなわち、この場合開閉器の側を過ぎる際に、もしその狡策を津多子が行ったとしたら、当然消燈は、彼女が座席についた頃に実現されるであろう。そして、その時間の隔りによって、ゆうに暗影の一隅を覆うことが出来るのである。
押鐘津多子――あの大正中期の大女優は、それ以外のどんな鎖の輪にも、姿を現わさないにもせよ、すでに事件最初の夜、古代時計室の鉄扉を内部から押し開いていて、ダンネベルグ事件に拭うべからざる影を印しているのである。しかも、事件中人物の中で最も濃厚な動機を持ち、現に彼女は、最前列の座席を占めていたではないか。こうして、幾つかの因子を排列しているうちに、法水は噴っと血腥いような矢叫びを、自分の呼吸の中に感じたのであった。しかし、召使に燭台を用意させて、開閉器の側に近づいてみると、そこに思いがけない発見があった。と云うのは、開閉器の直下に当る床の上に、和装の津多子以外にはない、羽織紐の環が一つ落ちていたからだった。
「夫人、この羽織紐の環は、ひとまずお返ししておきましょう。しかし、たぶん貴女なら、この開閉器を捻ったのが誰だか――御存じのはずですがね」とまず津多子を喚んで、法水はこう速急に切りだした。けれども、相手はいっこうに動じた気色もなく、むしろ冷笑を含んで、津多子は云い返した。
「お返し下さるなら、頂いておきますわ。ですけれど法水さん、やっとこれで、善行悪報の神の存在が私に判りましたわ。何故かと申しますなら、暗闇の中から呻吟の声が洩れた瞬間に、私の頭へこのスイッチの事が閃いたのでした。もし、人手を借らず把手が捻れるものでしたら、必ずこの蓋の内部に、何か陰険な仕掛が秘められていなければなりません。また、それがもし事実だとすれば、恐らく闇を幸いに、犯人がその仕掛を取り戻しに来るだろうと思いました。そう考えると、それまでは思いもよらなかった決意が浮んでまいりまして、そこで私、逸早く座席を外して、この場所にまいったのでございます。そして、自分の背でこの開閉器を覆うていて、いま貴方がお見えになるまで、ずうっとこの場所に立っていたのでございました。ですから法水さん、私がもしデイシャス(沙翁の「ジュリアス・シーザー」の中でブルタスの一味)でしたら、さしずめこの場合は、羽織の環にこう申すところでしょうよ。一角獣は樹によって欺かれ、熊は鏡により、象は穴によって――と」