足許には小さな階段が一つあって、そこから漆のような闇が覗いている。永年外気に触れたことのない陰湿な空気が、さながら屍温のようなぬくもりと、一種名状の出来ぬ黴臭さとを伴って、ドロリと流れ出てくる――文字どおりの鬼気だった。法水等三人は、さっそく懐中電燈を点して、肩を狭めながら階段を下りて行った。すると、そこは半畳敷ほどの板敷になっていて、そこまで来ると、今までは光線の加減で見えなかったスリッパの跡が、床に幾つとなく発見された。しかし、その中にはきわめて新しい一つがあって、それが一直線に階段の上まで続いているけれども、その小判形の痕には、たぶん静かに歩いたせいでもあろうか、前後の特徴さえも残っていないのである。したがって、はたしてそれが階段から下りて来たものか、それとも、奥の坑道から辿り来ったものか、勿論その識別は不可能なのであった。その時、周囲を照らしていた熊城がアッと叫んだ。見ると、右手の上方に、凄愴な生え際を見せた魔王バリ(印度ヴイシユヌ化身伝説に現われる悪魔の名)の木彫面が掛っていて、その左眼の瞳が、五分ばかり棒のような形で突き出ている。それを押すと、反対に右の方が持ち上ってきて、上から差し込む光線が狭められていった――積石が旧の位置に戻ったからである。それから法水は、そのスリッパの跡と歩幅の間隔とを計ってから、前方に切り開かれている短冊形の闇の中へ入って行った。実にそれからが、往昔羅馬皇帝トラヤヌスの時代に、執政官プリニウスが二人の女執事を使って、カリストゥス地下聖廊を探らせた際の、光景を髣髴とするものであった。
坑道の天井からは、永年の埃の堆積が鍾乳石のような形で垂れ下っていて、呼吸をするごとに細塵が飛散してきて、咽喉が擽られるように咽っぽかった。それでなくても、空気が新鮮でないために、妙に息苦しく、もしこの際松火を使ったとしたら、それは、輝かずに燻ぶり消えるだろうと思われた。それに、館中の響がこの空間には異様に轟いてきて、時折岐路ではないかと思ったり、また、人声のようにも聴えたりして、胸を躍らすのもしばしばであった。しかし、スリッパの跡はどこまでも消えずに彼等を導いていった。その足許には、雪を踏みしだくような感じで埃の堆積が崩れ、それを透かして、檞の冷たい感触が、頭の頂辺まで滲み透るのだった。こうして、この隧道旅行は、かれこれ二十分あまりも続いた。坑道は右に左に、また、ある部分は坂をなし、ほとんど記憶できぬほど曲折の限りを尽して、最後に左に曲ると、そこは袋戸棚のような行き詰りになっていた。そして、そこにも魔王バリの面が発見された。ああ、その石壁一重の彼方は、館の何処であろうか。法水は固唾を呑んで面の片眼を押した。すると、その右の扉は、熊城の肩を微かに掠って開かれたが、前方にも依然として闇は続いている。しかし、どこからとなく、寛かな風が訪れてきて、そこが広い空間であるのを思わせるのだった。
法水は前方の空間を目がけて、斜めに高く光を投げた。けれども、その光は、闇の中を空しく走ったのみで、何も映らなかった。それで、今度は一歩踏み込んで、頭上に向けると、そこには、醜い苦渋な相貌をした三人の男の顔が現われた。法水はそれによって、いっさいを知ることが出来たのである。聖パウロ、殉教者イグナチウス、コルドバの老証道人ホシウス……と壁面の彫像柱を、三つまでは数えたが、その声に俄然顫えが加わってきて、
「墓𥥔だよ、とうとう僕等は算哲の墓𥥔にやって来てしまったんだ」と狂わしげに叫んだ。
その声と同時に、熊城は二、三歩進んでいって、円い灯で前方を一の字に掃いた。すると、その中に幾つか石棺の姿が明滅して、明らかにこの一劃が、算哲の墓𥥔に相違ないことが分った。三人は切れ切れに音高い呼吸を始めた。いつぞやレヴェズが法水に云った、地精よ、いそしめ――の解釈が、今や幻から現実に移されようとしている。しかも、スリッパの跡は、中央にあってひときわ巨大な、算哲の棺台を目がけて、一文字に続いているのだ。その蓋には、軽鉄で作られた守護神聖ゲオルヒが横たわっていて、それは軽く擡げられた。恐らく、その時三人の心中には……算哲の棺台のみに脚がなくて、それが大理石の石積で作られていることから、たしか棺中にはファウスト博士の姿はなくて、そこからまた、地下に続く新しい坑道が設けられているように思われていた。
ところが、蓋が擡げられて、円い光がサッと差し入れられた時――思わず三人は、慄然としたものを感じて、跳び退いた。見よその中には、異形な骸骨が横たわっているではないか。静臥しているはずの膝が高く折り曲げられていて、両手は宙に浮き、指は何物かを掻かんとするもののように、無残な曲げ方をしている。しかも、三人が跳び退いた機みに、それがカサコソと鳴って、おまけになお薄気味悪いことには、肋骨の端が一、二本ポロリと欠け落ちて、それも灰のようにひしゃ潰れてしまうのだった。しかし、左肋骨には創傷の跡が残っていて、明らかにそれは、算哲の遺骸に相違ないのだった。
「算哲はやはり死んでいたのだ。すると、いったいあの指痕は、誰のものなんだろうか」と熊城を顧みて、検事は唸るような声で呟いた。がその時、法水の眼に妖しい光が閃いたかと思うと、顔を算哲の肋骨に押し付けて、動かなくなってしまった。実に意外千万にも、その胸骨には縦に刻まれている、異様な文字があったのである。
PATER! HOMO SUM!
「父よ、吾も人の子なり――」と法水は、その一行の羅甸文字を邦訳して口誦んだが、異様な発見はなおも続けられた。と云うのは、その彫字の縁に、所々金色をした微粒が輝いているのと、もう一つは、欠け落ちた歯の隙に、たぶん小鳥らしいと思われる、骸骨が突っ込まれていることだった。法水はその微粒を手に取って、しばらく眺めすかしていたが、