← Library‹ 黒死館殺人事件 第八篇 降矢木家の壊崩 三、父よ、吾も人の子なり

昨年さくねん問題もんだいの遺言ゆいごん書しょが発表はっぴょうされた――その席上せきじょうからいち早はやく出でて、算哲さんてつがそこへ達たっしない以前いぜんに、金庫きんこの中なかから、焼やき捨すてられた全文ぜんぶんを映うつし取とった乾板かんぱんを、取とり出だした人物じんぶつがなければならなかった。そうであるからして、その人物じんぶつの名なを印しるした伸子しんしの封書ふうしょを握にぎりしめて、法水のりみずが、心こころの中なかでそう叫さけんだのも当然とうぜんであると云いえよう。しかし、封ふうを切きって、内容なかみを一瞥いちべつした瞬間しゅんかんに、どうしたことか彼かれの瞳ひとみから輝かがやきが失うせ、全身ぜんしんの怒張どちょうがいっせいに弛ゆるんでしまって、その紙片しへんを力ちからなげに卓上たくじょうへ抛ほうり出だした。検事けんじが吃驚びっくりして覗のぞき込こんでみると、それには人ひとの名なはなく、次つぎの一句いっくが記しるされているのみだった。

――昔むかしツーレ(一いち)に聴耳筒ラウシュレーレン(二に)ありき。

注ちゅう(一いち)ツーレ――。ゲーテの「ファウスト」の中なかで、グレートヘンが唄うたう民謡みんようの最初さいしょの出で。その時ときファウストから指環ゆびわを与あたえられたのが開ひらけ緒いとぐちとなって、彼女かのじょの悲運ひうんが始はじまるのである。

(二に)聴ちょう耳じ筒とう――。西班牙スペイン宗教しゅうきょう審問しんもん所しょに設もうけられたのが最初さいしょ。ウファ映画えいが「会議かいぎが踊おどる」の中なかで、メテルニッヒがウエリントンの会話かいわなどを盗ぬすみ聴きくあれがそうである。

「なるほど、聴耳筒ラウシュレーレンか――。その恐おそろしさを知しっているのは、独ひとり伸子しんしのみならずさ」と法水ほうすいは、苦笑くしょうを交まじえながら独ひとり頷うなずきをして、「事実じじつも事実じじつ、ファウスト博士はかせの隠形聴耳筒おんぎょうラウシュレーレンたるや、時ときと場所ばしょとに論ろんなく、僕ぼく等とうの会話かいわを細大さいだい洩もらさず聴きき取とってしまうのだからね。だから、当然とうぜん迂闊うかつなことでもしようものなら、伸子しんしがグレートヘンの運命うんめいに陥おちいるのは判わかりきった話はなしなんだよ。必かならず何なんかの形かたちで、あの悪鬼あくきの耳みみが陰険いんけんな制裁せいさい方法ほうほうを採とらずにおくもんか」

「まず、それはいいとしてだ……。ところで、くどいようだけど、君きみがいま再現さいげんした神意しんい審問しんもん会かいの光景こうけいだがね」とその声こえに法水のりみずが見上みあげると、検事けんじの顔かおに疑うたがい深ぶかそうな皺しわが動うごいていた。「君きみは、ダンネベルグ夫人ふじんを第二視力者セカンド・サイターだと云いって、しかも驚おどろくべきことには、犯人はんにんがその幻覚げんかくを予期よきしていたと結論けつろんしている。けれども、そういうような、精神せいしんの超ちょう形而けいじ上じょう的てきな型式けいしきが――だ。仮かりにもし、軽々けいけいと予測よそくされ得えるものだと云いうのなら、君きみの論旨ろんしはとうてい曖昧あいまい以外いがいにはないな。けっして深奥しんおうだとは云いえない」

法水ほうすいはちょっと身み振ぶりをして皮肉ひにくな嘆息たんそくをしたが、検事けんじをまじまじと見詰みつめはじめて、「どうして、僕ぼくはヒルシュじゃあるまいし……。ダンネベルグ夫人ふじんをそれほど神秘しんぴ的てきな英雄えいゆうめいた――例たとえばスウェーデンボルグやオルレアンの少女おとめみたいな、慢性幻覚性偏執症パラノイア・ハルツィナトリア・クローニカだと云いうわけじゃないのだよ。ただ、夫人ふじんのある機能きのうが過度かどに発達はったつしているので、時偶ときたまそういう特性とくせいが、有機ゆうき的てきな刺戟しげきに遇あうと、感覚かんかくの上うえに技巧ぎこう的てきな抽象ちゅうしょうが作つくられてしまう。つまり、漠然ばくぜんと分離ぶんり散在さんざいしているものを、一ひとつの現実げんじつとして把握はあくしてしまうのだ。それに支倉はせくら君くん、フロイドは幻覚げんかくというものに、抑圧よくあつされたる願望がんぼうの象徴しょうちょう的てき描写びょうしゃ――という仮説かせつを立たてている。勿論もちろん夫人ふじんの場合ばあいでは、それが算哲さんてつの禁断きんだんに対たいする恐怖きょうふ――つまり云いうと、レヴェズとの冒おかしてはならぬ恋愛れんあい関係かんけいに起源きげんを発はっしていたのだ。それだから、犯人はんにんが夫人ふじんの幻覚げんかくを予期よきし得える条件じょうけんとしては、当然とうぜんその間あいだの経緯いきさつを熟知じゅくちしていなければならない。また、ひいてはそれが一案いちあんを編あみ出ださせて、屍体したい蝋燭ろうそくに水晶体凝視クリスタル・ゲージングを起おこすような、微妙びみょうな詭計きけいを施ほどこした。それで、夫人ふじんを軽かるい自己じこ催眠さいみんに誘さそったのだったよ。ところが支倉はせくら君くん、その潜せん勢せい状態じょうたいという観念かんねんが、僕ぼくに栄光えいこうを与あたえてくれた……」

そう鋭するどく言葉ことばを截たち切きって、それから黙々もくもくと考かんがえはじめたが、そのうち幾いくつかの莨たばこを換かえる間あいだに、法水のりみずは一ひとつの観念かんねんを捉とらえ得えたらしかった。彼かれは、旗はた太郎たろう・セレナ夫人ふじん・伸子しんしの三さん人にんを至急しきゅう喚よぶように命めいじてから、再ふたたび礼拝れいはい堂どうに降おりて行いった。人気にんきのないガランとした礼拝れいはい堂どうの内部ないぶには、いかにも佗わびしげな陰鬱いんうつな灰色はいいろをしたものが、いっぱいに立たち罩こめていて、上方かみがたに見透みとおしもつかぬほど拡ひろがっている闇やみが、天井てんじょうを異様いように低ひくく見みせた。その中なかに光ひかりと云いえば、聖せい壇だんに揺ゆれている微かすかな灯あかりのみで、それが、全体ぜんたいの空間くうかんをなおいっそう小ちいさく思おもわせた。そこから暗くらく生暖なまぬるい、まるで何なんかの胎内たいないででもあるかのような――それでいて、妙みょうに赭あかみを帯おびた闇やみが始はじまっていた。おまけに、その絶たえずはためいている金色きんいろの輪わには、見詰みつめていると眼めを痛いためるような熾烈しれつな感覚かんかくがあって、あたかもそれが、法水ほうすいの酷烈こくれつをきわめた熱意ねついと力ちから――成敗せいばいをこの一挙いっきょに決けっし、ファウスト博士はかせの頭上ずじょうに、地獄じごくの礎石そせき円柱えんちゅうを震ふるい動うごかさんばかりの刑罰けいばつ――を下くだそうとする、それのごとくに思おもわれるのだった。やがて、六ろく人にんは円卓テーブルを囲かこんで座ざに着ついた。その夜よるの旗はた太郎たろうは、平常ふだんなら身みごなしに浮うき身みをやつす彼かれには珍めずらしく、天鵞絨びろうどの短衣チョッキのみを着きていて、絶たえず伏ふく眼がんになったまま、その薄うす気味きみ悪わるいほどの光ひかりのある、白しろい手てを弄もてあそんでいた。その側かたわらに、伸子しんしの小ちいさい甲斐甲斐かいがいしい手てが――その乾杏ほしあんずのように、健康けんこうそうな艶あでやかさが、いとも可愛かわいらしげに照てり映はえているのである。しかし、セレナ夫人ふじんを見みると、相あい変かわらず恋こいの楯たてにでも見みるような、いかにも紋章もんしょう的てきな貴き婦人ふじんだった。けれども、その箍骨たがぼね張ばりの腰衣スカートに美斑いれぼくろとでも云いいたい古典こてん的てきな美うつくしさの蔭かげには、やはり、脈搏みゃくはくの遅おそい饒舌じょうぜつを忌いみ嫌きらうような、静寂主義者キエティストらしい静しずけさがあった。が、一座いちざの空気くうきは、明あきらかに一抹いちまつの危機ききをはらんでいた。それはあながち、津つ多子たしを除外じょがいした法水ほうすいの真意しんいが、奈辺なへんにあるや疑うたがうばかりでなく、それぞれに危懼きぐと劃策かくさくを胸むねに包つつんでいると見みえて、ちょっとの間あいだだったけれども、妙みょうに腹はらの探さぐり合あいでもしているかのような沈黙ちんもくが続つづいた。そのうち、セレナ夫人ふじんがチラと伸子しんしに流眄ながしめをくれると、恐おそらく反射はんしゃ的てきに口くちを突ついて出でたものがあった。

「法水のりみずさん、証言しょうげんに考慮こうりょを払はらうということが、だいたい捜査そうさ官かんの権威けんいに関かんしますの。確たしかに先刻さっきの方々かたがたは、伸子のぶこさんが動うごいた衣摺きぬずれの音おとを聴きいたのでしたわ」

「いいえ、竪琴ハープの前枠まえわくに手てをかけていて、私わたくしは、そのまま凝じっと息いきを凝こらしておりました」と伸子しんしは躊ためらわずに、自制じせいのある調子ちょうしで云いい返かえした。「ですから、長ちょう絃げんだけが鳴なったと云いうのなら、また聞きこえた話はなしですけど……。とにかく、貴女きじょ様さまの寓喩アレゴリーは、全然ぜんぜん実際じっさいとは反対はんたいなのでございます」

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