昨年問題の遺言書が発表された――その席上からいち早く出て、算哲がそこへ達しない以前に、金庫の中から、焼き捨てられた全文を映し取った乾板を、取り出した人物がなければならなかった。そうであるからして、その人物の名を印した伸子の封書を握りしめて、法水が、心の中でそう叫んだのも当然であると云えよう。しかし、封を切って、内容を一瞥した瞬間に、どうしたことか彼の瞳から輝きが失せ、全身の怒張がいっせいに弛んでしまって、その紙片を力なげに卓上へ抛り出した。検事が吃驚して覗き込んでみると、それには人の名はなく、次の一句が記されているのみだった。
――昔ツーレ(一)に聴耳筒(二)ありき。
注(一)ツーレ――。ゲーテの「ファウスト」の中で、グレートヘンが唄う民謡の最初の出。その時ファウストから指環を与えられたのが開緒となって、彼女の悲運が始まるのである。
(二)聴耳筒――。西班牙宗教審問所に設けられたのが最初。ウファ映画「会議が踊る」の中で、メテルニッヒがウエリントンの会話などを盗み聴くあれがそうである。
「なるほど、聴耳筒か――。その恐ろしさを知っているのは、独り伸子のみならずさ」と法水は、苦笑を交えながら独り頷きをして、「事実も事実、ファウスト博士の隠形聴耳筒たるや、時と場所とに論なく、僕等の会話を細大洩らさず聴き取ってしまうのだからね。だから、当然迂闊なことでもしようものなら、伸子がグレートヘンの運命に陥るのは判りきった話なんだよ。必ず何かの形で、あの悪鬼の耳が陰険な制裁方法を採らずにおくもんか」
「まず、それはいいとしてだ……。ところで、くどいようだけど、君がいま再現した神意審問会の光景だがね」とその声に法水が見上げると、検事の顔に疑い深そうな皺が動いていた。「君は、ダンネベルグ夫人を第二視力者だと云って、しかも驚くべきことには、犯人がその幻覚を予期していたと結論している。けれども、そういうような、精神の超形而上的な型式が――だ。仮りにもし、軽々と予測され得るものだと云うのなら、君の論旨はとうてい曖昧以外にはないな。けっして深奥だとは云えない」
法水はちょっと身振をして皮肉な嘆息をしたが、検事をまじまじと見詰めはじめて、「どうして、僕はヒルシュじゃあるまいし……。ダンネベルグ夫人をそれほど神秘的な英雄めいた――例えばスウェーデンボルグやオルレアンの少女みたいな、慢性幻覚性偏執症だと云うわけじゃないのだよ。ただ、夫人のある機能が過度に発達しているので、時偶そういう特性が、有機的な刺戟に遇うと、感覚の上に技巧的な抽象が作られてしまう。つまり、漠然と分離散在しているものを、一つの現実として把握してしまうのだ。それに支倉君、フロイドは幻覚というものに、抑圧されたる願望の象徴的描写――という仮説を立てている。勿論夫人の場合では、それが算哲の禁断に対する恐怖――つまり云うと、レヴェズとの冒してはならぬ恋愛関係に起源を発していたのだ。それだから、犯人が夫人の幻覚を予期し得る条件としては、当然その間の経緯を熟知していなければならない。また、ひいてはそれが一案を編み出させて、屍体蝋燭に水晶体凝視を起すような、微妙な詭計を施した。それで、夫人を軽い自己催眠に誘ったのだったよ。ところが支倉君、その潜勢状態という観念が、僕に栄光を与えてくれた……」
そう鋭く言葉を截ち切って、それから黙々と考えはじめたが、そのうち幾つかの莨を換える間に、法水は一つの観念を捉え得たらしかった。彼は、旗太郎・セレナ夫人・伸子の三人を至急喚ぶように命じてから、再び礼拝堂に降りて行った。人気のないガランとした礼拝堂の内部には、いかにも佗しげな陰鬱な灰色をしたものが、いっぱいに立ち罩めていて、上方に見透しもつかぬほど拡がっている闇が、天井を異様に低く見せた。その中に光と云えば、聖壇に揺れている微かな灯のみで、それが、全体の空間をなおいっそう小さく思わせた。そこから暗く生暖い、まるで何かの胎内ででもあるかのような――それでいて、妙に赭みを帯びた闇が始まっていた。おまけに、その絶えずはためいている金色の輪には、見詰めていると眼を痛めるような熾烈な感覚があって、あたかもそれが、法水の酷烈をきわめた熱意と力――成敗をこの一挙に決し、ファウスト博士の頭上に、地獄の礎石円柱を震い動かさんばかりの刑罰――を下そうとする、それのごとくに思われるのだった。やがて、六人は円卓を囲んで座に着いた。その夜の旗太郎は、平常なら身ごなしに浮き身をやつす彼には珍しく、天鵞絨の短衣のみを着ていて、絶えず伏眼になったまま、その薄気味悪いほどの光のある、白い手を弄んでいた。その側に、伸子の小さい甲斐甲斐しい手が――その乾杏のように、健康そうな艶やかさが、いとも可愛らしげに照り映えているのである。しかし、セレナ夫人を見ると、相変らず恋の楯にでも見るような、いかにも紋章的な貴婦人だった。けれども、その箍骨張りの腰衣に美斑とでも云いたい古典的な美しさの蔭には、やはり、脈搏の遅い饒舌を忌み嫌うような、静寂主義者らしい静けさがあった。が、一座の空気は、明らかに一抹の危機をはらんでいた。それはあながち、津多子を除外した法水の真意が、奈辺にあるや疑うばかりでなく、それぞれに危懼と劃策を胸に包んでいると見えて、ちょっとの間だったけれども、妙に腹の探り合いでもしているかのような沈黙が続いた。そのうち、セレナ夫人がチラと伸子に流眄をくれると、恐らく反射的に口を突いて出たものがあった。
「法水さん、証言に考慮を払うということが、だいたい捜査官の権威に関しますの。確かに先刻の方々は、伸子さんが動いた衣摺れの音を聴いたのでしたわ」
「いいえ、竪琴の前枠に手をかけていて、私は、そのまま凝っと息を凝らしておりました」と伸子は躊らわずに、自制のある調子で云い返した。「ですから、長絃だけが鳴ったと云うのなら、また聞えた話ですけど……。とにかく、貴女様の寓喩は、全然実際とは反対なのでございます」