「内惑星軌道半径⁉」このあまりに突飛な一言に眩惑されて、真斎は咄嗟に答える術を失ってしまった。法水は厳粛な調子で続けた。
「そうです。無論史家である貴方は、中世ウェールスを風靡したバルダス信経を御存じでしょう。あのドルイデ(九世紀レゲンスブルグの僧正魔法師)の流れを汲んだ、呪法経典の信条は何でしたろうか(宇宙にはあらゆる象徴瀰漫す。しかして、その神秘的な法則と配列の妙義は、隠れたる事象を人に告げ、あるいは予め告げ知らしむ。)」
「しかし、それが」
「つまり、その分析綜合の理を云うのです。私はある憎むべき人物が、博士を殺した微妙な方法を知ると同時に、初めて、占星術や錬金術の妙味を知ることが出来ました。確か博士は、室の中央で足を扉の方に向け、心臓に突き立てた短剣の束を固く握り締めて倒れていたのでしたね。しかし、入口の扉を中心にして、水星と金星の軌道半径を描くと、その中では、他殺のあらゆる証跡が消えてしまうのです」と法水は室の見取図に、別図のような二重の半円を描いてから、
「ところで、その前にぜひ知っておかねばならないのは、惑星の記号が或る化学記号に相当するという事なんです。Venus が金星であることは御承知でしょうが、その傍ら銅を表わしています。また、Mercury は、水星であると同時に、水銀の名にもなっているのです。しかし、古代の鏡は、青銅の薄膜の裏に水銀を塗って作られていたのですよ。そうすると、その鏡面に――つまり、この図では金星の後方に当るのですが、それには当然、帷幕の後方から進んで来る犯人の顔が映ることになりましょう。何故なら、金星の半径を水星の位置にまで縮めるということは、素晴らしい殺人技巧であったと同時に、犯行が行われてゆく方向も、また博士と犯人の動きさえも同時に表わしているからなんです。そして、しだいに犯人は、それを中央の太陽の位置にまで縮めてゆきました。太陽は、当時算哲博士が終焉を遂げた位置だったのです。しかし、背面の水銀が太陽と交わった際にいったい何が起ったと思いますか?」
ああ、内惑星軌道半径縮小を比喩にして、法水は何を語ろうとするのであろうか。検事も熊城も、近代科学の精を尽した法水の推理の中へ、まさかに錬金道士の蒼暗たる世界が、前期化学特有の類似律の原理とともに、現われ出ようとは思わなかった。
「ところで田郷さん、S一字でどういうものが表わされているでしょうか」と法水は、調子を弛めずに続けた。「第一に太陽、それから硫黄ですよ。ところが、水銀と硫黄との化合物は、朱ではありませんか。朱は太陽であり、また血の色です。つまり、扉の際で算哲の心臓が綻びたのです」
「なに、扉の際で……。これは滑稽な放言じゃ」と真斎は狂ったように、肱掛を叩き立てて、「貴方は夢を見ておる。まさに実状を顛倒した話じゃ。あの時血は、博士が倒れている周囲にしか流れておらなかったのです」
「それは、いったん縮めた半径を、犯人がすぐ旧どおりの位置に戻したからですよ。それから、もう一度Sの字を見るのです。まだあるでしょう。悪魔会議日、立法者……。そうです、まさしく立法者なんです。犯人はあの像のように……」と法水は、そこでいったん唇を閉じ、じいっと真斎を瞶めながら、次に吐く言葉との間の時間を、胸の中で秘かに計測しているかの様子だった。ところが、突然頃合を計って、
「あのように、立って歩くことの出来ない人間――それが犯人なんです」と鋭い声で云うと、不思議な事には、それとともに――解し難い異状が、真斎に起った。
それが、始め上体に衝動が起ったと見る間に、両眼を睜き口を喇叭形に開いて、ちょうどムンクの老婆に見るような無残な形となった。そして、絶えず唾を嚥み下そうとするもののような苦悶の状を続けていたが、そのうちようやく、
「おお、儂の身体を見るがいい。こんな不具者がどうして……」と辛くも嗄れ声を絞り出した。が、真斎には確か咽喉部に何か異常が起ったとみえて、その後も引き続き呼吸の困難に悩み、異様な吃音とともに激しい苦悶が現われるのだった。その有様を、法水は異常な冷やかさで見やりながら云い続けたが、その態度には、相変らず計測的なものが現われていて、彼は自分の言の速度に、周到な注意を払っているらしい。
「いや、その不具な部分を俟ってこそ、殺人を犯すことが出来たのですよ。僕は貴方の肉体でなく、その手働四輪車と敷物だけを見ているのです。たぶんヴェンヴェヌート・チェリニ(文芸復興期の大金工で驚くべき殺人者)が、カルドナツォ家のパルミエリ(ロムバルジヤ第一の大剣客)を斃したという事蹟を御存じでしょうが、腕で劣ったチェリニは、最初敷物を弛ませて置いて、中途でそれをピインと張らせ、パルミエリが足許を奪われて蹌踉くところを刺殺したのでした。しかし、算哲を斃すためには、その敷物を応用した文芸復興期の剣技が、けっして一場の伝奇ではなかったのです。つまり、内惑星軌道半径の縮伸というのは、要するに貴方が行った、敷物のそれにすぎなかったのですよ。さて、犯行の実際を説明しますかな」と云ってから、法水は検事と熊城に詰責気味な視線を向けた。「だいたい何故扉の浮彫を見ても、君達は、傴僂の眼が窪んでいるのに気がつかなかったのだね」
「なるほど、楕円形に凹んでいる」熊城はすぐ立って行って扉を調べたが、はたして法水の云うとおりだった。法水はそれを聴くと、会心の笑を真斎に向けて、
「ねえ田郷さん、その窪んでいる位置が、ちょうど博士の心臓の辺に当りはしませんか。それが、楕円形をしているのですから、護符刀の束頭であることは一目瞭然たるものです。そうなると、当然天寿を楽しむよりほかに自殺の動機など何一つなく、おまけにその日は、愛人の人形を抱いて若かった日の憶い出に耽ろうとしたほどの博士が、何故扉際に押し付けられて、心臓を貫いていたのでしょう」