← Library‹ 黒死館殺人事件 第三篇 黒死館精神病理学 一、風精……異名は?

Sylphusジルフス Verschwindenフェルシュヴィンデン(風精ジルフスよ。消きえ失うせよ)

鐘鳴器カリリヨン室しつに三みつあるうちの、中央ちゅうおうの扉とびら高たかくに、彼かれ等らの凝視ぎょうしを嘲あざけり返かえすかのごとく白々しらじらしい色いろで、再ふたたびファウストの五ご芒ぼう星せい呪文じゅもんの一句いっくが貼はり附つけられてあった。のみならず、Sylpheジルフェ の女性じょせいをそれにもまた男性だんせい化かしているばかりでなく、再ふたたび古こ愛蘭アイリッシュのような角張かどばったゴソニック文字もじで、それには筆者ひっしゃの性別せいべつは愚おろかなこと毛けのような髯線ぜんせん一筋ひとすじにさえ、筆蹟ひっせきの特徴とくちょうを窺うかがうことは許ゆるされなかったのである。あの緊密きんみつな包囲ほうい形けいをどう潜くぐり抜ぬけたものか、また伸子しんしが犯人はんにんで、法水のりみずの機智きちから発はっした包囲ほういを悟さとり、絶体ぜったい絶命ぜつめいの措置そちに出でたものであろうか……。いずれにしろここで、皮肉ひにくな倍音ばいおん演奏えんそうをした悪魔あくまを決定けっていしなければならなかった。

「これは意外いがいだ。失神しっしんじゃないか」伸子しんしの全身ぜんしんをスラスラ事務じむ的てきに調しらべ終おわると、法水のりみずは熊城くましろの靴くつをジロリと見みて、「微かすかだが心こころ動どうが聞きこえるし、呼吸こきゅうも浅あさいながら続つづけている。それに、このとおり瞳孔どうこう反応はんのうもしっかりしてるぜ」

そう法水ほうすいに宣告せんこくされてしまうと、つい今いましがた此奴こやつとばかりに肩口かたぐちを踏ふみ躙にじった熊くま城じょうでさえ、そろそろ自分じぶんの軽挙けいきょが悔くやまれてきた。と云いうのは、勿論もちろん鎧通よろいどおしを握にぎって、此の人を見よエッケ・ホモ――とばかりにのけ反ぞりかえっている、紙谷伸子かみたにのぶこの姿すがた体からだだったのである。それまでは、幽鬼ゆうきの不敵ふてきな暗躍あんやくにつれて、おどろと跳はね狂くるう、無数むすうの波頭なみがしらを見みるのみであって、事件じけんの表面ひょうめんには人影ひとかげ一ひとつ差さしてこなかった。そこへ、一条いちじょうの泡あわがスウッと立たち上のぼっていったのだが、それが水面すいめんで砕くだけたと思おもえば、突忽とっこつとして現あらわれたのは何なんあろう、現在げんざい眼まのあたり見みる鬼蓮おにばすなのである。それであるからして、熊くま城じょうでさえも一時いちじの亢奮こうふんが冷さめるにつれて、いろいろと疑心ぎしん暗鬼あんき的てきな警戒けいかいを始はじめたのも無理むりではなかった。まったく、意表いひょうを絶ぜっしたこの体態ていたらくを見みては、かえって反対はんたいの見解けんかいが有力ゆうりょくになってゆくではないか。易えき介すけの咽喉のどを抉えぐったと目もくされている短剣たんけんを握にぎり締しめて、伸子しんしはこれをとばかりに示しめしているけれども、一方いっぽうそれ以上いじょう厳密げんみつに、失神しっしんするまでの経路けいろが吟味ぎんみされねばならない。結論けつろんはその一ひとつだった。王妃おうひブズールが唱うたえば、雨あめとなって降ふり下くだって来くる――黒人ニグロの penis に、とうとうこの事件じけんの倒錯とうさく性せいが狂くるい着ついてしまったのである。

さてここで、鐘鳴器カリリヨン室しつの概景けいを説明せつめいしておく必要ひつようがあると思おもう。前篇ぜんぺんにも述のべたとおり、その室むろは礼拝れいはい堂どうの円蓋ドームに接せっしていて、振鐘ピールのある尖塔せんとうの最さい下部かぶに当あたっていた。そして、階段かいだんを上あがりきった所ところは、ほぼ半円はんえんをなした鍵形かぎがたの廊下ろうかになっていて、中央ちゅうおう――すなわち半円はんえんの頂天ちょうてんとその左右さゆうに三みつの扉とびらがあり、なお、室内しつないに入はいってから気きづいたことであったが、当時とうじ左端ひだりはしの一ひとつのみが開ひらかれていた。そこ一帯いったいの壁面へきめんを室内しつないから見みると、それが、音響おんきょう学がく的てきに設計せっけいされているのが判わかる。一口ひとくちに云いえば巨おおきな帆立ほたて貝かいであって、凹状おうじょうの楕円だえんと云いったら当あたるかもしれない。たぶんここに鐘鳴器カリリヨンを具そなえるまでは、四重奏団クワルテットの演奏えんそう室しつに当あてられていたのであろうが、したがって中央ちゅうおうの扉とびらにも、外観がいかん上じょう位置いち的てきに不ふ自然しぜんであるばかりでなく、後あとから壁かべを切きって作つくられたらしい形跡けいせきが残のこっていた。またその一ひとつのみが素晴すばらしく大おおきなもので、ほとんど三さんメートルを越こすかと思おもわれるほどの高たかさだった。そこから、向むこう側がわの壁かべまでの間あいだは、空がらんとした側柏てがしわの板張いたばりだった。そして、鐘鳴器カリリヨンの鍵盤けんばんは、壁かべを刳形くりがたに切きり抜ぬいて、その中なかに収おさめられてある。三十さんじゅう三さん個この鐘かね群ぐんはそれぞれの音階おんかいに調律ちょうりつされていて、すぐ直前ちょくぜんの天井てんじょうに吊つるされているが、それが鍵盤キイと蹈板ペダルとによって……その昔むかしカルヴィンが好このんで耳みみを傾かたむけ、またネーデルランドの運河うんがの水みずに乗のると、風車かざぐるまが独ひとりでに動うごくとか伝つたえられる、あの物寂ものさびた僧院そういん的てきな音おとを発はっする仕掛しかけになっていた。しかし、音響おんきょう学がく的てきな構造こうぞうは天井てんじょうにも及およんでいて、楕円だえん形けいの壁面へきめんから鍵盤キイにかけて緩かん斜しゃをなしている。しかもそれがちょうど響ひびき板いたのように、中央ちゅうおうに丸まる孔こうが空あき、その上うえが長ながい角柱かくばしら形がたの空間くうかんになっていた。そして、その両端りょうたんが、先刻さっき前庭ぜんていから見みた、十じゅう二に宮ぐうの円華窓えんげまどだった。おまけに、黄道おうどう上じょうの星宿せいしゅくが描えがかれている、絵齣えごまの一ひとつ一ひとつが、本ほん板いたから巧妙こうみょうな構造こうぞうで遊離ゆうりしているので、その周囲しゅういには、一いち辺へんを除のぞいて細ほそい空隙くうげきが作つくられ、しかも、空気くうきの波動はどうにつれて微かすかに振動しんどうする。それがなんとなく楽玻璃グラス・ハーモニカのようでもあるが、とにかく、その狭間はざまを通過つうかする音おとは、恐おそらく弱音よわね器きでもかけられたように柔やわげられるであろうから、鐘鳴器カリリヨン特有とくゆうの残響ざんきょうや、また、協和きょうわ絃げんをなしている音おとならば、どんなに早はやい速度そくどで奏そうしたにしても、ある程度ていどまでは混乱こんらんを防ふせぎ得えるのである。この装置そうちは三十さんじゅう三さん個この鐘かね群ぐんも同様どうようで、ベルリンのパロヒアル寺院じいんを模本もほんとしたものであるが、パロヒアル寺院じいんでは、反対はんたいにそれが、礼拝れいはい堂どうの内部ないぶに向むけて作つくられてある。こうして、法水ほうすいの調査ちょうさは円えん華か窓まど附近ふきんにも及およんだけれど、わずかに知しったのは、その外側そとがわを、尖塔せんとうに上のぼる鉄てつ梯子はしごが過よぎっているという一事いちじのみであった。

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