Sylphus Verschwinden(風精よ。消え失せよ)
鐘鳴器室に三つあるうちの、中央の扉高くに、彼等の凝視を嘲り返すかのごとく白々しい色で、再びファウストの五芒星呪文の一句が貼り附けられてあった。のみならず、Sylphe の女性をそれにもまた男性化しているばかりでなく、再び古愛蘭のような角張ったゴソニック文字で、それには筆者の性別は愚かなこと毛のような髯線一筋にさえ、筆蹟の特徴を窺うことは許されなかったのである。あの緊密な包囲形をどう潜り抜けたものか、また伸子が犯人で、法水の機智から発した包囲を悟り、絶体絶命の措置に出たものであろうか……。いずれにしろここで、皮肉な倍音演奏をした悪魔を決定しなければならなかった。
「これは意外だ。失神じゃないか」伸子の全身をスラスラ事務的に調べ終ると、法水は熊城の靴をジロリと見て、「微かだが心動が聞えるし、呼吸も浅いながら続けている。それに、このとおり瞳孔反応もしっかりしてるぜ」
そう法水に宣告されてしまうと、つい今しがた此奴とばかりに肩口を踏み躙った熊城でさえ、そろそろ自分の軽挙が悔まれてきた。と云うのは、勿論鎧通しを握って、此の人を見よ――とばかりにのけ反りかえっている、紙谷伸子の姿体だったのである。それまでは、幽鬼の不敵な暗躍につれて、おどろと跳ね狂う、無数の波頭を見るのみであって、事件の表面には人影一つ差してこなかった。そこへ、一条の泡がスウッと立ち上っていったのだが、それが水面で砕けたと思えば、突忽として現われたのは何あろう、現在眼のあたり見る鬼蓮なのである。それであるからして、熊城でさえも一時の亢奮が冷めるにつれて、いろいろと疑心暗鬼的な警戒を始めたのも無理ではなかった。まったく、意表を絶したこの体態を見ては、かえって反対の見解が有力になってゆくではないか。易介の咽喉を抉ったと目されている短剣を握り締めて、伸子はこれをとばかりに示しているけれども、一方それ以上厳密に、失神するまでの経路が吟味されねばならない。結論はその一つだった。王妃ブズールが唱えば、雨となって降り下って来る――黒人の penis に、とうとうこの事件の倒錯性が狂い着いてしまったのである。
さてここで、鐘鳴器室の概景を説明しておく必要があると思う。前篇にも述べたとおり、その室は礼拝堂の円蓋に接していて、振鐘のある尖塔の最下部に当っていた。そして、階段を上りきった所は、ほぼ半円をなした鍵形の廊下になっていて、中央――すなわち半円の頂天とその左右に三つの扉があり、なお、室内に入ってから気づいたことであったが、当時左端の一つのみが開かれていた。そこ一帯の壁面を室内から見ると、それが、音響学的に設計されているのが判る。一口に云えば巨きな帆立貝であって、凹状の楕円と云ったら当るかもしれない。たぶんここに鐘鳴器を具えるまでは、四重奏団の演奏室に当てられていたのであろうが、したがって中央の扉にも、外観上位置的に不自然であるばかりでなく、後から壁を切って作られたらしい形跡が残っていた。またその一つのみが素晴らしく大きなもので、ほとんど三メートルを越すかと思われるほどの高さだった。そこから、向う側の壁までの間は、空んとした側柏の板張りだった。そして、鐘鳴器の鍵盤は、壁を刳形に切り抜いて、その中に収められてある。三十三個の鐘群はそれぞれの音階に調律されていて、すぐ直前の天井に吊されているが、それが鍵盤と蹈板とによって……その昔カルヴィンが好んで耳を傾け、またネーデルランドの運河の水に乗ると、風車が独りでに動くとか伝えられる、あの物寂びた僧院的な音を発する仕掛になっていた。しかし、音響学的な構造は天井にも及んでいて、楕円形の壁面から鍵盤にかけて緩斜をなしている。しかもそれがちょうど響板のように、中央に丸孔が空き、その上が長い角柱形の空間になっていた。そして、その両端が、先刻前庭から見た、十二宮の円華窓だった。おまけに、黄道上の星宿が描かれている、絵齣の一つ一つが、本板から巧妙な構造で遊離しているので、その周囲には、一辺を除いて細い空隙が作られ、しかも、空気の波動につれて微かに振動する。それがなんとなく楽玻璃のようでもあるが、とにかく、その狭間を通過する音は、恐らく弱音器でもかけられたように柔げられるであろうから、鐘鳴器特有の残響や、また、協和絃をなしている音ならば、どんなに早い速度で奏したにしても、ある程度までは混乱を防ぎ得るのである。この装置は三十三個の鐘群も同様で、ベルリンのパロヒアル寺院を模本としたものであるが、パロヒアル寺院では、反対にそれが、礼拝堂の内部に向けて作られてある。こうして、法水の調査は円華窓附近にも及んだけれど、わずかに知ったのは、その外側を、尖塔に上る鉄梯子が過っているという一事のみであった。