← Library‹ 黒死館殺人事件 第三篇 黒死館精神病理学 二、死霊集会の所在

沃化ようか銀板ぎんばん――すでに感光かんこうしている乾板かんぱんを前まえにして、法水のりみずもさすが二にの句くが継つげなかった。事実じじつこの事件じけんとは、異常いじょうに隔絶かくぜつした対照たいしょうをなしているからであった。それなので、紆余曲折うよきょくせつをたどたどしく辿たどって行いって、最初さいしょからの経過けいかを吟味ぎんみしてみても、だいたい乾板かんぱんなどという感光かんこう物質ぶっしつによって、標章ひょうしょう形象けいしょう化かされる個所ところは勿論もちろんのことだが、それに投射とうしゃし暗喩あんゆするような、連れん字じ符ふ一ひとつさえ見出みいだされないのである。それがもし、実際じっさいに犯罪はんざい行動こうどうと関係かんけいあるものなら、恐おそらく神業かみわざであるかもしれない。こうして、しばらく死しんだような沈黙ちんもくが続つづいた。その間あいだ召使めしつかいが炉ろに松薪まつまきを投なげ入いれ、室内しつないが仄ぽっかり暖あたたまってくると、法水のりみずは焔ほのおの舌したを見みやりながら、微かすかに嘆息たんそくした。

「ああ、まるで恐竜ドラゴンの卵たまごじゃないか」

「だが、いったい何なんに必要ひつようだったのだろう?」と検事けんじは法水ほうすいの強喩法カタクレーズを平易へいいに述のべた。そして、開閉器スイッチを捻ひねると、

「まさか撮影さつえい用ようじゃあるまいが」と熊くま城じょうは、不意ふいの明あかるさに眼めを瞬しばたたきながら、「いや、死霊おばけは事実じじつかもしれん。第だい一いち、易えき介すけが目撃もくげきしたそうだが、昨夜さくや神意しんい審問しんもん会かいの最中さいちゅうに、隣室りんしつの張出はりだし縁えんで何者なにものかが動うごいていて、その人影ひとかげが地上ちじょうに何なんか落おとしたと云いうそうじゃないか。しかも、その時とき七しち人にんのうちで室へやを出でたものはなかったのだ。だいたい階下かいかの窓まどから落おとされたものなら、こんなに細こまかく割われる気遣きづかいはないよ」

「うん、その死霊おばけは恐おそらく事実じじつだろうよ」と法水ほうすいはプウと煙けむりの輪わを吐はいて、「しかし、彼奴あいつがその後あとに死しんでいるという事ことも、また事実じじつだろう」と意外いがいな奇説きせつを吐はいた。「だって、ダンネベルグ事件じけんとそれ以後いごのものを、二ふたつに区分くぶんして見み給たまえ。僕ぼくの持もっているあの逆説パラドックスが、綺麗きれいさっぱりと消きえてしまうじゃないか。つまり、風精ジルフェは水神ウンディネのいたのを知しって、それを殺ころしたのだ。けっして、あの二ふたつの呪文じゅもんが連続れんぞくしているのに、眩くらまされちゃならん。ただし、犯人はんにんは一人ひとりだよ」

「では、易えき介すけ以外いがいにも」熊くま城じょうは吃驚びっくりして眼めを円まるくしたが、それを検事けんじが抑おさえて、

「なあに、捨すてておき給たまえ。自分じぶんの空想くうそうに引ひっ張ぱり廻まわされているんだから」と法水ほうすいを嗜たしなめるように見みた。「どうも、君きみの説せつは世紀児的アンファン・デュ・シエクルだ。自然しぜんと平凡へいぼんを嫌きらっている。粋人すいじん的てきな技巧ぎこうには、けっして真性しんせいも良識りょうしきもないのだ。現げんに、先刻さっきも君きみは夢ゆめのような擬音ぎおんでもって、あの倍音ばいおんに空想くうそうを描えがいていた。しかし、同おなじような微かすかな音おとでも、伸子しんしの弾奏だんそうがそれに重かさなったとしたらどうするね?」

「これは驚おどろいた! 君きみはもうそんな年齢としごろになったのかね」と道化おどけした顔かおをしたが、法水のりみずは皮肉ひにくに微笑ほほえみ返かえして、「だいたいヘンゼンでもエーワルトでもそうだが、お互たがいに聴覚ちょうかく生理せいりの論争ろんそうはしていても、これだけは、はっきりと認みとめている。つまり、君きみの云いう場合ばあいに当あたる事ことだが……たとえば同おなじような音色ねいろで微かすかな音おとが二ふたつ重かさなったにしても、その音階おんかいの低ひくい方ほうは、内耳ないじの基礎きそ膜まくに振動しんどうを起おこさないと云いうのだ。ところが、老年ろうねん変化へんかが来くると、それが反対はんたいになってしまうのだよ」と検事けんじをきめつけてから、再ふたたび視線しせんを乾板かんぱんの上うえに落おとすと、彼かれの表情ひょうじょうの中なかに複雑ふくざつな変化へんかが起おこっていった。

「だが、この矛盾むじゅん的てき産物さんぶつはどうだ。僕ぼくにもさっぱり、この取とり合あわせの意味いみが呑のみ込こめんよ。しかし、ピインと響ひびいてくるものがある。それが妙みょうな声こえで、ツァラツストラはかく語かたりき――と云いうのだ」

「いったいニイチェがどうしたんだ?」今度こんどは検事けんじが驚おどろいてしまった。

「いや、シュトラウスの交響楽詩シムフォニック・ポエムでもないのさ。それが、陰陽教ゾロアスター(ツァラツストラが創始そうしせる波斯ぺるしゃ(ペルシヤ)の苦行くぎょう宗教しゅうきょう)の呪法じゅほう綱領こうりょうなんだよ。神格しんかくよりうけたる光ひかりは、その源みなもとの神かみをも斃たおす事ことあらん――と云いってね。勿論もちろんその呪文じゅもんの目的もくてきは、接神せっしんの法悦ほうえつを狙ねらっている。つまり、飢餓きが入神にゅうしんを行おこなう際さいに、その論法ろんぽうを続つづけると、苦行くぎょう僧そうに幻覚げんかくの統一とういつが起おこってくると云いうのだ」と法水ほうすいは彼かれに似にげない神かみ秘説ひせつを吐はいたが、云いうまでもなく、奥底おくそこ知しれない理性りせいの蔭かげに潜ひそんでいるものを、その場ば去さらずに秤量しょうりょうすることは不ふ可能かのうだった。しかし、法水ほうすいの言ことばを、神意しんい審問しんもん会かいの異変いへんと対照たいしょうしてみると、あるいは、死体したい蝋燭ろうそくの燭火しょくかをうけた乾板かんぱんが、ダンネベルグ夫人ふじんに算哲さんてつの幻像げんぞうを見みせて、意識いしきを奪うばったのではないか。――と云いうような幽玄ゆうげんきわまる暗示あんじが、しだいに濃厚のうこうとなってくるけれども、その矢先やさき思おもいがけなく、それをやや具体ぐたい的てきに仄ほのめかして、法水のりみずは立たち上のぼった。

「しかし、これでいよいよ、神意しんい審問しんもん会かいの再現さいげんが切実せつじつな問題もんだいになってきたよ。さて、裏庭うらにわへ行いって、この見取みとり図ずに書かいてある二に条じょうの足跡あしあとを調しらべることにするかな」

ところが、その途中とちゅう通とおりすがりに、階下かいかの図書としょ室しつの前まえまで来くると、法水のりみずは釘付くぎづけされたように立たち止どまってしまった。熊くま城じょうは時計とけいを眺ながめて、

「四よん時じ二十にじゅう分ふん――もうそろそろ、足許あしもとが分わからなくなってくるぜ。言語げんご学がくの蔵書ぞうしょなら後あとでもいいだろう」

「いや、鎮魂楽レキエムの原げん譜ふを見みるのさ」と法水ほうすいはキッパリ云いい切きって、他たの二人ふたりを面喰めんくらわせてしまった。しかしそれで、先刻さっきの演奏えんそう中ちゅう終止しゅうし符ふ近ちかくになって、二ふたつの提琴ヴァイオリンが弱音よわね器きをつけた――そのいかにも楽想がくそうを無視むししている不可解ふかかいな点てんに、法水のりみずが強つよい執着しゅうちゃくを持もっているのが判わかった。彼かれは背後はいごで、把手とってを廻まわしながら、続つづいて云いった。

「熊くま城じょう君くん、算哲さんてつという人物じんぶつは、実じつに偉大いだいな象徴派詩人サムボリストじゃないか。この尨大ぼうだいな館やかたもあの男おとこにとると、たかが『影かげと記号きごうで出来できた倉くら』にすぎないのだ。まるで天体てんたいみたいに、多おおくの標章ひょうしょうを打ぶち撒まけておいて、その類推るいすいと総合そうごうとで、ある一ひとつの恐おそろしいものを暗示あんじしようとしている。だから、そういう霧きりを中なかに置おいて事件じけんを眺ながめたところで、どうして何なんが判わかってくるもんか。あの得体えたいの知しれない性格せいかくは、あくまでも究明きゅうめいせんけりゃならんよ」

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