沃化銀板――すでに感光している乾板を前にして、法水もさすが二の句が継げなかった。事実この事件とは、異常に隔絶した対照をなしているからであった。それなので、紆余曲折をたどたどしく辿って行って、最初からの経過を吟味してみても、だいたい乾板などという感光物質によって、標章形象化される個所は勿論のことだが、それに投射し暗喩するような、連字符一つさえ見出されないのである。それがもし、実際に犯罪行動と関係あるものなら、恐らく神業であるかもしれない。こうして、しばらく死んだような沈黙が続いた。その間召使が炉に松薪を投げ入れ、室内が仄かり暖まってくると、法水は焔の舌を見やりながら、微かに嘆息した。
「ああ、まるで恐竜の卵じゃないか」
「だが、いったい何に必要だったのだろう?」と検事は法水の強喩法を平易に述べた。そして、開閉器を捻ると、
「まさか撮影用じゃあるまいが」と熊城は、不意の明るさに眼を瞬きながら、「いや、死霊は事実かもしれん。第一、易介が目撃したそうだが、昨夜神意審問会の最中に、隣室の張出縁で何者かが動いていて、その人影が地上に何か落したと云うそうじゃないか。しかも、その時七人のうちで室を出たものはなかったのだ。だいたい階下の窓から落されたものなら、こんなに細かく割れる気遣いはないよ」
「うん、その死霊は恐らく事実だろうよ」と法水はプウと煙の輪を吐いて、「しかし、彼奴がその後に死んでいるという事も、また事実だろう」と意外な奇説を吐いた。「だって、ダンネベルグ事件とそれ以後のものを、二つに区分して見給え。僕の持っているあの逆説が、綺麗さっぱりと消えてしまうじゃないか。つまり、風精は水神のいたのを知って、それを殺したのだ。けっして、あの二つの呪文が連続しているのに、眩まされちゃならん。ただし、犯人は一人だよ」
「では、易介以外にも」熊城は吃驚して眼を円くしたが、それを検事が抑えて、
「なあに、捨てておき給え。自分の空想に引っ張り廻されているんだから」と法水を嗜めるように見た。「どうも、君の説は世紀児的だ。自然と平凡を嫌っている。粋人的な技巧には、けっして真性も良識もないのだ。現に、先刻も君は夢のような擬音でもって、あの倍音に空想を描いていた。しかし、同じような微かな音でも、伸子の弾奏がそれに重なったとしたらどうするね?」
「これは驚いた! 君はもうそんな年齢になったのかね」と道化した顔をしたが、法水は皮肉に微笑み返して、「だいたいヘンゼンでもエーワルトでもそうだが、お互いに聴覚生理の論争はしていても、これだけは、はっきりと認めている。つまり、君の云う場合に当る事だが……たとえば同じような音色で微かな音が二つ重なったにしても、その音階の低い方は、内耳の基礎膜に振動を起さないと云うのだ。ところが、老年変化が来ると、それが反対になってしまうのだよ」と検事をきめつけてから、再び視線を乾板の上に落すと、彼の表情の中に複雑な変化が起っていった。
「だが、この矛盾的産物はどうだ。僕にもさっぱり、この取り合わせの意味が呑み込めんよ。しかし、ピインと響いてくるものがある。それが妙な声で、ツァラツストラはかく語りき――と云うのだ」
「いったいニイチェがどうしたんだ?」今度は検事が驚いてしまった。
「いや、シュトラウスの交響楽詩でもないのさ。それが、陰陽教(ツァラツストラが創始せる波斯(ペルシヤ)の苦行宗教)の呪法綱領なんだよ。神格よりうけたる光は、その源の神をも斃す事あらん――と云ってね。勿論その呪文の目的は、接神の法悦を狙っている。つまり、飢餓入神を行う際に、その論法を続けると、苦行僧に幻覚の統一が起ってくると云うのだ」と法水は彼に似げない神秘説を吐いたが、云うまでもなく、奥底知れない理性の蔭に潜んでいるものを、その場去らずに秤量することは不可能だった。しかし、法水の言を、神意審問会の異変と対照してみると、あるいは、死体蝋燭の燭火をうけた乾板が、ダンネベルグ夫人に算哲の幻像を見せて、意識を奪ったのではないか。――と云うような幽玄きわまる暗示が、しだいに濃厚となってくるけれども、その矢先思いがけなく、それをやや具体的に仄めかして、法水は立ち上った。
「しかし、これでいよいよ、神意審問会の再現が切実な問題になってきたよ。さて、裏庭へ行って、この見取図に書いてある二条の足跡を調べることにするかな」
ところが、その途中通りすがりに、階下の図書室の前まで来ると、法水は釘付けされたように立ち止ってしまった。熊城は時計を眺めて、
「四時二十分――もうそろそろ、足許が分らなくなってくるぜ。言語学の蔵書なら後でもいいだろう」
「いや、鎮魂楽の原譜を見るのさ」と法水はキッパリ云い切って、他の二人を面喰わせてしまった。しかしそれで、先刻の演奏中終止符近くになって、二つの提琴が弱音器をつけた――そのいかにも楽想を無視している不可解な点に、法水が強い執着を持っているのが判った。彼は背後で、把手を廻しながら、続いて云った。
「熊城君、算哲という人物は、実に偉大な象徴派詩人じゃないか。この尨大な館もあの男にとると、たかが『影と記号で出来た倉』にすぎないのだ。まるで天体みたいに、多くの標章を打ち撒けておいて、その類推と総合とで、ある一つの恐ろしいものを暗示しようとしている。だから、そういう霧を中に置いて事件を眺めたところで、どうして何が判ってくるもんか。あの得体の知れない性格は、あくまでも究明せんけりゃならんよ」