靄が下りていた。何時も厳しく機械的に組合わさっている通風パイプ、煙筒、ウインチの腕、吊り下がっている川崎船、デッキの手すり、などが、薄ぼんやり輪廓をぼかして、今までにない親しみをもって見えていた。柔かい、生ぬるい空気が、頬を撫でて流れる。――こんな夜はめずらしかった。
トモのハッチに近く、蟹の脳味噌の匂いがムッとくる。網が山のように積さっている間に、高さの跛な二つの影が佇んでいた。
過労から心臓を悪くして、身体が青黄く、ムクンでいる漁夫が、ドキッ、ドキッとくる心臓の音でどうしても寝れず、甲板に上ってきた。手すりにもたれて、フ糊でも溶かしたようにトロッとしている海を、ぼんやり見ていた。この身体では監督に殺される。然し、それにしては、この遠いカムサツカで、しかも陸も踏めずに死ぬのは淋し過ぎる。――すぐ考え込まさった。その時、網と網の間に、誰かいるのに漁夫が気付いた。
蟹の甲殻の片を時々ふむらしく、その音がした。
ひそめた声が聞こえてきた。
漁夫の眼が慣れてくると、それが分ってきた。十四、五の雑夫に漁夫が何か云っているのだった。何を話しているのかは分らなかった。後向きになっている雑夫は、時々イヤ、イヤをしている子供のように、すねているように、向きをかえていた。それにつれて、漁夫もその通り向きをかえた。それが少しの間続いた。漁夫は思わず(そんな風だった)高い声を出した。が、すぐ低く、早口に何か云った。と、いきなり雑夫を抱きすくめてしまった。喧嘩だナ、と思った。着物で口を抑えられた「むふ、むふ……」という息声だけが、一寸の間聞えていた。然し、そのまま動かなくなった。――その瞬間だった。柔かい靄の中に、雑夫の二本の足がローソクのように浮かんだ。下半分が、すっかり裸になってしまっている。それから雑夫はそのまま蹲んだ。と、その上に、漁夫が蟇のように覆いかぶさった。それだけが「眼の前」で、短かい――グッと咽喉につかえる瞬間に行われた。見ていた漁夫は、思わず眼をそらした。酔わされたような、撲ぐられたような興奮をワクワクと感じた。
漁夫達はだんだん内からむくれ上ってくる性慾に悩まされ出してきていた。四カ月も、五カ月も不自然に、この頑丈な男達が「女」から離されていた。――函館で買った女の話や、露骨な女の陰部の話が、夜になると、きまって出た。一枚の春画がボサボサに紙に毛が立つほど、何度も、何度もグルグル廻された。
…………
床とれの、
こちら向けえの、
口すえの、
足をからめの、
気をやれの、
ホンに、つとめはつらいもの。
誰か歌った。すると、一度で、その歌が海綿にでも吸われるように、皆に覚えられてしまった。何かすると、すぐそれを歌い出した。そして歌ってしまってから、「えッ、畜生!」と、ヤケに叫んだ、眼だけ光らせて。
漁夫達は寝てしまってから、
「畜生、困った! どうしたって眠れないや」と、身体をゴロゴロさせた。「駄目だ、伜が立って!」
「どうしたら、ええんだ!」――終いに、そう云って、勃起している睾丸を握りながら、裸で起き上ってきた。大きな身体の漁夫の、そうするのを見ると、身体のしまる、何か凄惨な気さえした。度胆を抜かれた学生は、眼だけで隅の方から、それを見ていた。
夢精をするのが何人もいた。誰もいない時、たまらなくなって自涜をするものもいた。――棚の隅にカタのついた汚れた猿又や褌が、しめっぽく、すえた臭いをして円められていた。学生はそれを野糞のように踏みつけることがあった。
――それから、雑夫の方へ「夜這い」が始まった。バットをキャラメルに換えて、ポケットに二つ三つ入れると、ハッチを出て行った。
便所臭い、漬物樽の積まさっている物置を、コックが開けると、薄暗い、ムッとする中から、いきなり横ッ面でもなぐられるように、怒鳴られた。
「閉めろッ! 今、入ってくると、この野郎、タタキ殺すぞ!」
× × ×
無電係が、他船の交換している無電を聞いて、その収獲を一々監督に知らせた。それで見ると、本船がどうしても負けているらしい事が分ってきた。監督がアセリ出した。すると、テキ面にそのことが何倍かの強さになって、漁夫や雑夫に打ち当ってきた。――何時でも、そして、何んでもドン詰りの引受所が「彼等」だけだった。監督や雑夫長はわざと「船員」と「漁夫、雑夫」との間に、仕事の上で競争させるように仕組んだ。
同じ蟹つぶしをしていながら、「船員に負けた」となると、(自分の儲けになる仕事でもないのに)漁夫や雑夫は「何に糞ッ!」という気になる。監督は「手を打って」喜んだ。今日勝った、今日負けた、今度こそ負けるもんか――血の滲むような日が滅茶苦茶に続く。同じ日のうちに、今までより五、六割も殖えていた。然し五日、六日になると、両方とも気抜けしたように、仕事の高がズシ、ズシ減って行った。仕事をしながら、時々ガクリと頭を前に落した。監督はものも云わないで、なぐりつけた。不意を喰らって、彼等は自分でも思いがけない悲鳴を「キャッ!」とあげた。――皆は敵同志か、言葉を忘れてしまった人のように、お互にだまりこくって働いた。ものを云うだけのぜいたくな「余分」さえ残っていなかった。
監督は然し、今度は、勝った組に「賞品」を出すことを始めた。燻りかえっていた木が、又燃え出した。
「他愛のないものさ」監督は、船長室で、船長を相手にビールを飲んでいた。
船長は肥えた女のように、手の甲にえくぼが出ていた。器用に金口をトントンとテーブルにたたいて、分らない笑顔で答えた。――船長は、監督が何時でも自分の眼の前で、マヤマヤ邪魔をしているようで、たまらなく不快だった。漁夫達がワッと事を起して、此奴をカムサツカの海へたたき落すようなことでもないかな、そんな事を考えていた。
監督は「賞品」の外に、逆に、一番働きの少いものに「焼き」を入れることを貼紙した。鉄棒を真赤に焼いて、身体にそのまま当てることだった。彼等は何処まで逃げても離れない、まるで自分自身の影のような「焼き」に始終追いかけられて、仕事をした。仕事が尻上りに、目盛りをあげて行った。