← Library‹ 蒲団 六

一いち日にち置おいて今夜こんやの六ろく時じに新橋しんばしに着つくという電報でんぽうがあった。電報でんぽうを持もって、芳子よしこはまごまごしていた。けれど夜よるひとり若わかい女おんなを出だして遣やる訳わけに行いかぬので、新橋しんばしへ迎むかえに行いくことは許ゆるさなかった。

翌日よくじつは逢あって達たって諌いさめてどうしても京都きょうとに還かえらせるようにすると言いって、芳子よしこはその恋人こいびとの許もとを訪とうた。その男おとこは停車ていしゃ場じょう前まえのつるやという旅館はたごやに宿とまっているのである。

時雄ときおが社しゃから帰かえった時ときには、まだとても帰かえるまいと思おもった芳子よしこが既すでにその笑顔えがおを玄関げんかんにあらわしていた。聞きくと田中たなかは既すでにこうして出でて来きた以上いじょう、どうしても京都きょうとには帰かえらぬとのことだ。で、芳子よしこは殆ほとんど喧嘩けんかをするまでに争あらそったが、矢や張ばり断だんとして可きかぬ。先生せんせいを頼たよりにして出京しゅっきょうしたのではあるが、そう聞きけば、なるほど御尤ごもっともである。監督かんとく上じょう都合つごうの悪わるいというのもよく解わかりました。けれど今更いまさら帰かえれませぬから、自分じぶんで如何いかようにしても自活じかつの道みちを求もとめて目的もくてき地ちに進すすむより他ほかはないとまで言いったそうだ。時雄ときおは不快ふかいを感かんじた。

時雄ときおは一時いちじは勝手かってにしろと思おもった。放ほうっておけとも思おもった。けれど圏内けんないの一員いちいんたるかれにどうして全まったく風馬牛ふうばぎゅうたることを得えようぞ。芳子よしこはその後ご二三にさん日にち訪問ほうもんした形跡けいせきもなく、学校がっこうの時間じかんには正確せいかくに帰かえって来くるが、学校がっこうに行いくと称しょうして恋人こいびとの許もとに寄よりはせぬかと思おもうと、胸むねは疑惑ぎわくと嫉妬しっととに燃もえた。

時雄ときおは懊悩おうのうした。その心こころは日ひに幾いく遍へんとなく変かわった。ある時ときは全まったく犠牲ぎせいになって二人ふたりの為ために尽つくそうと思おもった。ある時ときはこの一伍一什いちぶしじゅうを国くにに報ほうじて一挙いっきょに破壊はかいして了しまおうかと思おもった。けれどこの何いずれをも敢あえてすることの出来できぬのが今いまの心こころの状態じょうたいであった。

細君さいくんが、ふと、時雄ときおに耳語じごした。

「あなた、二に階かいでは、これよ」と針はりで着物きものを縫ぬう真似まねをして、小声こごえで、「きっと……上あげるんでしょう。紺絣こんがすりの書生しょせい羽織はおり! 白しろい木綿もめんの長ながい紐ひもも買かってありますよ」

「本当ほんとうか?」

「え」

と細君さいくんは笑わらった。

時雄ときおは笑わらうどころではなかった。

芳子よしこが今日きょうは先生せんせい少すこし遅おそくなりますからと顔かおを赧あかくして言いった。「彼処あすこに行いくのか」と問とうと、「いいえ! 一寸ちょっと友達ともだちの処ところに用ようがあって寄よって来きますから」

その夕暮ゆうぐれ、時雄ときおは思おもえ切きって、芳子よしこの恋人こいびとの下宿げしゅくを訪問ほうもんした。

「まことに、先生せんせいにはよう申訳もうしわけがありまえんのやけれど……」長ながい演説えんぜつ調ちょうの雄弁ゆうべんで、形式けいしき的てきの申訳もうしわけをした後あと、田中たなかという中脊ちゅうぜいの、少すこし肥こえた、色いろの白しろい男おとこが祈祷きとうをする時ときのような眼色がんしょくをして、さも同情どうじょうを求もとめるように言いった。

時雄ときおは熱ねっしていた。「然しかし、君きみ、解わかったら、そうしたら好よいじゃありませんか、僕ぼくは君きみ等らの将来しょうらいを思おもって言いうのです。芳子よしこは僕ぼくの弟子でしです。僕ぼくの責任せきにんとして、芳子よしこに廃学はいがくさせるには忍しのびん。君きみが東京とうきょうにどうしてもいると言ゆうなら、芳子よしこを国くにに帰かえすか、この関係かんけいを父母ふぼに打明うちあけて許可きょかを乞こうか、二ふたつの中なか一ひとつを選えらばんければならん。君きみは君きみの愛あいする女おんなを君きみの為ために山やまの中なかに埋もらせるほどエゴイスチックな人間にんげんじゃありますまい。君きみは宗教しゅうきょうに従事じゅうじすることが今度こんどの事件じけんの為ために厭いやになったと謂いうが、それは一種いっしゅの考かんがえで、君きみは忍しのんで、京都きょうとに居おりさえすれば、万事ばんじ円満えんまんに、二人ふたりの間柄あいだがらも将来しょうらい希望きぼうがあるのですから」

「よう解わかっております……」

「けれど出来できんですか」

「どうも済すみませんけど……制服せいふくも帽子ぼうしも売うってしもうたで、今更いまさら帰かえるにも帰かえれまえんという次第しだいで……」

「それじゃ芳子よしこを国くにに帰かえすですか」

かれは黙だまっている。

「国くにに言いって遣やりましょうか」

矢や張ばり黙だまっていた。

「私わたくしの東京とうきょうに参まいりましたのは、そういうことには寧むしろ関係かんけいしない積つもりでおます。別段べつだんこちらに居おりましても、二人ふたりの間あいだにはどうという……」

「それは君きみはそう言ゆうでしょう。けれど、それでは私わたくしは監督かんとくは出来できん。恋こいはいつ惑溺わくできするかも解わからん」

「私わたくしはそないなことは無ないつもりですけどナ」

「誓ちかい得えるですか」

「静しずかに、勉強べんきょうして行いかれさえすれァナ、そないなことありませんけどナ」

「だから困こまるのです」

こういう会話かいわ――要領ようりょうを得えない会話かいわを繰返くりかえして長ながく相対そうたいした。時雄ときおは将来しょうらいの希望きぼうという点てん、男子だんしの犠牲ぎせいという点てん、事件じけんの進行しんこうという点てんからいろいろさまざまに帰国きこくを勧すすめた。時雄ときおの眼めに映えいじた田中たなか秀夫ひでおは、想像そうぞうしたような一いち箇秀麗しゅうれいな丈夫じょうふでもなく天才てんさい肌はだの人ひととも見みえなかった。麹町こうじまち三さん番ばん町ちょう通とおりの安やす旅人宿はたご、三方みかた壁へきでしきられた暑あつい室むろに初はじめて相対そうたいした時とき、先まずかれの身みに迫せまったのは、基督キリスト教きょうに養やしなわれた、いやに取澄とりすました、年ねんに似合にあわぬ老成ろうせいな、厭いやな不ふ愉快ゆかいな態度たいどであった。京都きょうと訛なまりの言葉ことば、色いろの白しろい顔かお、やさしいところはいくらかはあるが、多おおい青年せいねんの中なかからこうした男おとこを特とくに選えらんだ芳子よしこの気きが知しれなかった。殊ことに時雄ときおが最もっとも厭いやに感かんじたのは、天真てんしん流露りゅうろという率直そっちょくなところが微塵みじんもなく、自己じこの罪悪ざいあくにも弱点じゃくてんにも種々いろいろの理由りゆうを強しいてつけて、これを弁解べんかいしようとする形式けいしき的てき態度たいどであった。とは言いえ、実じつを言いえば、時雄ときおの激はげしい頭脳あたまには、それがすぐ直覚ちょっかく的てきに明あきらかに映うつったと云いうではなく、座敷ざしきの隅すみに置おかれた小ちいさい旅鞄たびかばんや憐あわれにもしおたれた白地しろじの浴衣ゆかたなどを見みると、青年せいねん空想くうそうの昔むかしが思おもい出だされて、こうした恋こいの為ため、煩悶はんもんもし、懊悩おうのうもしているかと思おもって、憐憫れんびんの情じょうも起おこらぬではなかった。

この暑あつい一室いっしつに相対そうたいして、趺坐あぐらをもかかず、二人ふたりは尠すくなくとも一いち時間じかん以上いじょう語かたった。話はなしは遂ついに要領ようりょうを得えなかった。「先まず今いま一いち度ど考かんがえ直なおして見み給たまえ」くらいが最後さいごで、時雄ときおは別わかれて帰途きとに就ついた。

何なんだか馬鹿ばからしいような気きがした。愚ぐなる行為こういをしたように感かんじられて、自みずからその身みを嘲笑ちょうしょうした。心こころにもないお世辞せじをも言いい、自分じぶんの胸むねの底そこの秘密ひみつを蔽おおう為ためには、二人ふたりの恋こいの温情おんじょうなる保護ほご者しゃとなろうとまで言いったことを思おもい出だした。安あん飜訳ほんやくの仕事しごとを周旋しゅうせんして貰もらう為ため、某氏ぼうしに紹介しょうかいの労ろうを執とろうと言いったことをも思おもい出だした。そして自分じぶんながら自分じぶんの意気いき地ちなく好こう人物じんぶつなのを罵ののしった。

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