← Library‹ 李陵 三

乱軍らんぐんの中なかに気きを失うしなった李陵りりょうが獣脂じゅうしを灯ともし獣糞じゅうふんを焚たいた単于ぜんうの帳房ちょうぼうの中なかで目めを覚さましたとき、咄嗟とっさに彼かれは心こころを決きめた。自みずから首くび刎はねて辱はずかしめを免まぬがれるか、それとも今いま一応いちおうは敵てきに従したがっておいてそのうちに機きを見みて脱走だっそうする――敗軍はいぐんの責せめを償つぐなうに足たる手柄てがらを土産みやげとして――か、この二ふたつのほかに途みちはないのだが、李陵りりょうは、後者こうしゃを選えらぶことに心こころを決きめたのである。

単于ぜんうは手てずから李陵りりょうの縄なわを解といた。その後あとの待遇たいぐうも鄭重ていちょうを極きわめた。且鞮侯そていこう単于ぜんうとて先代せんだいの呴犁湖くりこ単于ぜんうの弟おとうとだが、骨骼こっかくの逞たくましい巨眼きょがん赭髯しゃぜんの中年ちゅうねんの偉丈夫いじょうふである。数すう代だいの単于ぜんうに従したがって漢かんと戦たたかってはきたが、まだ李陵りりょうほどの手強てごわい敵てきに遭あったことはないと正直しょうじきに語かたり、陵りょうの祖父そふ李広りこうの名なを引合ひきあいに出だして陵りょうの善戦ぜんせんを讃ほめた。虎とらを格殺かくさつしたり岩いわに矢やを立たてたりした飛将軍ひしょうぐん李広りこうの驍名ぎょうめいは今いまもなお胡地こちにまで語かたり伝つたえられている。陵りょうが厚遇こうぐうを受うけるのは、彼かれが強つよき者ものの子孫しそんでありまた彼かれ自身じしんも強つよかったからである。食しょくを頒わけるときも強壮きょうそう者しゃが美味びみをとり老弱ろうじゃく者しゃに余あまり物ものを与あたえるのが匈奴きょうどのふうであった。ここでは、強つよき者ものが辱はずかしめられることはけっしてない。降将こうしょう李陵りりょうは一ひとつの穹盧きゅうろと数十すうじゅう人にんの侍者じしゃとを与あたえられ賓客ひんきゃくの礼れいをもって遇ぐうせられた。

李陵りりょうにとって奇異きいな生活せいかつが始はじまった。家いえは絨帳じゅうちょう穹盧きゅうろ、食物しょくもつは羶肉せんにく、飲物のみものは酪漿らくしょうと獣けもの乳ちちと乳醋酒にゅうさくしゅ。着物きものは狼おおかみや羊ひつじや熊くまの皮かわを綴つづり合あわせた旃裘せんきゅう。牧畜ぼくちくと狩猟しゅりょうと寇掠こうりゃくと、このほかに彼かれらの生活せいかつはない。一望際涯いちぼうさいがいのない高原こうげんにも、しかし、河かわや湖みずうみや山々やまやまによる境界きょうかいがあって、単于ぜんう直轄地ちょっかつちのほかは左賢王さけんおう右賢うけん王おう左谷蠡王さろくりおう右みぎ谷たに蠡王おう以下いかの諸しょ王侯おうこうの領地りょうちに分わけられており、牧民ぼくみんの移住いじゅうはおのおのその境界きょうかいの中なかに限かぎられているのである。城郭じょうかくもなければ田畑たはたもない国くに。村落そんらくはあっても、それが季節きせつに従したがい水草みずくさを逐おって土地とちを変かえる。

李陵りりょうには土地とちは与あたえられない。単于ぜんう麾下きかの諸将しょしょうとともにいつも単于ぜんうに従したがっていた。隙すきがあったら単于ぜんうの首くびでも、と李陵りりょうは狙ねらっていたが、容易よういに機会きかいが来こない。たとい、単于ぜんうを討うち果はたしたとしても、その首くびを持もって脱出だっしゅつすることは、非常ひじょうな機会きかいに恵めぐまれないかぎり、まず不ふ可能かのうであった。胡地こちにあって単于ぜんうと刺違さしちがえたのでは、匈奴きょうどは己おのれの不ふ名誉めいよを有耶無耶うやむやのうちに葬ほうむってしまうこと必定ひつじょうゆえ、おそらく漢おとこに聞きこえることはあるまい。李陵りりょうは辛抱強しんぼうづよく、その不ふ可能かのうとも思おもわれる機会きかいの到来とうらいを待まった。

単于ぜんうの幕下ばっかには、李陵りりょうのほかにも漢かんの降人こうじんが幾いく人にんかいた。その中なかの一人ひとり、衛律えいりつという男おとこは軍人ぐんじんではなかったが、丁霊王ていれいおうの位くらいを貰もらって最もっとも重おもく単于ぜんうに用もちいられている。その父ちちは胡人こじんだが、故ゆえあって衛えい律ただしは漢かんの都とで生うまれ成長せいちょうした。武帝ぶていに仕つかえていたのだが、先年せんねん協律都尉きょうりつとい李延年りえんねんの事ことに坐ざするのを懼おそれて、亡にげて匈奴きょうどに帰きしたのである。血ちが血ちだけに胡風こふうになじむことも速はやく、相当そうとうの才物さいぶつでもあり、常つねに且鞮侯そていこう単于ぜんうの帷幄いあくに参さんじてすべての画策かくさくに与あずかっていた。李陵りりょうはこの衛えい律ただしを始はじめ、漢人かんじんの降くだって匈奴きょうどの中なかにあるものと、ほとんど口くちをきかなかった。彼かれの頭あたまの中なかにある計画けいかくについて事ことをともにすべき人物じんぶつがいないと思おもわれたのである。そういえば、他たの漢人かんじん同士どうしの間あいだでもまた、互たがいに妙みょうに気きまずいものを感かんじるらしく、相互そうごに親したしく交まじわることがないようであった。

一いち度ど単于ぜんうは李陵りりょうを呼よんで軍略ぐんりゃく上じょうの示教しきょうを乞こうたことがある。それは東胡とうこに対たいしての戦たたかいだったので、陵りょうは快こころよく己おのが意見いけんを述のべた。次つぎに単于ぜんうが同おなじような相談そうだんを持もちかけたとき、それは漢軍かんぐんに対たいする策戦さくせんについてであった。李陵りりょうはハッキリと嫌いやな表情ひょうじょうをしたまま口くちを開ひらこうとしなかった。単于ぜんうも強しいて返答へんとうを求もとめようとしなかった。それからだいぶ久ひさしくたったころ、代だい・上郡かみごおりを寇掠こうりゃくする軍隊ぐんたいの一将いっしょうとして南みなみ行ぎょうすることを求もとめられた。このときは、漢かんに対たいする戦たたかいには出でられない旨むねを言いってキッパリ断ことわった。爾後じご、単于ぜんうは陵りょうにふたたびこうした要求ようきゅうをしなくなった。待遇たいぐうは依然いぜんとして変かわらない。他ほかに利用りようする目的もくてきはなく、ただ士しを遇ぐうするために士しを遇ぐうしているのだとしか思おもわれない。とにかくこの単于ぜんうは男おとこだと李陵りりょうは感かんじた。

単于ぜんうの長子ちょうし・左賢王さけんおうが妙みょうに李陵りりょうに好意こういを示しめしはじめた。好意こういというより尊敬そんけいといったほうが近ちかい。二十にじゅう歳さいを越こしたばかりの・粗野そやではあるが勇気ゆうきのある真面目まじめな青年せいねんである。強つよき者しゃへの讃美さんびが、実じつに純粋じゅんすいで強烈きょうれつなのだ。初はじめ李陵りりょうのところへ来きて騎射きしゃを教おしえてくれという。騎射きしゃといっても騎きのほうは陵りょうに劣おとらぬほど巧うまい。ことに、裸馬らばを駆かる技術ぎじゅつに至いたっては遙はるかに陵みささぎを凌しのいでいるので、李陵りりょうはただ射しゃだけを教おしえることにした。左賢王さけんおうは、熱心ねっしんな弟子でしとなった。陵りょうの祖父そふ李広りこうの射いにおける入神にゅうしんの技わざなどを語かたるとき、蕃族ばんぞくの青年せいねんは眸ひとみをかがやかせて熱心ねっしんに聞入ききいるのである。よく二人ふたりして狩猟しゅりょうに出でかけた。ほんの僅わずかの供廻ともまわりを連つれただけで二人ふたりは縦横たてよこに曠野こうやを疾駆しっくしては狐きつねや狼おおかみや羚羊かもしかや鵰おおとりや雉子きじなどを射いた。あるときなど夕暮ゆうぐれ近ちかくなって矢やも尽つきかけた二人ふたりが――二人ふたりの馬うまは供ともの者ものを遙はるかに駈抜かけぬいていたので――一群いちぐんの狼おおかみに囲かこまれたことがある。馬うまに鞭むちうち全ぜん速力そくりょくで狼群ろうぐんの中なかを駈かけ抜ぬけて逃のがれたが、そのとき、李陵りりょうの馬うまの尻しりに飛とびかかった一いち匹ひきを、後うしろに駈かけていた青年せいねん左さ賢けん王おうが彎刀わんとうをもって見事みごとに胴斬どうぎりにした。あとで調しらべると二人ふたりの馬うまは狼おおかみどもに噛かみ裂さかれて血ちだらけになっていた。そういう一日ついたちののち、夜よる、天幕てんまくの中なかで今日きょうの獲物えものを羹あつものの中なかにぶちこんでフウフウ吹ふきながら啜すするとき、李陵りりょうは火影ほかげに顔かおを火照ほてらせた若わかい蕃王ばんおうの息子むすこに、ふと友情ゆうじょうのようなものをさえ感かんじることがあった。

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