第七回 団子坂の観菊 上
日曜日は近頃に無い天下晴れ、風も穏かで塵も起たず、暦を繰て見れば、旧暦で菊月初旬という十一月二日の事ゆえ、物観遊山には持て来いと云う日和。
園田一家の者は朝から観菊行の支度とりどり。晴衣の亘長を気にしてのお勢のじれこみがお政の肝癪と成て、廻りの髪結の来ようの遅いのがお鍋の落度となり、究竟は万古の茶瓶が生れも付かぬ欠口になるやら、架棚の擂鉢が独手に駈出すやら、ヤッサモッサ捏返している所へ生憎な来客、しかも名打の長尻で、アノ只今から団子坂へ参ろうと存じて、という言葉にまで力瘤を入れて見ても、まや薬ほども利かず、平気で済まして便々とお神輿を据えていられる。そのじれッたさ、もどかしさ。それでも宜くしたもので、案じるより産むが易く、客もその内に帰れば髪結も来る、ソコデ、ソレ支度も調い、十一時頃には家内も漸く静まッて、折節には高笑がするようになッた。
文三は拓落失路の人、仲々以て観菊などという空は無い。それに昇は花で言えば今を春辺と咲誇る桜の身、此方は日蔭の枯尾花、到頭楯突く事が出来ぬ位なら打たせられに行くでも無いと、境界に随れて僻みを起し、一昨日昇に誘引た時既にキッパリ辞ッて行かぬと決心したからは、人が騒ごうが騒ぐまいが隣家の疝気で関繋のない噺、ズット澄していられそうなもののさて居られぬ。嬉しそうに人のそわつくを見るに付け聞くに付け、またしても昨日の我が憶出されて、五月雨頃の空と湿める、嘆息もする、面白くも無い。
ヤ面白からぬ。文三には昨日お勢が「貴君もお出なさるか」ト尋ねた時、行かぬと答えたら、「ヘーそうですか」ト平気で澄まして落着払ッていたのが面白からぬ。文三の心持では、成ろう事なら、行けと勧めて貰いたかッた。それでも尚お強情を張ッて行かなければ、「貴君と御一所でなきゃア私も罷しましょう」とか何とか言て貰いたかッた……
「シカシこりゃア嫉妬じゃアない……」
と不図何か憶出して我と我に分疏を言て見たが、まだ何処かくすぐられるようで……不安心で。
行くも厭なり留まるも厭なりで、気がムシャクシャとして肝癪が起る。誰と云て取留めた相手は無いが腹が立つ。何か火急の要事が有るようでまた無いようで、無いようでまた有るようで、立てもいられず坐てもいられず、どうしてもこうしても落着かれない。
落着かれぬままに文三がチト読書でもしたら紛れようかと、書函の書物を手当放題に取出して読みかけて見たが、いッかな争な紛れる事でない。小むずかしい面相をして書物と疾視競したところはまず宜たが、開巻第一章の一行目を反覆読過して見ても、更にその意義を解し得ない。その癖下坐舗でのお勢の笑声は意地悪くも善く聞えて、一回聞けば則ち耳の洞の主人と成ッて、暫らくは立去らぬ。舌鼓を打ちながら文三が腹立しそうに書物を擲却して、腹立しそうに机に靠着ッて、腹立しそうに頬杖を杖き、腹立しそうに何処ともなく凝視めて……フトまた起直ッて、蘇生ッたような顔色をして、
「モシ罷めになッたら……」
ト取外して言いかけて倏忽ハッと心附き、周章て口を鉗んで、吃驚して、狼狽して、遂に憤然となッて、「畜生」と言いざま拳を振挙げて我と我を威して見たが、悪戯な虫奴は心の底でまだ……やはり……
シカシ生憎故障も無かッたと見えて昇は一時頃に参ッた。今日は故意と日本服で、茶の糸織の一ツ小袖に黒七子の羽織、帯も何か乙なもので、相変らず立とした服飾。梯子段を踏轟かして上ッて来て、挨拶をもせずに突如まず大胡坐。我鼻を視るのかと怪しまれる程の下眼を遣ッて文三の顔を視ながら、
「どうした、土左的宜しくという顔色だぜ」
「些し頭痛がするから」
「そうか、尼御台に油を取られたのでもなかッたか、アハハハハ」
チョイと云う事からしてまず気に障わる。文三も怫然とはしたが、其処は内気だけに何とも言わなかった。
「どうだ、どうしても往かんか」
「まずよそう」
「剛情だな……ゴジョウだからお出なさいよじゃ無いか、アハハハ。ト独りで笑うほかまず仕様が無い、何を云ッても先様にゃお通じなしだ、アハハハ」
戯言とも附かず罵詈とも附かぬ曖昧なお饒舌に暫らく時刻を移していると、忽ち梯子段の下にお勢の声がして、
「本田さん」
「何です」
「アノ車が参りましたから、よろしくば」
「出懸けましょう」
「それではお早く」
「チョイとお勢さん」
「ハイ」
「貴嬢と合乗なら行ても宜というのがお一方出来たが承知ですかネ」
返答は無く、唯バタバタと駆出す足音がした。
「アハハハ、何にも言わずに逃出すなぞは未だしおらしいネ」
ト言ったのが文三への挨拶で、昇はそのまま起上ッて二階を降りて往った。跡を目送りながら文三が、さもさも苦々しそうに口の中で、
「馬鹿奴……」
ト言ったその声が未だ中有に徘徊ッている内に、フト今年の春向島へ観桜に往った時のお勢の姿を憶出し、どういう心計か蹶然と起上り、キョロキョロと四辺を環視して火入に眼を注けたが、おもい直おして旧の座になおり、また苦々しそうに、
「馬鹿奴」
これは自ら叱責ったので。