← Library‹ 浮雲 第二編

第だい七なな回かい 団子坂だんござかの観菊きくみ 上うえ

日曜にちよう日ひは近頃ちかごろに無ない天下てんか晴はれ、風かぜも穏おだやかで塵ちりも起たたず、暦こよみを繰くって見みれば、旧暦きゅうれきで菊月初旬きくづきはじめという十じゅう一いち月がつ二ふた日かの事ことゆえ、物観遊山ものみゆさんには持もって来こいと云いう日和ひより。

園田そのだ一家いっけの者ものは朝あさから観菊行きくみゆきの支度したくとりどり。晴衣はれぎの亘長ゆきたけを気きにしてのお勢いきおいのじれこみがお政まさの肝癪かんしゃくと成せいて、廻まわりの髪結かみゆいの来こようの遅おそいのがお鍋なべの落度おちどとなり、究竟はては万古ばんこの茶瓶きゅうすが生うまれも付つかぬ欠口いぐちになるやら、架棚たなの擂鉢すりばちが独手ひとりでに駈出かけだすやら、ヤッサモッサ捏返こねかえしている所ところへ生憎あやにくな来客らいきゃく、しかも名打なうての長尻ながっちりで、アノ只今ただいまから団子だんご坂さかへ参まいろうと存ぞんじて、という言葉ことばにまで力瘤ちからこぶを入いれて見みても、まや薬やくほども利きかず、平気へいきで済すまして便々べんべんとお神輿みこしを据すえていられる。そのじれッたさ、もどかしさ。それでも宜よくしたもので、案あんじるより産うむが易やすく、客きゃくもその内うちに帰かえれば髪結かみゆいも来くる、ソコデ、ソレ支度したくも調ととのい、十じゅう一いち時じ頃ころには家内かないも漸ようやく静しずかまッて、折節おりふしには高たか笑わらいがするようになッた。

文三ぶんぞうは拓落失路たくらくしつろの人ひと、仲々なかなか以もって観菊かんぎくなどという空そらは無ない。それに昇のぼるは花はなで言いえば今いまを春辺はるべと咲さき誇ほこる桜さくらの身み、此方こっちは日蔭ひかげの枯かれ尾花おばな、到頭どうせ楯突たてつく事ことが出来できぬ位くらいなら打うたせられに行いくでも無ないと、境界きょうがいに随つれて僻ひがみを起おこし、一昨日おとつい昇に誘引さそわれた時とき既すでにキッパリ辞ことわッて行いかぬと決心けっしんしたからは、人ひとが騒さわごうが騒さわぐまいが隣家となりの疝気せんきで関繋かけかまいのない噺はなし、ズット澄すましていられそうなもののさて居いられぬ。嬉うれしそうに人ひとのそわつくを見みるに付つけ聞きくに付つけ、またしても昨日きのうの我わが憶出おもいいだされて、五月雨さみだれ頃ころの空そらと湿しめる、嘆息たんそくもする、面白おもしろくも無ない。

ヤ面白おもしろからぬ。文三ぶんぞうには昨日きのうお勢いきおいが「貴君あなたもお出いでなさるか」ト尋たずねた時とき、行いかぬと答こたえたら、「ヘーそうですか」ト平気へいきで澄すまして落着らくちゃく払はらいッていたのが面白おもしろからぬ。文三ぶんぞうの心持こころもちでは、成なろう事ことなら、行いけと勧すすめて貰もらいたかッた。それでも尚なお強情ごうじょうを張ちょうッて行いかなければ、「貴君きくんと御ご一所いっしょでなきゃア私わたくしも罷よしましょう」とか何なんとか言げんて貰もらいたかッた……

「シカシこりゃア嫉妬しっとじゃアない……」

と不図ふと何なんか憶出おもいだして我われと我われに分疏いいわけを言げんて見みたが、まだ何処どこかくすぐられるようで……不ふ安心あんしんで。

行いくも厭いやなり留とどまるも厭いやなりで、気きがムシャクシャとして肝かん癪しゃくが起おこる。誰だれと云て取留とりとめた相手あいては無ないが腹はらが立たつ。何なんか火急かきゅうの要事ようじが有あるようでまた無ないようで、無ないようでまた有あるようで、立たてもいられず坐すわってもいられず、どうしてもこうしても落着おちつかれない。

落着おちつかれぬままに文三ぶんぞうがチト読書どくしょでもしたら紛まぎれようかと、書函ほんばこの書物しょもつを手当てあて放題ほうだいに取出とりだして読よみかけて見みたが、いッかな争な紛まぎれる事ことでない。小こむずかしい面相かおつきをして書物しょもつと疾視競にらめくらしたところはまず宜よかったが、開巻かいかん第だい一いち章しょうの一いち行ぎょう目めを反覆はんぷく読過どっかして見みても、更さらにその意義いぎを解げし得えない。その癖くせ下坐舗したざしきでのお勢いきおいの笑声わらいごえは意地いじ悪わるくも善よく聞きこえて、一回ひとたび聞きけば則すなわち耳みみの洞ほらの主人あるじと成せいッて、暫しばらくは立去たちさらぬ。舌鼓したつづみを打うちながら文ぶん三さんが腹はら立りつしそうに書物しょもつを擲却ほうりだして、腹はら立りつしそうに机つくえに靠着もたれかかッて、腹はら立りつしそうに頬杖ほおづえを杖つき、腹はら立りつしそうに何処どこともなく凝視みつめて……フトまた起き直じかッて、蘇生よみがえッたような顔色かおつきをして、

「モシ罷やめになッたら……」

ト取外とりはずして言いいかけて倏忽たちまちハッと心こころ附つき、周章あわてて口くちを鉗つぐんで、吃驚びっくりして、狼狽ろうばいして、遂ついに憤然やっきとなッて、「畜生ちくしょう」と言いいざま拳こぶしを振ぶり挙あげて我われと我われを威おどして見みたが、悪戯いたずらな虫むし奴めは心こころの底そこでまだ……やはり……

シカシ生憎あいにく故障こしょうも無むかッたと見みえて昇のぼるは一時いちじ頃ころに参さんッた。今日きょうは故意わざと日本にっぽん服ふくで、茶ちゃの糸織いとおりの一ひとツ小袖こそでに黒七子くろななこの羽織はおり、帯おびも何なんか乙おつなもので、相あい変かわらず立りゅうとした服飾こしらえ。梯子段はしごだんを踏轟ふみとどろかして上うえッて来きて、挨拶あいさつをもせずに突如いきなりまず大胡坐おおあぐら。我わが鼻はなを視みるのかと怪あやしまれる程ほどの下した眼がんを遣ッて文三ぶんぞうの顔かおを視みながら、

「どうした、土左どざ的てき宜よろしくという顔色がんしょくだぜ」

「些すこし頭痛ずつうがするから」

「そうか、尼御台あまみだいに油あぶらを取とられたのでもなかッたか、アハハハハ」

チョイと云いう事ことからしてまず気きに障さわる。文三ぶんぞうも怫然むっとはしたが、其処そこは内気うちきだけに何なんとも言いわなかった。

「どうだ、どうしても往いかんか」

「まずよそう」

「剛つよし情じょうだな……ゴジョウだからお出いでなさいよじゃ無ないか、アハハハ。ト独ひとりで笑わらうほかまず仕様しようが無ない、何なんを云ッても先さき様さまにゃお通つうじなしだ、アハハハ」

戯言ぎげんとも附つかず罵詈ばりとも附つかぬ曖昧あいまいなお饒舌しゃべりに暫しばらく時刻じこくを移うつしていると、忽たちまち梯子段はしごだんの下したにお勢いきおいの声こえがして、

「本田ほんださん」

「何なんです」

「アノ車くるまが参まいりましたから、よろしくば」

「出懸でかけましょう」

「それではお早はやく」

「チョイとお勢いきおいさん」

「ハイ」

「貴嬢あなたと合乗あいのりなら行こうても宜いいというのがお一方ひとかた出来できたが承知しょうちですかネ」

返答へんとうは無なく、唯ただバタバタと駆出かりだす足音あしおとがした。

「アハハハ、何なんにも言いわずに逃出にげだすなぞは未まだしおらしいネ」

ト言いったのが文三ぶんぞうへの挨拶あいさつで、昇のぼるはそのまま起上たちあがッて二に階かいを降おりて往さった。跡あとを目送みおくりながら文ぶん三さんが、さもさも苦々にがにがしそうに口くちの中うちで、

「馬鹿ばか奴め……」

ト言いったその声こえが未いまだ中有ちゅううに徘徊さまよッている内うちに、フト今年ことしの春はる向島むこうじまへ観桜さくらみに往いった時ときのお勢いきおいの姿すがたを憶出だし、どういう心計つもりか蹶然むっくと起上おきあがり、キョロキョロと四辺あたりを環視みまわして火入ひいれに眼めを注つけたが、おもい直じきおして旧もとの座ざになおり、また苦々にがにがしそうに、

「馬鹿ばか奴やつ」

これは自みずから叱責しかったので。

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