← Library‹ 浮雲 第三編

浮雲うきぐも第だい三さん篇へんハ都合つごうに依ッて此この雜誌ざっしへ載のせる事ことにしました。

固もと此この小説しょうせつハつまらぬ事ことを種たねに作さくッたものゆえ、人物じんぶつも事実じじつも皆みなつまらぬもののみでしょうが、それは作者さくしゃも承知しょうちの事ことです。

只々ただ作者さくしゃにハつまらぬ事ことにハつまらぬという面白味おもしろみが有あるように思おもわれたからそれで筆ふでを執ッてみた計はかりです。

第だい十じゅう三さん回かい

心理しんりの上うえから観みれば、智さとし愚ぐの別べつなく人ひと咸ことごとく面白味おもしろみは有ある。内海うつみ文三ぶんぞうの心こころ状じょうを観みれば、それは解わかろう。

前回ぜんかい参看さんかん〓文三ぶんぞうは既すでにお勢いきおいに窘たしなめられて、憤然ふんぜんとして部屋へやへ駈戻かけもどッた。さてそれからは独ひとり演劇しばい、泡あわを噛かんだり、拳こぶしを握ッたり。どう考かんがえて見みても心外しんがいでたまらぬ。「本田ほんださんが気きに入はいりました」それは一時いちじの激語げきご、も承知しょうちしているでもなく、又またいないでも無ない。から、強あながちそればかりを怒どッた訳わけでもないが、只ただ腹はらが立たつ、まだ何なんか他たの事ことで、おそろしくお勢いきおいに欺あざむかれたような心地ここちがして、訳わけもなく腹はらが立たつ。

腹はらの立たつまま、遂ついに下宿げしゅくと決心けっしんして宿所しゅくしょを出でた。ではお勢いきおいの事ことは既すでにすッぱり思おもえ切きれッているか、というに、そうではない、思おもえ切きれッてはいない。思おもえ切きれッてはいないが、思おもえ切きらぬ訳わけにもゆかぬから、そこで悶々むしゃくしゃする。利害りがい得喪とくそう、今いまはそのような事ことに頓着とんちゃく無ない。只ただ己おのれに逆ぎゃくらッてみたい、己おのれの望のぞまない事ことをして見みたい。鴆毒ちんどく? 持もちッて来こい。甞なめてこの一生いっしょうをむちゃくちゃにして見みせよう!……

そこで宿所しゅくしょを出でた。同おなじ下宿げしゅくするなら、遠方えんぽうがよいというので、本郷ほんごう辺へんへ往いッて尋たずねてみたが、どうも無むかッた。から、彼地あれから小石川こいしかわへ下おりて、其処此処そこここと尋廻たずねまわるうちに、ふと水道町すいどうちょうで一いち軒けん見み当あてた。宿料しゅくりょうも廉れん、その割わりには坐舗ざしきも清潔せいけつ、下宿げしゅくをするなら、まず此所等ここらと定さだめなければならぬ……となると文ぶん三さん急きゅうに考かんがえ出だした。「いずれ考かんがえてから、またそのうちに……」言葉ことばを濁にごしてその家うちを出でた。

「お勢いきおいと諍論いいあッて家いえを出でた――叔父おじが聞きいたら、さぞ心持こころもちを悪わるくするだろうなア……」と歩あるきながら徐々そろそろ畏縮いじけだした。「と云ッて、どうもこのままには済すまされん……思おもえ切きれッて今いまの家いえに下宿げしゅくしようか?……」

今更いまさら心こころが動うごく、どうしてよいか訳わけがわからない。時計とけいを見みれば、まだ漸ようやく三さん時じ半はんすこし廻めぐるわッたばかり。今いまから帰かえるも何なんとなく気きが進すすまぬ。から、彼所あれから牛込見附うしごめみつけへ懸ッて、腹はらの屈托くったくを口くちへ出だして、折々おりおり往来おうらいの人ひとを驚おどろかしながら、いつ来くるともなく番町ばんちょうへ来きて、例れいの教師きょうしの家いえを訪問おとずれてみた。

折おり善よくもう学校がっこうから帰ッていたので、すぐ面会めんかいした。が、授業じゅぎょうの模様もよう、旧きゅう生徒せいとの噂うわさ、留学りゅうがく、竜動ロンドン、「たいむす」、はッばァと、すぺんさあー――相あい変かわらぬ噺はなしで、おもしろくも何なんともない。「私わたくし……事ことに寄よると……この頃ごろに下宿げしゅくするかも知しれません」、唐突とうとつに宛あてもない事ことを云ッてみたが、先生せんせい少すこしも驚おどろかず、何故なにゆえかふむと鼻はなを鳴ならして、只ただ「羨うらやましいな。もう一いち度どそんな身みになってみたい」とばかり。とんと方角ほうがくが違ちがう。面白おもしろくないから、また辞じして教師きょうしの宅たくをも出でてしまッた。

出でた時ときの勢いきおいに引替ひきかえて、すごすご帰宅きたくしたは八はち時じごろの事ことで有あッたろう。まず眼めを配はいッてお勢いきおいを探さがす。見みえない、お勢いきおいが……棄すてた者ものに用ようも何なんもないが、それでも、文三ぶんぞうに云いわせると、人情にんじょうというものは妙みょうなもので、何なんとなく気きに懸かかるから、火ひを持もちッて上うえッて来きたお鍋なべにこッそり聞きいてみると、お嬢じょうさまは気分きぶんが悪わるいと仰しゃッて、御膳ごぜんも碌ろくに召上めしあがらずに、モウお休やすみなさいました、という。

「御ご膳ぜんも碌ろくに?……」

「御ご膳ぜんも碌ろくに召めしやがらずに」

確たしかめられて文ぶん三さん急きゅうに萎しおれかけた……が、ふと気きをかえて、「ヘ、ヘ、ヘ、御ご膳ぜんも召上めしあがらずに……今いまに鍋焼饂飩なべやきうどんでも喰くいたくなるだろう」

おかしな事ことをいうとは思おもえッたが、使つかいに出でていて今朝けさの騒動そうどうを知しらないから、お鍋なべはそのまま降おりてしまう。

と、独ひとりになる。「ヘ、ヘ、ヘ」とまた思出おもいだして冷笑あざわらッた……が、ふと心こころ附ついてみれば、今いまはそんな、つまらぬ、くだらぬ、薬袋やくたいも無ない事ことに拘かかわッている時ときではない。「叔父おじの手前てまえ何なんと云ッて出でたものだろう?」と改あらためて首くびを捻ひねッて見みたが、もウ何なんとなく馬鹿ばか気げていて、真面目まじめになって考かんがえられない。「何なんと云ッて出でたものだろう?」と強しいて考かんがえてみても、心こころ奴めがいう事ことを聴きかず、それとは全まったく関繋かんけいもない余所事よそごとを何時いつからともなく思おもえッてしまう。いろいろに紛まぎれようとしてみても、どうも紛まぎれられない、意地いじ悪わるくもその余所事よそごとが気きに懸ッて、気きに懸ッて、どうもならない。怺こらえに、怺こらえに、怺こらえて見みたが、とうどう怺こらえ切きれなくなッて、「して見みると、同おなじように苦くるしんでいるかしらん」、はッと云ッても追付おいつかず、こう思おもうと、急きゅうにおそろしく気きの毒どくになッて来きて、文三ぶんぞうは狼狽あわてて後悔こうかいをしてしまッた。

叱しかるよりは謝罪あやまる方ほうが文三ぶんぞうには似合にあうと誰だれやらが云ッたが、そうかも知しれない。

第だい十じゅう四よん回かい

「気きの毒どく気きの毒どく」と思おもい寐ねにうとうととして眼めを覚さまして見みれば、烏からすの啼声なきごえ、雨戸あまどを繰くる音おと、裏うらの井戸いどで釣瓶つるべを軋きしらせる響ひびき。少すこし眠足ねたりないが、無理むりに起おきて下か坐ざ舗ほへ降おりてみれば、只ただお鍋なべが睡ねむむそうな顔かおをして釜かまの下したを焚付たきつけているばかり。誰だれも起おきていない。

朝あさ寐ぬが持前もちまえのお勢いきおい、まだ臥ねているは当然とうぜんの事こと、とは思おもいながらも、何なんとなく物もの足たらぬ心地ここちがする。

早はやく顔かおが視みたい、如何様どんな顔かおをしているか。顔かおを視みれば、どうせ好よい心地ここちがしないは知しれていれど、それでいて只ただ早はやく顔かおが視みたい。

三十さんじゅう分ふんたち、一いち時間じかんたつ。今いまに起おきて来くるか、と思おもえば、肉癢こそばゆい。髪かみの寐ぬ乱みだれた、顔かおの蒼あおざめた、腫瞼はれまぶちの美人びじんが始終しじゅう眼前めさきにちらつく。

「昨日きのう下宿げしゅくしようと騒さわいだは誰だれで有あッたろう」と云ッたような顔色かおつき……

朝飯あさはんがすむ。文三ぶんぞうは奥おく坐ざ舗ほを出でようとする、お勢いきおいはその頃ころになッて漸々ようよう起おきて来きて、入はいろうとする、――縁側えんがわでぴッたり出会であいッた……はッと狼狽うろたえた文三ぶんぞうは、予かねて期ごした事ことながら、それに引替ひきかえて、お勢いきおいの澄すましようは、じろりと文三ぶんぞうを尻眼しりめに懸かけたまま、奥おく坐ざ舗ほへツイとも云いわず入いりッてしまッた。只ただそれだけの事ことで有ゆうッた。

が、それだけで十分じゅうぶん。そのじろりと視みた眼付めつきが眼めの底そこに染付しみついて忘わすれようとしても忘わすれられない。胸むねは痞つかえた。気きは結むすぼれる。搗かてて加くわえて、朝あさの薄曇うすぐもりが昼ひる少すこし下さがる頃ころより雨あめとなッて、びしょびしょと降ふり出だしたので、気きも消きえるばかり。

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