← Library‹ 武蔵野 九

かならずしも道玄坂どうげんざかといわず、また白金しろがねといわず、つまり東京とうきょう市街しがいの一端いっぱし、あるいは甲州こうしゅう街道かいどうとなり、あるいは青梅道おうめみちとなり、あるいは中原道なかはらみちとなり、あるいは世田ヶ谷せたがや街道かいどうとなりて、郊外こうがいの林地りんち田圃でんぽに突入とつにゅうする処ところの、市街しがいともつかず宿駅しゅくえきともつかず、一種いっしゅの生活せいかつと一種いっしゅの自然しぜんとを配合はいごうして一種いっしゅの光景こうけいを呈ていしおる場処ばしょを描写びょうしゃすることが、すこぶる自分じぶんの詩興しきょうを喚よび起おこすも妙みょうではないか。なぜかような場処ばしょが我われらの感かんを惹ひくだらうか。自分じぶんは一言ひとことにして答こたえることができる。すなわちこのような町外まちはずれの光景こうけいは何なんとなく人ひとをして社会しゃかいというものの縮図しゅくずでも見みるような思おもいをなさしむるからであろう。言葉ことばを換かえていえば、田舎いなかの人ひとにも都会とかいの人ひとにも感興かんきょうを起おこさしむるような物語ものがたり、小ちいさな物語ものがたり、しかも哀あわれの深ふかい物語ものがたり、あるいは抱腹ほうふくするような物語ものがたりが二ふたつ三みつそこらの軒先のきさきに隠かくれていそうに思おもわれるからであろう。さらにその特点とくてんをいえば、大だい都会とかいの生活せいかつの名残なごりと田舎いなかの生活せいかつの余波よはとがここで落おちあって、緩ゆるやかにうずを巻まいているようにも思おもわれる。

見みたまえ、そこに片眼かための犬いぬが蹲うずくまっている。この犬いぬの名なの通かよっているかぎりがすなわちこの町外まちはずれの領分りょうぶんである。

見みたまえ、そこに小ちいさな料理りょうり屋やがある。泣なくのとも笑わらうのとも分わからぬ声こえを振立ふりたててわめく女おんなの影かげ法師ほうしが障子しょうじに映うつっている。外そとは夕闇ゆうやみがこめて、煙けむりの臭においとも土つちの臭においともわかちがたき香かおりが淀よどんでいる。大八だいはち車しゃが二に台だい三さん台だいと続つづいて通とおる、その空車からぐるまの轍わだちの響ひびきが喧やかましく起おこりては絶たえ、絶たえては起おこりしている。

見みたまえ、鍛冶工かじやの前まえに二に頭とうの駄馬だばが立たっているその黒くろい影かげの横よこのほうで二に三さん人にんの男おとこが何事なにごとをかひそひそと話はなしあっているのを。鉄蹄てっていの真赤まっかになったのが鉄砧かなしきの上うえに置おかれ、火花ひばなが夕闇ゆうやみを破やぶって往来おうらいの中なかほどまで飛とんだ。話はなしていた人々ひとびとがどっと何事なにごとをか笑わらった。月つきが家並やなみの後うしろの高たかい樫かしの梢こずえまで昇のぼると、向むこう片側かたがわの家根やねが白しろんできた。

かんてらから黒くろい油煙ゆえんが立たっている、その間あいだを村むらの者もの町まちの者もの十じゅう数すう人にん駈かけ廻まわってわめいている。いろいろの野菜やさいが彼方此方あちらこちらに積つんで並ならべてある。これが小ちいさな野菜やさい市し、小ちいさな糶売場せりばである。

日ひが暮くれるとすぐ寝ねてしまう家うちがあるかと思おもうと夜よの二に時じごろまで店みせの障子しょうじに火影ほかげを映うつしている家いえがある。理髪所とこやの裏うらが百姓ひゃくしょう家やで、牛うしのうなる声こえが往来おうらいまで聞きこえる、酒屋さかやの隣家となりが納豆売なっとううりの老爺ろうやの住家じゅうかで、毎朝まいあさ早はやく納豆なっとう納豆なっとうと嗄声しわがれごえで呼よんで都とのほうへ向むかって出でかける。夏なつの短夜みじかよが間まもなく明あけると、もう荷車にぐるまが通とおりはじめる。ごろごろがたがた絶たえ間まがない。九きゅう時じ十じゅう時じとなると、蝉せみが往来おうらいから見みえる高たかい梢こずえで鳴なきだす、だんだん暑あつくなる。砂埃すなぼこりが馬うまの蹄ひづめ、車くるまの轍わだちに煽あおられて虚空こくうに舞まい上あがる。蝿はえの群ぐんが往来おうらいを横よこぎって家いえから家いえ、馬うまから馬うまへ飛とんであるく。

それでも十じゅう二に時じのどんがかすかに聞きこえて、どことなく都との空そらのかなたで汽笛きてきの響ひびきがする。

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