アメリカのエイランドなる人の著わしたる『モラル・サイヤンス』という書に、人の身心の自由を論じたることあり。その論の大意にいわく、人の一身は他人と相離れて一人前の全体をなし、みずからその身を取り扱い、みずからその心を用い、みずから一人を支配して、務むべき仕事を務むるはずのものなり。ゆえに、第一、人にはおのおの身体あり。身体はもって外物に接し、その物を取りてわが求むるところを達すべし。譬えば種を蒔きて米を作り、綿を取りて衣服を製するがごとし。第二、人にはおのおの智恵あり。智恵はもって物の道理を発明し、事を成すの目途を誤ることなし。譬えば米を作るに肥しの法を考え、木綿を織るに機の工夫をするがごとし。みな智恵分別の働きなり。
第三、人にはおのおの情欲あり。情欲はもって心身の働きを起こし、この情欲を満足して一身の幸福をなすべし。たとえば人として美服美食を好まざる者なし。されどもこの美服美食はおのずから天地の間に生ずるものにあらず。これを得んとするには人の働きなかるべからず。ゆえに人の働きはたいていみな情欲の催促を受けて起こるものなり。この情欲あらざれば働きあるべからず、この働きあらざれば安楽の幸福あるべからず。禅坊主などは働きもなく幸福もなきものと言うべし。
第四、人にはおのおの至誠の本心あり。誠の心はもって情欲を制し、その方向を正しくして止まるところを定むべし。たとえば情欲には限りなきものにて、美服美食もいずれにて十分と界を定め難し。今もし働くべき仕事をば捨て置き、ひたすらわが欲するもののみを得んとせば、他人を害してわが身を利するよりほかに道なし。これを人間の所業と言うべからず。この時に当たりて欲と道理とを分別し、欲を離れて道理の内に入らしむるものは誠の本心なり。第五、人にはおのおの意思あり。意思はもって事をなすの志を立つべし。譬えば世の事は怪我の機にてできるものなし。善き事も悪き事もみな人のこれをなさんとする意ありてこそできるものなり。
以上、五つのものは人に欠くべからざる性質にして、この性質を自由自在に取り扱い、もって一身の独立をなすものなり。さて独立といえば、ひとり世の中の偏人奇物にて世間の付合いもなき者のように聞こゆれども、けっして然らず。人として世に居れば、もとより朋友なかるべからずといえども、その朋友もまたわれに交わりを求むることなおわが朋友を慕うがごとくなれば、世の交わりは相互いのことなり。ただこの五つの力を用うるに当たり、天より定めたる法に従いて、分限を越えざること緊要なるのみ。すなわちその分限とは、我もこの力を用い、他人もこの力を用いて、相互にその働きを妨げざるを言うなり。かくのごとく、人たる者の分限を誤らずして世を渡るときは、人に咎めらるることもなく、天に罪せらるることもなかるべし。これを人間の権義と言うなり。
右の次第により、人たる者は他人の権義を妨げざれば、自由自在に己が身体を用うるの理あり。その好むところに行き、その欲するところに止まり、あるいは働き、あるいは遊び、あるいはこの事を行ない、あるいはかの業をなし、あるいは昼夜勉強するも、あるいは意に叶わざれば無為にして終日寝るも、他人に関係なきことなれば、傍よりかれこれとこれを議論するの理なし。
今もし前の説に反し、「人たる者は理非にかかわらず他人の心に従いて事をなすものなり、わが了簡を出だすはよろしからず」という議論を立つる者あらん。この議論はたして理の当然なるか。理の当然ならばおよそ人と名のつきたる者の住居する世界には通用すべきはずなり。仮りにその一例を挙げて言わん。禁裏さまは公方さまよりも貴きものなるゆえ、禁裏さまの心をもって公方さまの身を勝手次第に動かし、行かんとすれば「止まれ」と言い、止まらんとすれば「行け」と言い、寝るも起きるも飲むも食うもわが思いのままに行なわるることなからん。公方さまはまた手下の大名を制し、自分の心をもって大名の身を自由自在に取り扱わん。大名はまた自分の心をもって家老の身を制し、家老は自分の心をもって用人の身を制し、用人は徒士を制し、徒士は足軽を制し、足軽は百姓を制するならん。
さて百姓に至りてはもはや目下の者もあらざれば少し当惑の次第なれども、元来この議論は人間世界に通用すべき当然の理に基づきたるものなれば、百万遍の道理にて、回れば本に返らざるを得ず。「百姓も人なり、禁裏さまも人なり、遠慮はなし」と御免を蒙り、百姓の心をもって禁裏さまの身を勝手次第に取り扱い、行幸あらんとすれば「止まれ」と言い、行在に止まらんとすれば「還御」と言い、起居眠食、みな百姓の思いのままにて、金衣玉食を廃して麦飯を進むるなどのことに至らば如何。かくのごときはすなわち日本国中の人民、身みずからその身を制するの権義なくしてかえって他人を制するの権あり。
人の身と心とはまったくその居処を別にして、その身はあたかも他人の魂を止むる旅宿のごとし。下戸の身に上戸の魂を入れ、子供の身に老人の魂を止め、盗賊の魂は孔夫子の身を借用し、猟師の魂は釈迦の身に旅宿し、下戸が酒を酌んで愉快を尽くせば、上戸は砂糖湯を飲んで満足を唱え、老人が樹に攀じて戯るれば、子供は杖をついて人の世話をやき、孔夫子が門人を率いて賊をなせば、釈迦如来は鉄砲を携えて殺生に行くならん。奇なり、妙なり、また不可思議なり。
これを天理人情と言わんか、これを文明開化と言わんか。三歳の童子にてもその返答は容易なるべし。数千百年の古より和漢の学者先生が、上下貴賤の名分とて喧しく言いしも、つまるところは他人の魂をわが身に入れんとするの趣向ならん。これを教えこれを説き、涙を流してこれを諭し、末世の今日に至りてはその功徳もようやく顕われ、大は小を制し強は弱を圧するの風俗となりたれば、学者先生も得意の色をなし、神代の諸尊、周の世の聖賢も、草葉の蔭にて満足なるべし。いまその功徳の一、二を挙げて示すこと左のごとし。