← Library‹ 風立ちぬ 冬

一いち九きゅう三さん五ご年ねん十じゅう月がつ二十はつ日か

午後ごご、いつものように病人びょうにんを残のこして、私わたくしはサナトリウムを離はなれると、収穫しゅうかくに忙いそがしい農夫のうふ等とうの立たち働はたらいている田畑たはたの間あいだを抜ぬけながら、雑木ぞうき林りんを越こえて、その山やまの窪くぼみにある人ひとけの絶たえた狭せまい村むらに下おりた後あと、小ちいさな谿流けいりゅうにかかった吊橋つりばしを渡わたって、その村むらの対岸たいがんにある栗くりの木きの多おおい低ひくい山やまへ攀よじのぼり、その上方かみがたの斜面しゃめんに腰こしを下おろした。そこで私わたくしは何なん時間じかんも、明あかるい、静しずかな気分きぶんで、これから手てを着つけようとしている物語ものがたりの構想こうそうに耽ふけっていた。ときおり私わたくしの足あしもとの方ほうで、思おもい出だしたように、子供こども等とうが栗くりの木きをゆすぶって一いちどきに栗くりの実じつを落おとす、その谿たにじゅうに響ひびきわたるような大おおきな音おとに愕おどろかされながら……

そういう自分じぶんのまわりに見聞みききされるすべてのものが、私わたくし達たちの生なまの果実かじつもすでに熟じゅくしていることを告つげ、そしてそれを早はやく取とり入いれるようにと自分じぶんを促うながしでもしているかのように感かんずるのが、私わたくしは好すきであった。

ようやく日ひが傾かたむいて、早はやくもその谿たにの村むらが向むこうの雑木ぞうき山やまの影かげの中なかにすっかりはいってしまうのを認みとめると、私わたくしは徐しずかに立たち上のぼって、山やまを下おり、再ふたたび吊橋つりばしをわたって、あちらこちらに水車すいしゃがごとごとと音おとを立たてながら絶たえず廻まわっている狭せまい村むらの中なかを何なんんということはなしに一いちまわりした後あと、八ヶ岳やつがたけの山麓さんろく一帯いったいに拡ひろがっている落葉松林からまつばやしの縁へりを、もうそろそろ病人びょうにんがもじもじしながら自分じぶんの帰かえりを待まっているだろうと考かんがえながら、心こころもち足あしを早はやめてサナトリウムに戻もどるのだった。

十じゅう月がつ二十にじゅう三さん日にち

明あけ方がた近ちかく、私わたくしは自分じぶんのすぐ身近みぢかでしたような気きのする異様いような物音ものおとに驚おどろいて目めを覚さました。そうしてしばらく耳みみをそば立だてていたが、サナトリウム全体ぜんたいは死しんだようにひっそりとしていた。それからなんだか目めが冴さえて、私わたくしはもう寝ねつかれなくなった。

小ちいさな蛾がのこびりついている窓硝子まどガラスをとおして、私わたくしはぼんやりと暁あかつきの星ほしがまだ二ふたつ三みつ幽かすかに光ひかっているのを見みつめていた。が、そのうちに私わたくしはそういう朝明あさあけが何なんんとも云いえずに寂さびしいような気きがして来きて、そっと起おき上あがると、何なんをしようとしているのか自分じぶんでも分わからないように、まだ暗くらい隣となりの病室びょうしつへ素足すあしのままではいって行いった。そうしてベッドに近ちかづきながら、節子せつこの寝顔ねがおを屈かがみ込こむようにして見みた。すると彼女かのじょは思おもいがけず、ぱっちりと目めを見みひらいて、そんな私わたくしの方ほうを見上みあげながら、

「どうなすったの?」と訝いぶかしそうに訊きいた。

私わたくしは何なんんでもないと云いった目めくばせをしながら、そのまま徐しずかに彼女かのじょの上うえに身みを屈かがめて、いかにも怺こらえ切きれなくなったようにその顔かおへぴったりと自分じぶんの顔かおを押おしつけた。

「まあ、冷つめたいこと」彼女かのじょは目めをつぶりながら、頭あたまをすこし動うごかした。髪かみの毛けがかすかに匂におった。そのまま私わたくし達たちはお互たがいのつく息いきを感かんじ合あいながら、いつまでもそうしてじっと頬ほおずりをしていた。

「あら、又また、栗くりが落おちた……」彼女かのじょは目めを細目さいもくに明あけて私わたくしを見みながら、そう囁ささやいた。

「ああ、あれは栗くりだったのかい。……あいつのお蔭かげでおれはさっき目めを覚さましてしまったのだ」

私わたくしは少すこし上うわずったような声こえでそう言いいながら、そっと彼女かのじょを手放てばなすと、いつの間あいだにかだんだん明あかるくなり出だした窓まどの方ほうへ歩あゆみ寄よって行いった。そしてその窓まどに倚よりかかって、いましがたどちらの目めから滲にじみ出でたのかも分わからない熱あついものが私わたくしの頬ほおを伝つたうがままにさせながら、向むこうの山やまの背せにいくつか雲くもの動うごかずにいるあたりが赤あかく濁にごったような色いろあいを帯おび出だしているのを見入みいっていた。畑はたけの方ほうからはやっと物音ものおとが聞きこえ出だした。……

「そんな事ことをしていらっしゃるとお風かぜを引ひくわ」ベッドから彼女かのじょが小ちいさな声こえで言いった。

私わたくしは何なんか気軽きがるい調子ちょうしで返事へんじをしてやりたいと思おもいながら、彼女かのじょの方ほうをふり向むいた。が、大おおきく睜みはって気きづかわしそうに私わたくしを見みつめている彼女かのじょの目めと見合みあわせると、そんな言葉ことばは出だされなかった。そうして無言むごんのまま窓まどを離はなれて、自分じぶんの部屋へやに戻もどって行いった。

それから数すう分ふん立たつと、病人びょうにんは明あけ方がたにいつもする、抑おさえかねたような劇はげしい咳せきを出だした。再ふたたび寝床ねどこに潜もぐりこみながら、私わたくしは何なんんともかとも云いわれないような不安ふあんな気持きもちでそれを聞きいていた。

十じゅう月がつ二十にじゅう七しち日にち

私わたくしはきょうもまた山やまや森もりで午後ごごを過すごした。

一ひとつの主題しゅだいが、終日しゅうじつ、私わたくしの考かんがえを離はなれない。真しんの婚約こんやくの主題しゅだい――二人ふたりの人間にんげんがその余あまりにも短みじかい一生いっしょうの間あいだをどれだけお互たがいに幸福こうふくにさせ合あえるか? 抗あらがいがたい運命うんめいの前まえにしずかに頭あたまを項低うなだれたまま、互たがいに心こころと心こころと、身みと身みとを温あたため合あいながら、並ならんで立たっている若わかい男女だんじょの姿すがた、――そんな一いち組くみとしての、寂さびしそうな、それでいて何処どこか愉たのしくないこともない私わたくし達たちの姿すがたが、はっきりと私わたくしの目めの前まえに見みえて来くる。それを措おいて、いまの私わたくしに何なんが描えがけるだろうか? ……

果はてしのないような山麓さんろくをすっかり黄きばませながら傾かたむいている落葉松からまつ林はやしの縁えんを、夕方ゆうがた、私わたくしがいつものように足早あしばやに帰かえって来くると、丁度ちょうどサナトリウムの裏うらになった雑木ぞうき林りんのはずれに、斜ななめになった日ひを浴あびて、髪かみをまぶしいほど光ひからせながら立たっている一人ひとりの背せの高たかい若わかい女おんなが遠とおく認みとめられた。私わたくしはちょっと立たち止どまった。どうもそれは節子せつこらしかった。しかしそんな場所ばしょに一人ひとりきりのようなのを見みて、果はたして彼女かのじょかどうか分わからなかったので、私わたくしはただ前まえよりも少すこし足あしを早はやめただけだった。が、だんだん近ちかづいて見みると、それはやはり節子せつこであった。

「どうしたんだい?」私わたくしは彼女かのじょの側がわに駈かけつけて、息いきをはずませながら訊きいた。

「此処ここであなたをお待まちしていたの」彼女かのじょは顔かおを少すこし赧あかくして笑わらいながら答こたえた。

「そんな乱暴らんぼうな事ことをしても好よいのかなあ」私わたくしは彼女かのじょの顔かおを横よこから見みた。

「一いち遍へんくらいなら構かまわないわ。……それにきょうはとても気分きぶんが好よいのですもの」つとめて快活かいかつな声こえを出だしてそう言いいながら、彼女かのじょはなおもじっと私わたくしの帰かえって来きた山麓さんろくの方ほうを見みていた。「あなたのいらっしゃるのが、ずっと遠とおくから見みえていたわ」

私わたくしは何なんも言いわずに、彼女かのじょの側がわに並ならんで、同おなじ方角ほうがくを見みつめた。

彼女かのじょが再ふたたび快活かいかつそうに言いった。「此処ここまで出でると、八ヶ岳やつがたけがすっかり見みえるのね」

「うん」と私わたくしは気きのなさそうな返事へんじをしたきりだったが、そのままそうやって彼女かのじょと肩かたを並ならべてその山やまを見みつめているうちに、ふいと何なんんだか不思議ふしぎに混こんがらかったような気きがして来きた。

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