僕のビートルの前を走っていたマーキュリーのステーション・ワゴンは、ハレイワの町のなかで右折した。曲がっていくときに僕は運転席の人を見た。体の大きなポリネシア系の中年女性だった。運転のしかたをうしろから見ていて、そうではないかと、なんとなく僕は見当をつけていた。僕の見当は当たった。
マーキュリーのワゴンが前方の視界から消えて、僕は気づいた。うしろから僕が見ていたあのワゴンの光景は、ハワイにおけるクリスマスの光景なのだ。かならずしも使い勝手が良いとは言えないステーション・ワゴンの荷物室をいっぱいにふさいで、棚が何段も作ってあった。その棚には、冬の赤い花の鉢植えが、ぎっしりとならべてあった。クリスマスのための、赤い花の鉢植えだ。
クリスマス・セールの広告は、ひと月ほど前から新聞に掲載され始めた。ヒロのいきつけの食堂では、世界各地にいる七人の子供たちのうち五人が、今年のクリスマスにはヒロに帰って来る、と女主人はうれしそうに語っていた。
いま僕がひとりで走らせているのは、すっかり色の落ちたもとは芥子色の、フォルクスワーゲン・ビートルだ。一九六〇年代の初期のものらしい。今日のオアフ島北海岸は朝から雨が降ったりやんだりしている。夕方のいま、雨はかなり激しい。しかしワイパーは動かない。
この古いビートルの現在の所有者は、東京での僕の友人だ。ワイパーは正常に作動するよう直すべきだ。ビートルはいくら古く見えても最高の状態で乗るのがルールだ、と聞いたことがある。そのルールは車内の匂いにも適用されるのだろうか、と僕は思った。
車内はきちんと掃除されている。あらゆる塵がたまり放題、というような状態ではない。しかし車内にいつもある匂いは、かなりのものだ。簡単にひと言で言うなら、人とその生活の匂いの、十年、二十年と蓄積された結果の、もはや普通の掃除では消すことの不可能な匂いだ。一台の自動車の車内というものが持つすべての細部に、その匂いは浸透しきっている。今日のような雨の日には、匂いは湿気によって外へと導き出され、ひときわ強烈となる。
その匂いに、いまはピッツアの匂いが、重なっている。ビートルの所有者である友人に頼まれて、僕が買って来たものだ。大きくて平らな段ボール箱に入っている。隣の席に置いてある。僕はその友人の家に向かっている。彼は北海岸に家を借りている。冬のあいだそこに住むのだと言っている。彼は奥さんといっしょだ。買って来たピッツアとビールとで、これから冬の北海岸の夕食だ。
駐車場として使用されていた、ほったらかしのただの空き地は、再開発されて新たな住宅地になった。沖のサーファーたちを見物する人の自動車で、冬のあいだいつもいっぱいだった駐車場には、いまは住宅がならんでいる。その住宅地の北側に、友人の借りている家があった。
簡素な木造の、古い民家だ。このような造りとたたずまいの家も、いまでは珍しいものになりつつある。裏道から敷地のなかへ斜めになんとなく入っていき、ポーチへ上がる階段をとおり越したすぐのところに、僕はビートルを停めた。ここが定位置だ。もう少し奥へいくと、海岸との境界となっている土手がある。その土手の手前に、椰子の樹が高く一本立っている。
自動車でこの古い家の敷地に入って来た人は、その椰子の樹の下に停めたい、という気持ちを起こす。しかし、椰子の樹からは椰子の実が落ちて来ることがある。ビートルの屋根のまんなかが、大きくくぼんでいる。かつて誰かがその椰子の樹の下に停め、落ちて来た椰子の実を屋根が受け止めた結果だ。ビートルの屋根ならくぼむだけですむが、人の頭だったらそうはいかない。
ピッツアの入っている平たくて大きな箱を片手に持ち、僕はビートルから雨のなかに出た。ピッツアの箱を傘のかわりに頭の上にかざし、ドアを閉じて僕は階段へ歩いた。今夜の僕はこの家に泊まる。だからビートルは夜のあいだずっと、ここでサンセット・ビーチの雨に打たれ続ける。
ビートルの運転席側のドアいっぱいに、人の名前と年号とが、さまざまな書体で書いてある。初代の所有者から始まって、歴代の所有者の名前と所有していた年とが、ぎっしりと書き込んであるのだ。書体のひとつひとつが、個性の見本のようだ。だからこのドアはひとときの観察に値する。片方のドアだけでは書ききれなくなり、もういっぽうのドアへと、所有者たちの名はあふれ出ていた。
階段の上では、友人の奥さんがポーチのドアを開き、僕を迎えてくれた。僕はテニス・シューズを脱いで居間のフロアに上がった。家のまんなかに、長方形のスペースがひとつ、広くあった。そのスペースのぜんたいが、居間と呼ぶなら居間なのだ。友人が奥から出て来た。僕は彼にピッツアの箱を渡した。
皿に出しましょうか、このままでいいよ、というような夫婦の会話を背後に聞きながら、僕は居間のスペースの海側へ歩いた。居間のこちら側へ来ると、視界ぜんたいが海となる。居間の外にはヴェランダがある。地元の言葉ではラナイだ。海が見える家と言うよりも、ラナイと家とが海に付属している、と言ったほうが正確だ。
ラナイに出て海に面したてすりの前に立ち、直角に左を向くと、視線の延長線上にあるのはヴェルジランドのグーフィーだ。三フィートの波がチューブになっていくときの、戦慄に似た興奮を楽しむことが出来る。波のすぐ下にあるリーフはとても浅く、しかもその形状は特殊なのだ。雨の夕方の海を背にして、僕は居間のフロアにすわった。
居間のスペースのまんなかに、大きな楕円形のガラス・トップのテーブルがある。そのテーブルのガラスの表面の半分ほどを、色とサイズ、そして炎を上げて燃えるときの匂いのさまざまに多様な蝋燭が、びっしりと埋めていた。友人の奥さんが歩いて来て、そのテーブルのかたわらに立った。