姉の舞子が日本で過ごしたのは、僕たちの父親が日本に住んでいた期間の内部での出来事だった。十六歳の秋に彼女はカリフォルニアへ帰った。その年の真夏、夏が頂点をきわめ、このままここで時間は止まるのではないかと思えた静かに暑い晴天の日、僕は彼女とふたりで、父親の自動車を海に沈めた。
クライスラーの大きな四ドアのセダンだった。正統的なピンク色のなかへ、鮮やかな紫色を少しだけ溶かし込んだような色調の、不思議なピンク色をしていた。ジェリー・ビーンズの詰合せのなかに、このクライスラーとそっくりな色をしたビーンズがあった。だから僕は、その自動車のことを、しばしばジェリー・ビーンと呼んでいた。
その日、ふたりだけで昼食を食べていたとき、
「ジェリー・ビーンで海へいきましょう」
と、舞子は言った。
「キーがどこにあるか、私は知ってるのよ。お父さんは外出して留守なの。裸足ではなくて、スニーカーを履きなさい。それに、シャツも持ったほうがいいわね。水筒も」
昼食のあと、僕はふたつの水筒に、井戸の水を満たした。姉の水筒と僕の水筒だ。彼女が言ったとおり、ショートパンツにスニーカーを履き、シャツは着ると暑いから小さくたたんでショートパンツのポケットに入れ、ふたつの水筒を両肩に交差させて掛け、裏庭へいった。
広い裏庭はおだやかな山裾と接していた。裏口から庭を出ると、そこは山裾のゆるやかなスロープの始まる部分だった。ジェリー・ビーン色のクライスラーは、その裏庭のまんなかに、母屋のほうに向いて停まっていた。頭上の青い空から、真夏の強い陽ざしが、クライスラーの車体ぜんたいに降り注いでいた。
舞子は運転席にいた。スニーカーにショートパンツ、そして袖なしのシャツの裾を外に出し、髪をうしろでひとつに束ねていたのは、赤い玉をふたつ飾りにつけた、黒いゴム編みの紐だった。彼女の隣の席に入った僕は、ふたつの水筒を首からはずし、フロアに置いてドアを閉じた。
エンジンを始動させた彼女は、もの静かに次のように言った。
「お父さんはいつも庭をいっぱいに使ってこのクライスラーの方向を変えているけれど、私はうしろ向きに出ていくことにするわ」
ギアをリヴァースに入れて、彼女はクライスラーを発進させた。僕のシートの背に右腕をのばし、上体を軽くひねってうしろを見ながら、裏庭の奥に向けて彼女はクライスラーを徐行させた。
僕たちの住んでいる家と隣の家とのあいだには、このクライスラーがすれすれに通れるほどの幅の通路があった。クライスラーを家の外に停めておくと目立ちすぎた。だから父親は、両側の大きな家をかすめながら、この通路を使って内庭に、クライスラーを入れていた。
庭の奥に向けてクライスラーは一定の速度で徐行していき、舞子の巧みなステアリング操作によって、隣の家とのあいだの狭い通路のなかへ、うしろ向きに吸い込まれるかのように入っていった。車体の両側に板壁が続いた。窓から指を出せばその板壁に触れるほどの近さだった。陽陰だから空気がひんやりしている通路を、クライスラーはおもての道へ出た。リヴァースで隣の家の前まで出ていき、そこでいったん舞子は車体を停止させた。
「海へいきましょう。海岸のあるところまで」
と、彼女は言った。そしてクライスラーを発進させた。途中で彼女は十二歳の僕にも運転させてくれた。遠浅の海岸のあるところまで三十分ほどかかった。途中ですれ違ったのは、一頭の馬が引く荷車一台だけだった。道の端に寄せて舞子はクライスラーを停め、とおりすぎた荷車がかなり離れてから、発進させた。
海岸には人の姿がなかった。松並木の道にクライスラーを停め、海岸や海を見渡しながら、僕たちはそれぞれに水筒の水を飲んだ。そして車の外に出て海岸を歩き、波打ち際にスニーカーを脱いで遠浅の海に入った。ショートパンツと袖なしのシャツの下に、舞子は水着を身につけていた。僕たちは泳いで遊んだ。ちょうどいい距離にある沖の岩まで泳いでいき、岩の平たい頂上に上がったりした。その岩は恰好の飛び込み台でもあった。岩の周囲の海底が見えるほどに、海の水は澄んでいた。
ひとしきり遊んで、僕たちは海岸に戻った。スニーカーは寄せて来る波のすぐ手前に脱いだのだが、砂浜を這い上がる波の先端の届く位置からスニーカーまで、いまではかなり離れていた。
「潮が引いていくのよ。干潮。もうじき、潮が引ききる時間だわ」
舞子がそう言った。スニーカーをそこにそのままにして、僕たちはクライスラーに戻った。両側のドアを大きく開き、舞子は運転席に、そして僕はその隣の席に入り、ふたたび水筒の水を飲んだ。
しばらくして舞子は、
「ドアを閉じて」
と言った。自分の側のドアを彼女は閉じた。僕もドアを閉めた。彼女はエンジンを始動させた。松並木の道をリヴァースで下がっていき、やがていったん停まり、今度は前向きに発進した。彼女は大きくステアリングを操作し、クライスラーを砂浜に向けた。
クライスラーは砂浜に降りた。そのまま一定の速度で波打ち際へ向かった。僕たちが脱いだスニーカーのすぐかたわらに、クライスラーのタイアは深い溝を作った。
乾いた砂の部分を走り終え、濡れて固まっている砂の上を、クライスラーは走っていった。波打ち際に向けて、舞子はそのままクライスラーを直進させた。そして波のなかに入った。寄せて来る波が前輪に当たる音に続いて、バンパーが波を受けとめる軽い衝撃を、僕たちはフロアやシート越しに感じた。
遠浅の海に対して直角に、クライスラーは進んでいった。海に向けて車体は前のめりに傾斜し始めた。波の位置がバンパーを越えると、抵抗を受ける車体は進むのが遅くなった。舞子の裸足の足は、アクセルをフロアまでいっぱいに踏み降ろしていた。前に向けて広がっているエンジン・フードが、さらに傾斜を深めた。波打ち際は大きな車体の後方にまわっていた。