← Library‹ ラハイナまで来た理由 雨の朝のヒロ・マーチ

玄関げんかんのドアを開ひらいて僕ぼくは外そとへ出でた。そこはポーチだ。家いえの板壁いたかべに沿そって、手てすりのついた階段かいだんがある。ポーチの外そとは雨あめだ。ヒロの降ふりかただ。しかも朝あさの。僕ぼくはドアをロックした。こんな素朴そぼくなロックは、なんの役やくにも立たたないはずだが。僕ぼくは階段かいだんを降おりた。可能かのうなかぎり階段かいだんに接近せっきんさせて、シヴォレーのカプリースが停とめてある。たとえばいまのような雨降あめふりのとき、その雨あめに濡ぬれないために。ヒロでの生活せいかつの知恵ちえのひとつだ。

ドアを開ひらいて僕ぼくはカプリースの運転うんてん席せきに入はいった。ドアを閉とじた。頭あたまから首くび、そして両肩りょうかたにかけて、雨あめで濡ぬれていた。エンジンを始動しどうさせ、リヴァースで外そとの道みちへ出でていき、いったん停止ていしした。ギアを入いれ換かえ、カプリースを発進はっしんさせた。

僕ぼくは雨あめのなかを町まちへ向むかった。途中とちゅうの道路どうろとその両側りょうがわにある景色けしきは、僕ぼくにとってたいへん好このましい景色けしきのうちのひとつだ。しかし、なぜこの景色けしきがそんなに好すきなのですかと質問しつもんされたら、僕ぼくには答こたえようがない。

雨あめが激はげしい。ワイパーがガラスの表面ひょうめんで懸命けんめいに雨水あまみずを拭ぬぐっている。晴はれた日ひのことを僕ぼくはふと思おもう。窓まどのガラスを下さげ、窓枠まどわくに左腕ひだりうでを置おいて運転うんてんする、晴天せいてんの日ひのことだ。左腕さわんは陽焼ひやけする。ハワイにおける左腕ひだりうでの陽焼ひやけ対策たいさくという内容ないようの記事きじを、いつだったか新聞しんぶんで読よんだ。

パトロール・カーの窓まどから左腕ひだりうでを出だして車体しゃたいの外そとに垂たらすのが、ひと頃ころのホノルルでの、警官けいかんたちのスタルだった。陽焼ひやけをふせぐために、運転うんてん者しゃが左腕ひだりうでにだけはめる袖そでのようなものが、かつて市販しはんされていた。僕ぼくはウールワースで見みた。いまでも売うっているだろうか。僕ぼくは左ひだりの窓まどガラスを降おろしてみた。

雨あめが大量たいりょうに吹ふき込こんだ。窓まどの外そとに左腕ひだりうでを出だしてみた。腕うではたちまち濡ぬれた。雨あめの冷つめたさが心地良ここちよかった。しかし、あまり利口りこうそうには見みえないのではないか。僕ぼくは腕うでを引ひっ込こめ、ガラスを上あげた。濡ぬれた左腕ひだりうでをどうすればいいか。濡ぬれたままにして僕ぼくは町まちへ向むかった。

スーパーマーケットにさしかかって、僕ぼくはカプリースを歩道ほどうに寄よせて徐行じょこうさせた。そして歩道ほどうの縁えんに接近せっきんさせて停止ていしし、ドアを開ひらいて外そとに出でた。マーケットの建物たてものの壁かべに寄よせて、新聞しんぶんの販売はんばい箱はこが置おいてあった。歩あゆみ寄よった僕ぼくは代金だいきんを入いれ、なかに重かさねてある新聞しんぶんを一部いちぶ、いちばん下したから抜ぬき出だした。

この箱はこを新聞しんぶんの販売はんばい機きと呼よぶには、それはあまりに手動しゅどうに過すぎる。販売はんばい箱はこと呼よぶほかないだろう。代金だいきんを入いれない人ひとも、いまは多おおいのではないか。カプリースに戻もどって運転うんてん席せきに入はいり、隣となりのシートに新聞しんぶんを置おき、僕ぼくはドアを閉とじた。ミラーでうしろを見みて、発進はっしんさせた。このくらいの大おおきさの車体しゃたいだと、意図いと的てきな急きゅう発進はっしんのほかは、発進はっしんするときは常つねにおもむろだ。

いきつけの食堂しょくどうの前まえを、僕ぼくはゆっくりと通過つうかした。ヒロにいるとき、朝食ちょうしょくを僕ぼくはほとんどいつも、この店みせで食たべる。歩道ほどうにはそのブロックの端はしまで軒のきがある。空あいているスペースに僕ぼくはカプリースを停とめた。ドアを開ひらき、外そとに出でてドアを閉とじ、ロックした。ドアの開閉かいへい回数かいすうを記録きろくする小ちいさな計器けいきがドアのどこかにあると面白おもしろい、と僕ぼくは思おもった。

朝食ちょうしょくの時間じかん帯たいの、いまはそのいちばんおしまいの部分ぶぶんだ。食堂しょくどうのカウンターには空席くうせきがいくつかあった。今朝けさはなにを食たべるか、家いえを出でる前まえに僕ぼくは考かんがえておいた。白しろい長袖ながそでのシャツに黒くろいボウ・タイを締しめた店主てんしゅに、僕ぼくはそれを告つげた。

トーストを四よん枚まいに、卵たまごふたつのベーコン・アンド・エッグス。マウイ・トマト一いち個このスライス。そしてコーヒー。これだけだ。卵たまごふたつのベーコン・アンド・エッグスは、二に枚まいのトーストにはさんでサンドイッチにする。一いち杯はいのコーヒーとともに、まずこれを食たべる。

それからトマトのスライスをすべて、少すこしずつずらしながら一いち枚まいのトーストの上うえにならべ、アルプスの岩塩がんえんを降ふってもう一いち枚まいのトーストをかぶせ、サンドイッチにする。これに二に杯はいめのコーヒーを付つき添そわせる。以上いじょうのような朝食ちょうしょくだ。店主てんしゅは調理ちょうり場じょうへ入はいっていった。

食後しょくごにはパパイアの半分はんぶん。そして仕上しあげにコーヒーをもう一杯いっぱい。だからコーヒーは合計ごうけいで三さん杯はいになる。待まつほどもなく、僕ぼくの朝食ちょうしょくはすべてカウンターに揃そろった。自分じぶんでサンドイッチにして、僕ぼくは食たべた。客きゃくが何なん人にんか入はいって来きた。遅おそい朝食ちょうしょくの人ひとたちだ。彼かれらが食たべ終おえる頃ころ、この店みせの朝食ちょうしょくの時間じかんは終おわる。

店みせから外そとの雨あめまで素通すどおしだ。雨あめの匂においが僕ぼくの朝食ちょうしょくに重かさなる。道路どうろを自動じどう車しゃが走はしっていく。窓まどごしに見みるともなく見みると、大おおきくて平ひらたい車体しゃたいの、ふた昔むかし以上いじょうも前まえのアメリカの乗用じょうよう車しゃだ。ヒロの町まちに適てきした速度そくどで走はしっていくとき、今日きょうのような雨あめの日ひには、路面ろめんの雨あめをタイアが踏ふみつける音おとがことのほか耳みみに心地良ここちよい。

僕ぼくのカプリースもおなじような音おとをたてているはずだと思おもうと、うれしい気持きもちになる。そしてその気持きもちは、朝食ちょうしょくに対たいする満足まんぞく感かんを、ゆったりと包つつむ。雨あめは地球ちきゅうの芸術げいじゅつだ。不ふ統一とういつきわまりない現実げんじつというものを、雨あめはひとつにまとめ上あげる。ヒロに降ふる雨あめは作品さくひんの域いきに達たっしていると言いっていい。

半分はんぶんに切きられたパパイアは、皮かわだけを残のこして空そらになった。三さん杯はいめのコーヒーも飲のみ終おわった。僕ぼくはたいへん満足まんぞくだ。さて、これから、どうするか。カプリースで雨あめのなかをどこかへ向むかおう。どこでもいい。適当てきとうなところに駐車ちゅうしゃして、運転うんてん席せきで新聞しんぶんを読よもう。雨あめの日ひの新聞しんぶんの匂においが、カプリースのなかに漂ただよう。

それはなんという至福しふくの時ときであることか。音おとを出ださない口笛くちぶえを吹ふいている自分じぶんを、僕ぼくは自覚じかくしていた。ほとんど息いきだけの口笛くちぶえだ。気分きぶんのいいとき、自分じぶんだけのために、僕ぼくはこういう口笛くちぶえを吹ふく。子供こどものときから続つづいている癖くせのようなものだ。

カウンターをはさんで僕ぼくと向むき合あっていた店主てんしゅは、

「それは『ヒロ・マーチ』だね」

と言いった。それとは、僕ぼくが息いきだけの口笛くちぶえで吹ふいていたメロディのことだ。彼かれが言いうとおり、確たしかにその曲きょくは『ヒロ・マーチ』だ。気分きぶんがいいから息いきだけの口笛くちぶえを吹ふくとき、まずたいていの場合ばあい、その曲きょくは『ヒロ・マーチ』になる。これも子供こどもの頃ころからずっとそうだ。

店主てんしゅのひと言ことを直接ちょくせつのきっかけにして、遠とおい昔むかしのことを僕ぼくは久ひさしぶりに思おもい出だした。

Click a word · hold for the whole sentence 0%