部屋の明かりは消してある。蝋燭がひとつだけ灯っている。直径が十センチほどもある、丈の低い蝋燭だ。柑橘類の香りが蝋のなかに加えてある。燃えるほどに、その柑橘の香りが空気のなかに放たれる。蚊を近づけないための香りだ、と僕は姉から聞かされた。
夜の風が部屋のなかに入ってくる。蝋燭の炎はその風を受けて揺らめく。炎の揺らめきは、それが作る影の揺らめきへと、視覚的に増幅される。姉の好みだ。
部屋のかたほうの隅にある小ぶりな四角いテーブルの、ひとつの角を中心にして肘かけ椅子がふたつ、テーブルの二辺と向き合っている。姉と僕とは、そのふたつの肘かけ椅子に、それぞれすわっている。椅子のすわり心地の良さをとおして、僕はその椅子の簡潔きわまりないデザインを、頭のなかに思い浮かべる。
夜の静かな時間のなかで、僕たちはワインを飲んでいる。ワインの瓶がテーブルの上にある。瓶に貼ってあるレイベルが僕のほうを向いている。ウルパラクア・レッドという文字が、かすかに読める。ハレアカラのスロープにあるテデシ・ワイナリーにとっての、最初の赤ワインだ。レイベルに描いてあるのは、そのワイナリーのテイスティング・ルームのある建物だ。
「ウルパラクア・レッド」
と、僕は声に出して言ってみた。
「悪くないのよ」
姉が答えた。この赤ワインのことを、姉は言っている。これからもっと良くなる予感のある出来ばえだ。
花模様のあるごく薄い生地のローブを、姉は裸の体にまとっている。浴衣のように前を打ち合わせ、紐を軽く結ぶ。自宅にいるときの姉は、陽が落ちてからの時間には昼間の服を着ない。かならず着替える。
「ウルパラクアというハワイ語の地名と、レッドというわずか三文字による英語の基本単語との結びつきかたは、けっして悪くない」
と、僕は言った。
「エキゾティックな雰囲気があるわね。見た目にも、そして声にして出した音にも」
「アルファベットのならびかたが面白い。なんとなくアフリカを感じさせるような気もする」
「Uの字が三つもあるからでしょう」
姉の指摘の正しさに感心する気持ちとともに、僕はワイン・グラスのなかの赤ワインを飲んだ。
「ハワイ語と英語との、幸せな結びつきの一例になるといい」
「ホノルル・ムーンのように?」
姉が言った。僕は笑った。ムーンとは月だ。ホノルルの月。ホノルルというハワイ語に結びついた英語のなかで、もっとも幸せな一語はなにだろうか、という会話をかつて僕は姉と交わした。そのときの僕たちの結論は、ムーンというひと言をおいてほかにない、ということだった。ホノルルというハワイ語と、英単語ひとつとの結びつきのもっとも幸せな例は、ホノルル・ムーンなのだ。
「ハワイ語と英語との結びつきかたに僕が関心を持つことになったきっかけは、明確にくっきりとひとつある。マノア・ファイナンスという会社名を、ラジオのコマーシャル・メッセージで聞いたときだ。ハワイ・カイの山裾に沿って、ジグザグに折れ曲がったコンクリートの壁のように建っている高層の共同住宅の、何階かの部屋のバルコニーから僕は外を見ていた。外には雨が降っていた。山の斜面がすぐ目の前に迫っているという、僕の感じかたではきわめてハワイらしい光景に、男性の声によるコマーシャル・メッセージが背後から届いて重なり、そのメッセージのなかの決定的なひと言が、マノア・ファイナンスだった。マノアというハワイ語に、ファイナンスというような英単語が結びつく不思議さ、そして奇妙さは、ハワイ・カイのあの人工的に開発された住宅地の奇怪さと、なんの無理もなく溶け合ってひとつになった。山裾に建って山の急斜面と向き合っている、高層の共同住宅の何階かの一室のバルコニーから外を見ていたそのときの僕もまた、奇妙な存在だったに違いない」
という僕の長い台詞を、姉はワインを飲みながら受けとめた。そして彼女は次のように言った。
「マノア・ファイナンスがあるなら、アロハSアンドLがあってもおかしくないわね。アロハという言葉に英語の単語を結びつけた名称は、電話帳を見ればずらっとならんでるわ」
「アロハ葬儀社というのが、昔あったような気がする。日系の経営による葬儀社だ」
姉は笑った。
「アロハ葬儀社を最右端だとすると、そこから最左端の名称に向けて、それこそ電話帳に掲載されているとおり、たくさんのアロハなんとかがあるわけだ」
「最左端は、なにかしら。アロハ航空にアロハ・タワー。それから」
「アロハ・シャツ」
「そんなものかしら」
「そうだね」
「思いのほか、少ないのね」
「その中間のアロハなんとかは、たくさんある」
「アロハそのものは、じつに豊富なのよ。多すぎるくらい。でもアロハが、国際的な普遍性を獲得しているかというと、そんなことはないのね」
「世界じゅうの人たちの幸福に寄与している、アロハなんとか」
「そんなもの、ないのよ」
「アロハ航空とアロハ・タワーは、地元のものだ。普及度の広さを問題にするなら、もっとも広くいき渡っているのは、アロハ・シャツだろうか」
「しかしそれも、ハワイという特定の場所を、少なくともイメージの上では、ほぼかならずひきずっているわね」
「さっきのホノルル・ムーンと抱き合わせだ」
「でも、ホノルル・マラソンやホノルル・シティ・ライツなどとくらべると、ホノルル・ムーンはやはり、群を抜いて一位だと私は思うわ」
「ホノルルは月、そしてアロハはシャツ」
僕たちは笑った。
「アロハ・ボウルというのがあるわ」
「定冠詞がつくよね」
「ジ・アロハ・ボウル」
「クリスマスの日、午前十時のキック・オフ」
「シャツにくらべると、限定された世界よ」
部屋に夜の風が吹き込んだ。蝋燭の炎がその風を受けとめて揺れた。壁やフロアに映る影も大きく動いた。柑橘の香りが部屋のなかを小さな気流のように流れた。
「ロイアル・ハワイアン・ホテルには定冠詞がつくけれど、ハレクラニにはつかないね。ザ・ハレクラニという言いかたは、聞いたことがない」