まだごく幼かった頃すでに、僕は『別れの磯千鳥』の歌を知っていた。人が歌うのやレコードで再生されるのを聞けば、あ、またあの歌だ、と僕は認識することができた。部分的になら歌詞を知ってもいた。父親がこの歌を歌うのを聴いたのは、十四歳のときが初めてだった。
地元の確かライオンズ・クラブの集会だったと思う。単なる例会ではなく、なにだったか僕は知らないが、なにか特別な集まりだった。父親はメンバーとして出席しなければならず、姉の舞子は雑用を引き受ける世話係のひとりだった。僕もついていくことになり、三人で会場へいった。
会場には人がたくさんいた。誰もがおたがいに親しい知り合いのような雰囲気で、しかも誰もが限度いっぱいにその集まりを楽しもうとしていた。したがって会場のなかはたいへんなにぎわいだった。父親はすぐにどこかへいってしまった。世話係の姉は会場を歩きまわり、誰かれなく呼びとめられては、話をしていた。美人だし気が向けば座持ちがいいから、彼女には人気があった。
僕はずっとひとりで椅子にすわっていた。立食のテーブルがいくつもあった。それらをまわって適当に食べて夕食とし、あとは飲み物の紙コップを相手に、おなじ席にひとりでいた。会合がどんなふうに進行したのか、僕は記憶していない。関心がなかったからだ。記憶しているのは、バンドがステージに上がってからだ。
ポリネシア、日系、白人という雑多なとりあわせの、数人のバンドだった。フラ・スクールの女性たちがいた。なぜかドゥーワップの四人もいた。ごくたまに、なんの脈絡もなく、僕はこのドゥーワップ・グループの名前を思い出す。いまは思い出せない。
演奏があり歌があり、フラが何度も披露された。ひとりで漫談を語り、会場の人たちを大笑いさせた白人の女性もいた。何度めかの演奏のとき、リーダーとおぼしきポリネシア系の男性が、
「ジェフ。ここへきて歌ってくれよ」
と、会場の一角に視線を向けて言った。彼のそのひと言に反応して、人々は盛大な拍手をした。ジェフとは僕の父親のことだ、と僕はただちに認識した。父親は歌がうまいが、人前ではあまり歌わない。
「ここへこいよ。今夜はいいウクレレを持ってきてるんだ」
ウクレレという言葉に、会場の拍手はさらに盛り上がった。立ち上がった父親がステージに向けて歩いていくのを、僕はひとりで見守った。盛んな拍手に会釈しながら、父親はステージに上がった。バンドのリーダーからウクレレを受け取り、胸の前で軽く構えてマイクの前に立った。精悍でハンサムな、じつにいい男だった。
「今夜はなにを歌ってくれるんだい」
リーダーが訊いた。
会場のまんなかあたりで、女性が歌のタイトルを叫んだ。なんというタイトルだったのか、僕には聞き取れなかった。父親はその声の方向に視線を向け、微笑した。そしていきなり、
「ヨシオ」
と、僕の名を呼んだ。彼は僕がどこにいるのかわからない様子だった。
「ヨシオ」
彼はふたたび僕の名を呼んだ。僕は手を上げた。父親は僕のほうに視線を向け、
「きみのお母さんが好きだった歌だ」
と言った。
マイクロフォンをとおした彼のそのひと言の、余韻が消えると同時に見事なタイミングで、バンドは演奏を始め父親はウクレレをかなでた。彼は歌い始めた。
逢うが別れの始めとは、知らぬ私じゃないけれど。せつなく残るこの思いを知っているのは磯千鳥だけだというこのよく知られた歌は、当時の僕にとっては、単なる感傷的な歌のひとつだった。歌そのものには特別の感慨はなかった。
父親の歌いぶりは、ものすごくうまいものだった。歌がうまいと同時に、その歌に託して、自分だけのものであるはずのなにごとかを、聴く人に存分にあたえてもいた。受け取ったそのとたん、その人は父親の歌の内部にからめ取られる。
声にはやや硬めの艶があり、どの音域でも張りを失わなかった。喋るときの声の印象とは、かなり違っていた。いま歌っているこの男性が自分の父親であることを、僕はたいそううれしく思った。会場に広がっていく歌声に、僕は誇りすら感じた。
歌い終えた彼は盛大な拍手を受けた。一曲だけでステージを降りるわけにいかず、続けて二曲か三曲、彼は歌った。そして最後の歌はコミカルな歌だった。歌詞のひと言ごとに会場の人たちは大声で笑った。口笛が鳴り声援が飛んだ。バンドの人たちは水を得た魚だった。陽気な大騒ぎがなにより好きという本来の姿で、歌う父親を支えた。
父親がステージを降りたあと、僕が最初に思ったのは、この歌は僕の母親の主題歌なのだ、ということだった。彼女は僕が三歳のときに他界した。その彼女に、別れの歌であるこの歌は、ふさわしい。歌詞のなかでは、陸に残る人と船で去る人とが、別れている。陸に残されたほうの人の視点から、その別れは歌われている。その視点に母親は共感したのだろうか、と僕は思った。
このときからちょうど十年後、二十四歳の僕が日本語で最初に書いた短編小説は、およそ次のような内容のものだった。
ハワイに生まれてハワイで育った日系の青年がひとりいる。彼は作曲家を志している。ポピュラー・ソングの作曲家だ。高校生の頃から彼は音楽の才能をさまざまに発揮し、将来を嘱望された存在だった。アメリカ本土の学校で音楽を本格的に勉強する、という方向が少しずつ確定していく。しかし彼は日本へ留学することにきめる。
戦前の日本だ。日本は父母の国ではあるけれど、二世の彼にとっては初めて体験する、ほぼ完全に未知の世界だ。日本は戦争に向けての傾斜を大きくしつつあった。貧しい国が無理に無理を重ねて戦争をしようというのだから、時代は急激に暗さを増して当然だ。
そんな日本での彼の生活は、しかし、おおむねうまくいく。勉学は充実していた。日常は発見に満ちていた。そして彼はひとりの日本女性と知り合った。彼女は学校の先生をしていた。歌人でもあった。短歌を作る人だ。