居間の外の廊下に舞子の足音が聞こえた。その廊下の明かりが消えた。舞子が壁のスイッチをオフにしたのだ。居間の外が暗くなった。開いてあったドアから、舞子が居間に入って来た。
室内で履く美しくて心地良さそうな靴を素足に。軽く揺れ動く薄い生地の長いスカート。長袖のシャツの上にはおったカーディガン。雨の降り続く、気温の低い夜だ。居間に入って舞子は立ちどまった。かたわらの壁に明かりのスイッチがあった。それに向けて、彼女としてはごく自然に、しかしソファから見ている僕にとってはきわめて優美に、彼女は手をのばした。
彼女は僕を見て微笑した。明かりを消してもいいかしら、という意味だ。僕はうなずいた。明かりを消した舞子は、暗くなった居間のなかをソファまで歩いて来た。僕のかたわらにすわった。ソファが受けとめた彼女の体重が、ソファのクッションごしに僕に伝わった。
僕は映写機のスイッチをオンにした。8ミリのホーム・ムーヴィ用の映写機だ。さきほど僕がフィルムをとおし、正しく写るかどうか試してみた。ソファはL字型で、その内側にガラス・トップの低い楕円形のテーブルがあり、映写機はその上に載せてあった。居間の壁に向けて、映写機のレンズから光の束が放たれた。
居間の壁にはきめの細かな布が貼ってある。色はごく淡いベージュだ。いまのようにホーム・ムーヴィーを映写するとき、その壁は充分にスクリーンの代用となった。壁に寄せてスピーカーがふたつ置いてあった。そのふたつのスピーカーのあいだにほどよい空間があり、その部分の壁が、映写機からの光を横置きの長方形として、平らに受けとめた。
なにも写っていない部分がしばらく続いた。フィルム面の微細な傷やほこりが、壁の受けとめる光のなかに拡大され、上下そして左右に、小きざみに動いた。画面ぜんたいが淡いブルーとなった。
「カリフォルニアの青い空」
僕のかたわらで舞子がそう言った。
青い空だけをとらえた画面だ。晴天の日のカリフォルニアの空にしては、明らかに淡かった。8ミリのフィルムはごくかすかに褪色を始めているようだ。空をとらえていた撮影機は、そのままパン・ダウンした。四角くて大きく平らな建物が、画面のなかにあった。スーパー・マーケットだということは、すぐにわかった。
その建物の、側面とも正面ともつかない部分に、観音開きのガラス・ドアが大きくあった。そのドアの片方が、内側から外に向けて開いた。日系の男性がひとり、建物から外へ出て来た。建物の周囲は広くコンクリートのたたきになっていて、頭上には深く軒が張り出していた。男性はうしろ手に乳母車を引いていた。乳母車は空だった。
「撮影したのはメロディの妹ですって。フィルムといっしょに袋に入っていたカードに、そう書いてあったわ。乳母車を買った日。私のための乳母車」
乳母車を自分の正面にまわし、日系の男性は撮影機に向けて片手を上げ、微笑した。青年の年齢は過ぎているけれど、青年の雰囲気を残した、ハンサムな男性だった。厳しく高度に訓練された現役の精鋭の兵士が、たまの休暇を楽しんでいるような雰囲気を、僕はその男性に感じた。僕と舞子の、まだ三十八歳だった頃の父親、ジェフリーだ。そしてメロディとは、ジェフリーの最初の妻の名だ。
軍隊の制服のように見える半袖のシャツのポケットから、ジェフリーはサングラスを取り出し、軽くひと振りしてつるを出し、顔にかけた。彼が持っている兵士のような雰囲気は、サングラスによってさらに強まった。乳母車のハンドルに手をかけた彼は、軒が作る影から陽ざしのなかへ、乳母車を押して出て来た。撮影者から浅い角度で斜めに遠ざかるように、彼は歩いた。その彼を、おなじ場所にとどまったまま、撮影機が追った。
乳母車を押して陽ざしのなかを歩く彼を、撮影機はうしろからとらえた。歩いていく彼の向こうに、駐車してある自動車の列が見えた。自動車のかたちのそれぞれが、過ぎ去って遠い時代そのものだった。
「さっきの店で乳母車を買ったのよ。自宅へ持って帰るのだわ」
僕のかたわらで舞子が囁くように言った。壁に映写されているフィルムの、ショットが変わった。自動車のトランクを開くジェフリーを、撮影機は至近距離からとらえた。折りたたんだ乳母車を、ジェフリーはトランクのなかに横たえた。そしてトランクを閉じ、店のほうを振り返った。なにげない動作がひどく精悍だった。
「アメリカ軍兵士」
と、舞子は言った。
「最初から最後まで、そうだったわね。なにしろ二世部隊の兵士で、モンテ・カシーノを生きのびた人だから」
ショットがふたたび変わった。
走る自動車の後部座席から、ダッシュボードとその向こうのウィンドシールドごしに、道路をとらえたショットだ。影になっている運転席とダッシュボードのすぐ外には、強い陽ざしを照り返しているエンジン・フードがあった。フードの中央に立つマスコットが輝き、そのさらに向こうには、こちらに向けてたぐり寄せられ続ける道路があった。
「両親が住んでいた家の住所はわかるし、乳母車を買ったさっきの店も、フィルムの袋に入ってたカードに書いてあったわ。だからこの道路は、いつまでも簡単に特定出来るでしょうね」
舞子の言葉は、8ミリのサイレント・フィルムに対する、解説音声のように機能した。ショットが変わった。当時のカリフォルニアの、ごく普通の民家の全景だった。空の青さがここではさらに淡く褪色していた。家の外壁の白さは、よりいっそう白くなっていた。そのような褪色が、陽ざしの透明さをせつなさへと転換する効果を発揮している様子を、僕は観察した。
前庭に停めた自動車のトランクから、ジェフリーがたたんだ乳母車を降ろしていた。たたんであるのをフルに広げ、彼はそれを地面に降ろした。ジェフリーはふと撮影機に顔を向けた。そしてショットが変わった。
その家の玄関が、壁に写る長方形の画面のなかにあった。玄関から撮影者までの距離が絶妙だ、と僕は思った。庭の芝生の緑が美しい緑色だった。