← Library‹ ラハイナまで来た理由 濡れた新聞とコナ・コーヒー

ついさきほど僕ぼくはこの家いえへ来きた。晩年ばんねんに入はいってからの父親ちちおやが、十じゅう年ねん以上いじょうにわたって、ひとりで住すんだ家いえだ。七十ななじゅう五ご歳さいになっていた彼かれは、六ろくか月げつ前まえ、この家いえで亡なくなった。死因しいんはごく単純たんじゅんな心臓しんぞう麻痺まひだった。

彼かれが死亡しぼうしたとき、僕ぼくはホノルルにいた。一いち週間しゅうかん前まえに東京とうきょうから来きて、写真しゃしんを撮とる仕事しごとを続つづけていた。舞子まいこには連絡れんらくを取とらずにいた。さらに一いち週間しゅうかんたってから、僕ぼくは舞子まいこに電話でんわをかけた。そして僕ぼくたちの父親ちちおやの死しを、彼女かのじょから知しらされた。亡なくなったのはちょうど一いち週間しゅうかん前まえだった、と彼女かのじょは言いった。僕ぼくが初はじめに予定よていしていたとおり、撮影さつえいの仕事しごとをホノルルではなくヒロから始はじめていたら、僕ぼくは父親ちちおやと会あう最後さいごの機会きかいを持もてたはずだ。

舞子まいこに電話でんわをかけた次つぎの日ひの午後ごご、僕ぼくはアロハ航空こうくうのヒロ便びんに乗のった。いつものとおりきわめて平凡へいぼんに島しまから島しまへ飛とび、なにごともなく空港くうこうに着陸ちゃくりくし、エイヴィスで自動じどう車しゃを借かり、父親ちちおやの住すんでいた家いえへ向むかった。いま僕ぼくがひとりで来きている、この家いえだ。

父親ちちおやの最後さいごについて知しりたければ、マリオン・カナカオレに会あうといい、と姉あねの舞子まいこは言いっていた。マリオンは看護かんご婦ふの資格しかくを持もっている人ひとだ。介護かいごも特別とくべつの注意ちゅういもまだ必要ひつようではないけれど、ひとりあるいは夫婦ふうふだけで暮くらしている高齢こうれいの人ひとたち何なん人にんかを、彼女かのじょは専任せんにんで毎日まいにち巡回じゅんかいしている。僕ぼくたちの父親ちちおやもマリオンが担当たんとうしていた。六ろくか月げつ前まえ、今日きょうとおなじような日ひの午後ごご、僕ぼくはマリオンに連絡れんらくを取とった。午後ごご遅おそく、マリオンは家いえまで来きてくれた。

居間いまの中央ちゅうおうにイージー・チェアがひとつある。ぜんたいがどっしりした作つくりの、背せもたれの高たかくて分厚ぶあつい、肘ひじかけの部分ぶぶんも広ひろく安定あんていした、少すくなくとも四十よんじゅう年ねんくらいは前まえのものだ。かたわらには楕円だえん形けいの小ちいさなコーヒーテーブルがあり、正面しょうめんには両足りょうあしを乗のせてくつろぐための、本体ほんたいと揃そろいのオットマンがあった。そのイージー・チェアを指ゆびさして、マリオンは僕ぼくに次つぎのように語かたった。

「巡回じゅんかいの時間じかんは毎日まいにち一いち時間じかんずつ、ずれていくようになってるのよ。その日ひもいつものとおり、私わたくしはここへ来きました。車くるまを庭にわに入いれ、車くるまを降おりてポーチに向むけて歩あるいていく途中とちゅう、私わたくしには直感ちょっかんがあったの。いま考かんがえても根拠こんきょはなにもないのだけれど、職業しょくぎょう的てきな勘かんと言いってもいい直感ちょっかんね。私わたくしは走はしり、ポーチを駆かけ上あがり、ドアを開ひらいて家いえのなかに入はいりました。今日きょうとおなじような、晴はれた日ひの静しずかな午後ごご。家いえのなかに入はいったとたん、私わたくしは自分じぶんの直感ちょっかんの正ただしさを知しったの。家いえのなかは妙みょうにひんやりしていて、すべてのものがぴたっと静止せいししてました。お父ちちさんの名なを呼よびながら、私わたくしはまずこの居間いまへ来きたわ。お父ちちさんはこのイージー・チェアにすわってたわね。両腕りょううでを肘ひじかけに置おいて、背せもたれに体からだを頭あたまを預あずけ、軽かるく昼寝ひるねをしているような姿勢しせいだったわ。彼かれの前まえへまわってフロアに膝ひざをつき、彼かれの顔かおを見みたの。目めは閉とじていて、ほんとに眠ねむっているみたい。でも、その眠ねむりは、長ながい長ながい眠ねむりなのね。私わたくしは脈みゃくを取とってみました。彼かれの体からだは冷つめたかったわ」

マリオンが彼かれをそのように発見はっけんしたのは、イージー・チェアにすわったままの彼かれが死亡しぼうしてから、三さん時間じかんほど経過けいかしたあとだったという。

「ほんとに気持きもち良よさそうに昼寝ひるねをしてるみたいで、私わたくしはうらやましさを感かんじたほどだったのよ。コーヒー・テーブルには、コーヒーの入はいったマグがあったわ。半分はんぶんほど飲のんであって。キチンで午後ごごのコーヒーをいれた彼かれは、居間いまへ持もって来きてイージー・チェアにすわり、晴はれた日ひの庭にわを見みながら、そのコーヒーを半分はんぶんまで飲のんだのよ」

六ろくか月げつ前まえのその日ひ、マリオンが帰かえってから、僕ぼくはキチンへいってみた。おおざっぱな造つくりの、しかし使つかいやすそうな広ひろいキチンだ。シンクの水切みずきりの上うえに、父親ちちおやのコーヒー・マグが伏ふせてあった。きれいに洗あらってあった。おそらく舞子まいこが洗あらったのだ、と僕ぼくは思おもった。

キチンの作業さぎょうテーブルにはコーヒー豆まめの入はいった缶かんがあった。父親ちちおやはハワイ・コナのコーヒーしか飲のまない人ひとだった。その豆まめをグラインダーで挽ひいた僕ぼくは、湯ゆを沸わかした。そして父親ちちおやのマグいっぱいにコーヒーをいれ、居間いまのイージー・チェアまで持もっていった。ひとりでイージー・チェアにすわり、僕ぼくはコーヒーを飲のんだ。

六ろくか月げつ後ごの今日きょう、おなじことを繰くり返かえすつもりで、僕ぼくはこの家いえに来きた。家いえのなかは半年はんとし前まえとまったくおなじだった。舞子まいこが人ひとを頼たのんで定期ていき的てきに掃除そうじをさせている。当分とうぶんのあいだ、家いえのなかはそのままにしておきたい、と舞子まいこは言いっていた。整理せいりしたくない、ということだ。僕ぼくもおなじ意見いけんだった。

僕ぼくはキチンへいった。おなじ缶かんの豆まめでおなじマグに、僕ぼくは熱あついコーヒーをいれた。マグを片手かたてに持もち、僕ぼくはキチンを出でようとした。なにかを忘わすれているような気きがした。僕ぼくは、ドアのところで立たちどまって振ふり返かえった。作業さぎょう台だいの端はしに広ひろげてある新聞しんぶんを、僕ぼくの視界しかいはその縁えんの部分ぶぶんでとらえた。

作業さぎょう台だいへ戻もどった僕ぼくは、その新聞しんぶんをたたんだ。新聞しんぶんとコーヒー・マグを持もち、僕ぼくはキチンを出でた。居間いまへ戻もどった。コーヒー・テーブルにマグを置おき、僕ぼくはイージー・チェアにすわった。オットマンを引ひき寄よせて両足りょうあしを乗のせた。新聞しんぶんは片手かたてに持もったまま、僕ぼくは視線しせんを正面しょうめんに向むけた。居間いまの広ひろがりの向むこうにガラス戸と、そしてガラス戸との外そとは板張いたばりのラナイだ。その外そとに、広ひろい庭にわがあった。

日本にっぽんふうに造つくった庭にわだ。造園ぞうえんの本ほんを参考さんこうにしながら、父親ちちおやが少すこしずつ造つくった。その作業さぎょうをする彼かれを最後さいごに見みてから、十じゅう年ねん近ちかくになるのではないか、と僕ぼくは思おもった。おおざっぱにひととおりぜんたいを造つくったあと、定期ていき的てきな草刈くさかりのほかは、ほとんど手てをかけることなしに十じゅう年ねんが経過けいかした。その結果けっかとして、無理むりをいっさい感かんじさせない、気持きもちのいい庭にわとなった。

築山つきやまが優やさしく起伏きふくを作つくり、思おもいがけないところに灯籠とうろうがあった。父親ちちおやは盆ぼんになると灯籠とうろうに蝋燭ろうそくを灯ともした。蝋燭ろうそくに火ひをつけ、灯籠とうろうのなかに立たててくるだけの動作どうさでも、作戦さくせん行動こうどう中ちゅうの兵士へいしの動作どうさのように見みえた。今度こんどの盆ぼんにはかならず舞子まいこがあの灯籠とうろうに蝋燭ろうそくを灯ともすはずだ、と僕ぼくは思おもった。

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