← Library‹ ラハイナまで来た理由 赤い帽子のバトロメ

「バトロメというハオレで、いつも絵えを描えがきよった。画家がかよのう」

僕ぼくの父親ちちおやの父親ちちおや、つまり祖父そふがかつて僕ぼくに語かたったことを、いま僕ぼくはひとりで思おもい出だしている。当時とうじの僕ぼくは、十じゅう歳さいになったかならないか、という年齢ねんれいだった。昔話むかしばなしをするときの祖父そふの、楽たのしそうな笑顔えがおやそれとよく調和ちょうわしていた口調くちょうも、僕ぼくは思おもい出だす。

「赤あかいハットをかぶってばかりおったから、赤帽あかぼう子このバトロメいうてね。ラハイナでは知しらん人ひとはおらんかったよ。背せの高たかい男おとこでね。ファースト・ネームは、なにいうたかね。覚おぼえとらん。外そとのいろんな場所ばしょで絵えを描えがきよるのを、毎日まいにちのように見みかけたよ。暇ひまなバトロメがまた絵えを描えがきよるいうてね。見みかけないと寂さびしい気持きもちがしたもんじゃ」

僕ぼくの祖父そふは山口やまぐち県けんからハワイに渡わたった人ひとだ。最終さいしゅう的てきにはマウイのラハイナに落おち着つき、そこで農業のうぎょう技術ぎじゅつ者しゃとして成功せいこうした。大量たいりょうの水みずを必要ひつようとする砂糖さとうきび畑はたけには、水みずを誘導ゆうどうするための水路すいろが縦横じゅうおう無尽むじんに掘ほってある。険けわしい山やまあいからフルームで延々えんえんと引ひいた水みずを、まず貯水ちょすい池ちにためておく。最さい適切てきせつな時間じかんに貯水ちょすい池ちの水門すいもんを開ひらき、最さい適量てきりょうの水みずを水路すいろへと解放かいほうしなければならない。祖父そふはこの水門すいもんを造つくり、管理かんりしていた。昔むかしから地元じもとに住すんでいる人ひとたちのあいだでは、この水門すいもんはラハイナ・パンプとして知しられている。

「祭まつりの日ひや記念きねん日ひには、大おおきな額がくに収おさめた絵えをいくつも、バトロメは町まちの人ひとたちに見みせよったよ。見みにいったのを覚おぼえちょる。晴はれ着ぎに着替きがえて、帽子ぼうしをかぶってね。見みなれた光景こうけいが、たいそうな額がくに収おさまって、見事みごとな芸術げいじゅつになっちょる。誰だれもが感心かんしんしたもんよ。わしは芸げいや芸能げいのうはいろいろ見みてたけれど、芸術げいじゅつにはバトロメの絵えで開眼かいがんしたよ。家いえの外そとに出でればいつでもそこにある現実げんじつの景色けしきと、バトロメがその景色けしきを描えがいて額がくに入いれた絵えと、世よのなかにはふたとおりあるんよのう。わしらはいつも現実げんじつのほうじゃったが、バトロメは額がくのかなに生いきよった」

僕ぼくに語かたった祖父そふの言葉ことばを、この程度ていどでよいなら、僕ぼくは紙かみの上うえに文字もじで再現さいげんすることが出来できる。

「ユーのファーザを、バトロメが絵えのなかに描かき込こんだことが、ありよったよ。出来上できあがったときには、畳たたみ二に枚まいほどの大おおきなオイル・ペインティングでね。あんたのファーザが、ちょうどいまのあんたくらいじゃったか。あんたのファーザが学校がっこうから帰かえると、ストアの前まえのおなじ場所ばしょで、何なん日にちも繰くり返かえして、下絵したえを取とりよったが。その頃ころのあんたのファーザは、まっ黒くろに陽ひに焼やけた小ちいさな腕白わんぱく小僧こぞうじゃったが、バトロメの絵えのなかに入はいりゃあ芸術げいじゅつよのう。マナリーサや耳みみなしのヴァン・ゴウとおなじじゃ」

そんなふうに語かたって、祖父そふは皺しわの深ふかい顔かおで笑わらっていた。彼かれの皺しわの深ふかさは、幼おさない僕ぼくにとっては、祖父そふという人ひとの体からだの強つよさの象徴しょうちょうのように思おもえた。これだけ皺しわが深ふかくなっても、これだけ元気げんきなのだから、というような受うけとめかただ。マナリーサとは日本にっぽん語ごで言いうモナリザのことだ。そして耳みみなしのヴァン・ゴウとは、ヴァン・ゴッホの自画じが像ぞうのことだ。

祖父そふから僕ぼくがこの話はなしを聞きいてから十じゅう数すう年ねん後ご、僕ぼくが二十にじゅう代だいの後半こうはんだったある日ひ、なんの脈絡みゃくらくもなしにいきなりこの話はなしを思おもい出だした僕ぼくは、ほんとにあった話はなしなのかどうか、父親ちちおやに聞きいてみた。父親ちちおやは苦笑くしょうしながら首くびを振ふり、

「まったくの作つくり話ばなしだよ」

と、答こたえた。まったくの作つくり話ばなし、という言葉ことばを、コンプリート・ファブリケーション、と父親ちちおやは表現ひょうげんした。

「バトロメというのはスティーヴン・バーソロミューという人ひとで、ハワイを描えがいた画家がかとしては有名ゆうめいな存在そんざいだよ。僕ぼくがラハイナで子供こどもだった頃ころ、バーソロミューもラハイナにいて絵えを描えがいていたことは確たしかだけれど、バーソロミューの絵えのモデルになった記憶きおくは、僕ぼくにはまったくない」

幼おさない頃ころに祖父そふから聞きいたバトロメについての話はなしを、僕ぼくは完全かんぜんに信しんじていた。十じゅう数すう年ねん後ご、父親ちちおやによってその話はなしが否定ひていされ、僕ぼくの信しんじかたは五十ごじゅうパーセントまで落おちた。そしてそのまま、さらに年月としつきが経過けいかした。

いったん忘わすれてしまうと、次つぎに思おもい出だすまでに、かなりの時間じかんを必要ひつようとするらしい。三十さんじゅう歳さいの夏なつのおわりに、僕ぼくはバーソロミューのことを思おもい出だした。舞子まいこに宛あてた手紙てがみのなかに、祖父そふから聞きいたバーソロミューの絵えのこと、そしてその祖父そふの話はなしを完全かんぜんに否定ひていした父親ちちおやの言葉ことばなど、すべてを僕ぼくは書かいた。舞子まいこに宛あてる手紙てがみに書かくこととして、それは久ひさしぶりに恰好かっこの話題わだいだった。舞子まいこからすぐに返事へんじが来きた。そのなかの一節いっせつは次つぎのようだった。

「ほんとにびっくりしました。私わたくしたちの父親ちちおやと祖父そふとに、バーソロミューが少すこしでも関係かんけいしているという話はなしを、私わたくしは初はじめて聞ききました。スティーヴン・バーソロミューは残念ざんねんながらいまは故人こじんです。ハワイの、たとえば画廊がろうで仕事しごとをしている人ひとたちなどのあいだでは、彼かれの名なはたいへんよく知しられています。昔むかしのハワイの田舎町いなかまちの生活せいかつ感かんを、生いき生いきと描写びょうしゃした油絵あぶらえを数多かずおおく残のこし、彼かれの作品さくひんを熱心ねっしんに求もとめる人ひとたちはいまもたくさんいて、作品さくひんの多おおくは故人こじんの所有しょゆうになっているそうです」

僕ぼくに宛あててこのような返事へんじを書かいたあと、舞子まいこは引ひき続つづきバーソロミューについて調しらべたらしい。その結果けっかを彼女かのじょは手紙てがみで僕ぼくに教おしえてくれた。バーソロミューについての研究けんきゅう家かがオランダに在住ざいじゅうしていることを、舞子まいこはつきとめた。当時とうじ七十ななじゅう歳さいの女性じょせいで、画家がかとしてのバーソロミュー、個人こじんとしてのバーソロミュー、彼かれが残のこした絵画かいが作品さくひん、そして彼かれが生いきた時代じだいのハワイについて彼女かのじょがおこなった研究けんきゅうは、事実じじつの調査ちょうさが細こまかく的確てきかくで、洞察どうさつは深ふかくいきとどいているということだった。

『バーソロミューは日記にっきをつけていた人ひとで、その全冊ぜんさつが残のこっていて保存ほぞんされているそうです。私わたくしたちの父親ちちおやが十じゅう歳さいくらいだった頃ころ、彼かれがバーソロミューの絵えのなかに描かき込こまれた可能かのう性せいがあるかどうか、彼女かのじょに調しらべてもらったのです。バーソロミューについて調しらべるのは、それがどんなことであれ、彼女かのじょにとってはたいへんに楽たのしいことのようです。返事へんじはすぐに届とどきました。コピーを同封どうふうします』

いつもとおなじく、手紙てがみを綴つづっていく舞子まいこの文章ぶんしょうは、冷静れいせいさそのものだった。同封どうふうしてあったバーソロミューの研究けんきゅう家かの返信へんしんのなかで、もっとも重要じゅうような部分ぶぶんは次つぎのように書かかれていた。

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