僕の父親が晩年にひとりで住み、息を引き取った家は、ハワイの普通の民家にしては複雑な間取りをしている。複雑というよりも、凝っている、と言ったほうがいいだろう。そしてその凝りかたの方向は、そこに住む人の快適さへの配慮であり、結果として間取りぜんたいはたいそう洒落ている。東京に自分の家を作ることがもしあればこの家を真似すればいい、と僕はかつて思った。
ポーチの階段を上がり、正面のドアから家のなかに入ると、この家の内部でのパブリックなスペースのいちばん手前に、身を置くことになる。間取りぜんたいが占めるスペースのおよそ三分の一が、パブリックなことのためのスペースとなっている。父親がイージー・チェアにすわったまま他界した居間は、そのパブリックなスペースの中心に位置している。
パブリックなスペースから廊下を曲がりながら奥へと入っていくと、そこはいつのまにかプライベートなスペースだ。パブリックなスペースとプライベートなスペースとを、区切ると同時につないでもいるのがこの廊下だ。この廊下も魅力的に出来ている。僕はこの家ではこの廊下がいちばん好きかもしれない。
廊下の途中に本棚がある。柱と柱とのあいだがきっちり三メートルの部分があり、その部分の壁をフロアから天井までふさいで、本棚が作りつけてある。父親が自分で作った本棚だ。この本棚に、父親がかつて自分のものとして手にして、少しでも読んだり眺めたりした本や雑誌、つまり市販された印刷物が、すべて収めてある。自分の手に渡ったものは、それがなにであれ、父親は捨てたりなくしたりはしない人だった。すべて保管しておく人だった。本や雑誌に関しても、彼はそのルールを守った。
少年の頃に読んで勉強した本から、最晩年に手にした歴史の本にいたるまで、かつて父親のものだった本は、すべてこの本棚にあるのではないか。横幅が三メートルで六段の本棚には、かなりの収納力がある。読書家と呼べるタイプの人ではなかったが、基礎的な勉強をするなら本がもっとも効果的で安価だ、と父親はよく言っていた。多少のゆとりを残して、本棚の棚はすべて本と雑誌で埋まっていた。
横幅三メートルの本棚の前で、端から端まで何度か往ったり来たりしながら、僕は棚に収まっているたくさんの本の背を眺めた。いちばん上の棚の左端からいちばん下の棚の右端に向けて、父親の人生に経過した時間が、そのとおりの順番で流れているのではないか、と僕は思った。ならんでいる本の外観からだけでも、その思いは確認することが出来た。いちばん下の棚の右端に向かうにしたがって、時間は新しい。
僕は一冊ずつ背の英文字を読んでいった。そしてふと腕をのばし、なにげなく一冊の本の背の頂上に指をかけ、その本を引き抜いた。両手に持ったその本の表紙に視線を落としたとき、僕はその視線に手ごたえのようなものを感じた。この本をかつて自分はいまとおなじように、この本棚から引き抜いて手に持ったことがある、という直感が生み出す手ごたえだ。
充分に時間が経過した結果である、その本ぜんたいの古びた感触を、僕は両手で受けとめた。表題を読んだ。確かにこの本だった、間違いない、と僕は思った。そして表紙を開いた。開いてすぐ左側、つまり表紙の裏に、自分の名前、そしてこの本を手に入れたときに住んでいた場所の所番地を日付とともに、父親は万年筆で書き込んでいた。無理なくきれいに流れていくような、必要にして充分な力強さのある、僕には真似の出来ない筆跡だ。僕はその筆跡を視線でたどった。
所番地を僕は読んだ。カリフォルニア州のフレズノという町の、とある所番地だ。その所番地には、僕も身に覚えがあった。なぜなら僕は、その所番地の場所を、かつて訪ねたことがあるからだ。この本だ、間違いない、かつてもこの本をなにげなくこの本棚から引き抜き、表紙の裏に父親が書いた所番地を頼りに、その場所を僕は訪ねた。
そのときもそしていまも、その本はまったくおなじ位置にあったのだ。時をへだてて二度、なにげなく、僕はおなじ本を手に取ったことになる。おなじ僕だからだ。おなじ僕だから、本棚の前のおなじ場所に立ち、おなじ方向へ手をのばし、おなじ位置にあったおなじ本を、抜き取ったのだ。
時をへだてて、といま僕は書いたが、それほど昔のことではない。僕が二十八歳のとき、仕事で東京からハワイへ来て、僕はこの家にも何日か泊まった。父親はまだ健在だった。そのとき、いまとおなじようにこの本棚の前に立ち、僕は棚のなかの本を観察した。なにげなく手をのばして引き抜いた一冊の本が、いま僕の手にあるのとおなじ本だった。
表紙の裏に父親が書いた名前と所番地を見ていて、僕はひとつのアイディアを得た。東京へ帰る前にカリフォルニアへいき、この所番地の場所を訪ねてみたら興味深いものがあるのではないか、というアイディアだ。僕は手帳に所番地を書き写した。まだ三十代前半の年齢だった父親が、ひとりで住んでいた場所だ。自分の名前の下に、部屋の番号、ホテルの名、そしてフレズノにおけるその所在地が、表紙の裏には書いてあった。いまふたたび、僕はそれを見ている。
閃いたアイディアのとおり、ハワイでの仕事を終えた僕は、東京へは戻らずにカリフォルニアへ向かった。到着した次の日の午後には、僕はフレズノにいた。手帳に書き写した所番地は、昔となんら変わることなく、そのままに現役だった。いまもそうだと思う。通りも建物も、存在していた。
しかしその建物はホテルとしては使われていず、部屋ごとに小さなオフィスとして賃貸されていた。一九三〇年代には確かにホテルだったのだが、回転の早い部屋があると同時に、長く居ついてしまう人もいるという、底辺から少しだけ上がったあたりに位置する、商人宿のようなホテルだった。僕の父親は、手に入れた本にそのホテルの部屋番号と所番地を書いたほどだから、かなりの期間にわたってそこに滞在していたのではなかったか。