ワイキキ、というハワイ語の意味は、湧き出る水だ。マノアとパロロそしてマキキの、三つの谷から流れ落ちて来る水、そして地表へと出てきた地下水とが、ひとつになった水だ。遠い昔の、まだなにもなかった頃のワイキキには、その水によって沼地が維持されていた。あひるの池、水田、たろ芋の田んぼなどに、人びとは沼地を利用した。ただの沼地のままの部分も広くあった。山を越えた貿易風が沼地の水面の上を吹き渡ると、その風は涼しくほのかに甘く、体に受けてたいそう快適だった。
イオラニ宮殿のあるあたりは、常に赤い土埃の舞う、暑くてかなわない場所だった。そこからワイキキまで出て来ると、ワイキキは別天地のように思えた。だから王家の人たちや貴族たちは、ワイキキに別荘を持っていた。海岸があり、そこからの海は遠浅のリーフで、魚がたくさん捕れた。
波乗りのためのいい波の出来る場所が、沖にはいくつもあった。それらの場所は、いまの呼び名だと、パブリックス、クイーンズ、ポピュラーズなどだ。そのうちのひとつ、昔の名でカレハウエと呼ばれた場所は、貴族たちの専用だった。一般の人たち、つまり平民がそこで波乗りをすると、彼らは厳罰に処せられた。
水田や沼地の広がり。それを取り囲んで縁取るココナツの林。特徴のある景色としては背景に重そうに横たわるダイアモンド・ヘッドだけというワイキキの村は、一八六〇年代になると、宮殿のあるダウンタウンと道路で結ばれた。一八八〇年代には驢馬の牽引する乗り合いバスが、ダウンタウンとワイキキとのあいだを往復していた。一八八八年には電気で走る路面電車が開通し、定期運行を始めた。
道路が出来て路面電車が走るまでになるとは、水田や沼地が少しずつ埋め立てられていった、ということだ。デイヴィッド・カラカウアのボート・ハウスやカイウラニ王女の家などのほかに、金持ちたちの家もワイキキに増えていった。
一八九〇年頃には、ワイキキに一本の桟橋が出来ていた。船が発着するためのものではなく、人が散歩するための桟橋だ。現在のカラカウア・アヴェニューから海岸をまたぎ、遠浅の海に向けて七十メートルほど、その桟橋はまっすぐに突き出ていた。
その桟橋から撮影した古い写真を見ると、ウオルター・マクファーレンやウオルター・ピーコックの家、そしてウオード・ハスタンス家やジャド家の建物などが、すでに建っていたことがわかる。少し遠いけれど、ダイアモンド・ヘッドの突端には、J・B・キャッスルの家もあった。
この当時、アメリカ本土から客船に乗って太平洋を越え、ハワイまで遊びに来ることが出来たのは、裕福な上流階級にかぎられていた。優雅に遊ぶことだけを仕事にしていた人たちが、ハワイという最新のリゾートで遊ぶことが出来た。ワイキキには個人のバンガローがたくさんあり、シーサイド・ホテルという名のホテルがすでにあった。しかしアメリカからの観光客の多くは、ダウンタウンのホテル・ストリートにあった、たとえばハワイアン・ホテルに、宿泊しなければならなかった。
一八八四年にはサン・スーシが出来た。これは個人のバンガローを少しだけ大きくしたようなものであり、ワイキキのホテルと呼ぶには能力に限界があった。完成して五年後、イギリスの作家ロバート・ルイス・スティーヴンスンが、このサン・スーシに滞在した。ハワイそしてワイキキを、彼は気にいったようだ。存分に讃えた文章を、彼は書き残している。
一八九八年にハワイはアメリカの領土に併合された。カラカウア王の政府で内務省の長官を務めていたジョン・ジョージ・ロスウェルという人物は、この領土併合によってアメリカからの観光客が増えるに違いないと判断した。十万ドルの資金を用意した彼は、ワイキキで最初の、大きなホテルの建設をスタートさせた。
ウオルター・ピーコックの家とカピオラニ王女の家の敷地を得て、そのホテルは一九〇一年に完成した。モアナ・ホテルだ。最初の計画では、コテージをたくさんならべただけのものだったが、計画は次第に大きくなっていき、予算を五万ドルほど超過した上で、白い木造四階建ての美しい堂々たる建物となった。一九〇一年の三月十一日に、モアナ・ホテルは営業を開始した。
こんなに大きな建物を造っても宿泊客には不足するに違いない、と人々は笑っていた。しかしモアナ・ホテルは、最初から盛業が続いた。太平洋のファースト・レディあるいはワイキキのファースト・レディと呼ばれるようにいたった七十五室のこのホテルは、階ごとに家具や調度の材料が異なり、テーマも変化していた。一階はホワイト・オーク。二階はオーク。三階はマホガニー。そして四階はメイブルだ。
専用の発電装置を持ち、屋上にはルーフ・ガーデンがあった。別棟のダイニング・ルームは建物の裏にあり、海岸に向けて高床式で突き出ていた。三百人を収容することの出来たこのダイニング・ルームの一階は、海岸を使う人たちのための更衣室だった。
モアナ・ホテルが完成して間もない頃の写真を見ると、海岸を縁取っている林のなかに平屋建ての個人の家がならぶだけという景色のなかに、モアナ・ホテルが一軒、忽然とあらわれたという印象だ。ニュー・イングランドの海岸に置いたほうがはるかに似合いそうな、コロニアルふうのテラスやクロイスタード・ヴェランダ、そしてインドから取り寄せた汚れのしみ込まない石で造った六本の円柱に支えられて、車寄せの上に大きく張り出した高い屋根など、どの部分を見ても、当時のワイキキにおける唯一無二の名物建築として、充分に風格のあるものだ。強い陽ざしのなかで、屋根はオレンジ色に輝いていた。
バンヤンの樹の下で演奏される音楽。それになかば合わせて人々は踊る。その途中、桟橋へいってみる。そこにもビーチボーイたちの音楽があった。月光を受けとめる海。その上を吹き渡る風。完全に消え去ってもはや跡かたもない、昔のハワイだ。桟橋は一九三〇年に取り壊された。