← Library‹ ラハイナまで来た理由 失われた路面電車

ワイキキ、というハワイ語ごの意味いみは、湧わき出でる水みずだ。マノアとパロロそしてマキキの、三みつの谷たにから流ながれ落おちて来くる水みず、そして地表ちひょうへと出でてきた地下ちか水すいとが、ひとつになった水みずだ。遠とおい昔むかしの、まだなにもなかった頃ころのワイキキには、その水みずによって沼地ぬまちが維持いじされていた。あひるの池いけ、水田すいでん、たろ芋いもの田たんぼなどに、人ひとびとは沼地ぬまちを利用りようした。ただの沼地ぬまちのままの部分ぶぶんも広ひろくあった。山やまを越こえた貿易ぼうえき風ふうが沼地ぬまちの水面すいめんの上うえを吹ふき渡わたると、その風かぜは涼すずしくほのかに甘あまく、体からだに受うけてたいそう快適かいてきだった。

イオラニ宮殿きゅうでんのあるあたりは、常つねに赤あかい土埃つちぼこりの舞まう、暑あつくてかなわない場所ばしょだった。そこからワイキキまで出でて来くると、ワイキキは別べつ天地てんちのように思おもえた。だから王家おうけの人ひとたちや貴族きぞくたちは、ワイキキに別荘べっそうを持もっていた。海岸かいがんがあり、そこからの海うみは遠浅とおあさのリーフで、魚さかながたくさん捕とれた。

波乗なみのりのためのいい波なみの出来できる場所ばしょが、沖おきにはいくつもあった。それらの場所ばしょは、いまの呼よび名なだと、パブリックス、クイーンズ、ポピュラーズなどだ。そのうちのひとつ、昔むかしの名なでカレハウエと呼よばれた場所ばしょは、貴族きぞくたちの専用せんようだった。一般いっぱんの人ひとたち、つまり平民へいみんがそこで波乗なみのりをすると、彼かれらは厳罰げんばつに処しょせられた。

水田すいでんや沼地ぬまちの広ひろがり。それを取とり囲かこんで縁取ふちどるココナツの林はやし。特徴とくちょうのある景色けしきとしては背景はいけいに重じゅうそうに横よこたわるダイアモンド・ヘッドだけというワイキキの村むらは、一いち八はち六ろく〇れい年ねん代だいになると、宮殿きゅうでんのあるダウンタウンと道路どうろで結むすばれた。一いち八はち八はち〇れい年ねん代だいには驢馬ろばの牽引けんいんする乗のり合あいバスが、ダウンタウンとワイキキとのあいだを往復おうふくしていた。一いち八はち八はち八はち年ねんには電気でんきで走はしる路面ろめん電車でんしゃが開通かいつうし、定期ていき運行うんこうを始はじめた。

道路どうろが出来できて路面ろめん電車でんしゃが走はしるまでになるとは、水田すいでんや沼地ぬまちが少すこしずつ埋うめ立たてられていった、ということだ。デイヴィッド・カラカウアのボート・ハウスやカイウラニ王女おうじょの家いえなどのほかに、金持かねもちたちの家いえもワイキキに増ふえていった。

一いち八はち九きゅう〇れい年ねん頃ころには、ワイキキに一いち本ほんの桟橋さんばしが出来できていた。船ふねが発着はっちゃくするためのものではなく、人ひとが散歩さんぽするための桟橋さんばしだ。現在げんざいのカラカウア・アヴェニューから海岸かいがんをまたぎ、遠浅とおあさの海うみに向むけて七十ななじゅうメートルほど、その桟橋さんばしはまっすぐに突つき出でていた。

その桟橋さんばしから撮影さつえいした古ふるい写真しゃしんを見みると、ウオルター・マクファーレンやウオルター・ピーコックの家いえ、そしてウオード・ハスタンス家かやジャド家かの建物たてものなどが、すでに建たっていたことがわかる。少すこし遠とおいけれど、ダイアモンド・ヘッドの突端とったんには、J・B・キャッスルの家いえもあった。

この当時とうじ、アメリカ本土ほんどから客船きゃくせんに乗のって太平たいへい洋ようを越こえ、ハワイまで遊あそびに来くることが出来できたのは、裕福ゆうふくな上流じょうりゅう階級かいきゅうにかぎられていた。優雅ゆうがに遊あそぶことだけを仕事しごとにしていた人ひとたちが、ハワイという最新さいしんのリゾートで遊あそぶことが出来できた。ワイキキには個人こじんのバンガローがたくさんあり、シーサイド・ホテルという名なのホテルがすでにあった。しかしアメリカからの観光かんこう客きゃくの多おおくは、ダウンタウンのホテル・ストリートにあった、たとえばハワイアン・ホテルに、宿泊しゅくはくしなければならなかった。

一いち八はち八はち四よん年ねんにはサン・スーシが出来できた。これは個人こじんのバンガローを少すこしだけ大おおきくしたようなものであり、ワイキキのホテルと呼よぶには能力のうりょくに限界げんかいがあった。完成かんせいして五ご年ねん後ご、イギリスの作家さっかロバート・ルイス・スティーヴンスンが、このサン・スーシに滞在たいざいした。ハワイそしてワイキキを、彼かれは気きにいったようだ。存分ぞんぶんに讃たたえた文章ぶんしょうを、彼かれは書かき残のこしている。

一いち八はち九きゅう八はち年ねんにハワイはアメリカの領土りょうどに併合へいごうされた。カラカウア王おうの政府せいふで内務ないむ省しょうの長官ちょうかんを務つとめていたジョン・ジョージ・ロスウェルという人物じんぶつは、この領土りょうど併合へいごうによってアメリカからの観光かんこう客きゃくが増ふえるに違ちがいないと判断はんだんした。十じゅう万まんドルの資金しきんを用意よういした彼かれは、ワイキキで最初さいしょの、大おおきなホテルの建設けんせつをスタートさせた。

ウオルター・ピーコックの家いえとカピオラニ王女おうじょの家いえの敷地しきちを得えて、そのホテルは一いち九きゅう〇れい一いち年ねんに完成かんせいした。モアナ・ホテルだ。最初さいしょの計画けいかくでは、コテージをたくさんならべただけのものだったが、計画けいかくは次第しだいに大おおきくなっていき、予算よさんを五ご万まんドルほど超過ちょうかした上うえで、白しろい木造もくぞう四よん階かい建だての美うつくしい堂々どうどうたる建物たてものとなった。一いち九きゅう〇れい一いち年ねんの三さん月がつ十じゅう一いち日にちに、モアナ・ホテルは営業えいぎょうを開始かいしした。

こんなに大おおきな建物たてものを造つくっても宿泊しゅくはく客きゃくには不足ふそくするに違ちがいない、と人々ひとびとは笑わらっていた。しかしモアナ・ホテルは、最初さいしょから盛業せいぎょうが続つづいた。太平たいへい洋ようのファースト・レディあるいはワイキキのファースト・レディと呼よばれるようにいたった七十ななじゅう五ご室しつのこのホテルは、階きざはしごとに家具かぐや調度ちょうどの材料ざいりょうが異ことなり、テーマも変化へんかしていた。一いち階かいはホワイト・オーク。二に階かいはオーク。三さん階かいはマホガニー。そして四よん階かいはメイブルだ。

専用せんようの発電はつでん装置そうちを持もち、屋上おくじょうにはルーフ・ガーデンがあった。別棟べっとうのダイニング・ルームは建物たてものの裏うらにあり、海岸かいがんに向むけて高床たかゆか式しきで突つき出でていた。三百さんびゃく人にんを収容しゅうようすることの出来できたこのダイニング・ルームの一いち階かいは、海岸かいがんを使つかう人ひとたちのための更衣こうい室しつだった。

モアナ・ホテルが完成かんせいして間まもない頃ころの写真しゃしんを見みると、海岸かいがんを縁取ふちどっている林はやしのなかに平屋ひらや建だての個人こじんの家いえがならぶだけという景色けしきのなかに、モアナ・ホテルが一いち軒けん、忽然こつぜんとあらわれたという印象いんしょうだ。ニュー・イングランドの海岸かいがんに置おいたほうがはるかに似合にあいそうな、コロニアルふうのテラスやクロイスタード・ヴェランダ、そしてインドから取とり寄よせた汚よごれのしみ込こまない石いしで造つくった六ろく本ほんの円柱えんちゅうに支ささえられて、車寄くるまよせの上うえに大おおきく張はり出だした高たかい屋根やねなど、どの部分ぶぶんを見みても、当時とうじのワイキキにおける唯一ゆいいつ無二むにの名物めいぶつ建築けんちくとして、充分じゅうぶんに風格ふうかくのあるものだ。強つよい陽ひざしのなかで、屋根やねはオレンジ色いろに輝かがやいていた。

バンヤンの樹きの下もとで演奏えんそうされる音楽おんがく。それになかば合あわせて人々ひとびとは踊おどる。その途中とちゅう、桟橋さんばしへいってみる。そこにもビーチボーイたちの音楽おんがくがあった。月光げっこうを受うけとめる海うみ。その上うえを吹ふき渡わたる風かぜ。完全かんぜんに消きえ去さってもはや跡あとかたもない、昔むかしのハワイだ。桟橋さんばしは一いち九きゅう三さん〇れい年ねんに取とり壊こわされた。

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