三十分ほどまえに、ぼくは目を覚ましベッドを出た。ついさっき、シャワーを浴びた。うなじのあたりが、まだ濡れている。いまは朝だ。
朝食を作るために、ぼくはキチンに入ってきた。キチンの窓のまえに、ぼくは立っていた。窓の外にある景色を、ぼくは見ていた。「ホノルルの景色として、最高の景色のひとつが、この家ではキチンの窓からでも見ることができるのですよ」ぼくがこの家を借りるとき、不動産エージェントは、そう言っていた。
最高であるかどうかは、いまは問わないとして、いい景色であることは確かだ。ホノルルの市街地とそのむこうに大きく横たわっている太平洋、そしてその上の空とを、この窓から一望することが可能だ。家は、高台に建っていた。ホノルルが海と接するあたりから見ると、このへんは相当な高度だ。窓から見える広い景色に対して、この高度は、バランスがちょうどいい。景色が具象を離れて抽象となっていく、そのちょうどはじまりのあたりに、この家は位置していた。
ここへ来るまえは、ぼくはサンフランシスコにいた。そして、サンフランシスコのまえは、ニューヨークだった。ニューヨークからサンフランシスコへ来ると、あらゆることのペースが、がくんとゆるやかとなる。サンフランシスコからホノルルへ来ると、ペースはさらにおだやかになる。しかし、ここも都会であることに変わりはなかった。その都会のなかでの日常を連想することなく、都会の景色をこのキチンの窓から眺めることができた。これ以上に高いところ、たとえばハイライズの最上階に近い部屋からだと、そこから見える景色は抽象化されすぎてしまうだろう。
ホノルルの街は、思いのほか白い。ここでは、ぼくは、毎日の朝を、自分の好きなようにスケジュールすることができる。だから、基本的には毎日、ぼくはいい朝を迎えることができる。いい朝は、そのまま、いい夜からはじまっている。昨夜がいいから、今朝もいいのだ。
窓辺に立っているぼくは、うしろにあるゆったりとしたキチンのスペースをふりかえってみた。キチンとつながっているような、あるいはつながっていないような、微妙な造りになっているダイニング・アルコーヴのテーブルは、すでにセットしてあった。昨夜のうちにセットしたのだ。いい夜とは、たとえばこのようなことをも意味する。
さて、今日は朝食になにを作ろうか、とぼくは思う。冷蔵庫のなかに入っているさまざまな材料について、思いめぐらす。入っている材料のうち、およそ半分を手に入れたマーケットや店が、いまぼくが眺めている景色のなかに存在している。あのあたりに、スーパー・マーケットがある。あのあたりに、あの店。そして、あの店は、もうすこしだけむこうの、そう、あのあたりだろう。
なにを作ろうか。コーヒーだけ、という朝食は、もっとも簡単だ。コーヒーをいれれば、それでいい。コーヒーと朝刊のスポーツ・セクションがぼくの朝食だ、と言っているビジネス・マンの友人がいる。彼はいま、東京で商談だ。可哀そうに。
土曜日の朝は好きな時間に目を覚まし、パジャマのままコーヒーをわかし、朝刊といっしょにそれを持って寝室へひきかえし、ベッドにもぐりこみなおす。そして、ゆっくりコーヒーを飲みながら新聞を読むのだと教えてくれた女性も、実業の世界で活躍している。金曜日の夜、ベッドに入るとき、目覚まし時計は浴室の化粧台に置いておくのだと、彼女は言っていた。
715、という数字の並びが大嫌いだと言っていたのは、彼女だったろうか。715はすなわち朝の7時15分、彼女の枕もとで目覚まし時計の鳴る時刻だ。
朝、その日はじめてのコーヒーについてとりとめなく思いをめぐらせつつ、ぼくはまた別の女性を思い出す。夜、寝るまえに目覚まし時計をセットしながら、明日の朝この目覚まし時計の音で目を覚ましたなら、起きてまず最初に、その日はじめての、とびきりおいしいコーヒーを私は飲むのだと、彼女は自分で自分に言いきかせる。そのコーヒーのおいしさに期待をかけることによって、目覚ましの鳴るあまりにも早い時刻のつらさを彼女は中和させているのだそうだ。
朝、その日はじめてのコーヒーは、とても大事だ。自分の好みどおりに、きちんといれたコーヒーを、朝のキチンのテーブルでひとり飲んでいると、自分の内部で機能しているあらゆる身体的な生理システム、神経システムのすみずみまで、そのコーヒーが浸透してくのを私は自覚できる、と語ってくれた女性とは、音信不通になってしまった。こういう自覚は、私が私の時間を私だけの責任においてコントロールしているという事実の、なによりの証明なのだと、彼女は言っていた。そして彼女は、朝起きてからすくなくとも一時間は、誰とも口をききたくない、とも言っていた。
目を覚ましてから一時間というと、仕事のために部屋を出ていくまでの時間と、ほぼおなじだ。ベッドを出て浴室へいき、シャワーを浴びて服を着るのに十五分。朝食を作るのに十五分。それを食べるのに、おなじく十五分。食べながら、その日の予定を検討しなおす。アパートメントに住んでいるとして、駐車場に停めてある自分の自動車の運転席に入るまでに、五分。十分、残る。これは、クッションにしておけばいい。毎朝、余計に時間をとられてしまうことが、なにかしら起こるはずだから。
では、まず、コーヒーをいれようか、とぼくは思う。しかし、ぼくのやりかただと、コーヒーは朝食の最後にいれる。食べることがすべて終わってから、コーヒーをいれて飲む。自分の部屋のキチンでは、いつもきまってそうだ。コーヒーは、あとだ。食べてしまってからだ。
コーヒーと新聞のスポーツ・セクションとがぼくの朝食だ、と言った友人には、同類がたくさんいる。キチンのテーブルのかたわらで、立ったまま喉のなかへ流しこんだOJが、食道を下って胃に入っていく頃、部屋のドアを出ていく、と言った友人など、同類のひとりだと言っていい。OJとは、オレンジ・ジュースだ。彼にとっては、自動車のなかで聞く朝のラジオのニュースと天気予報も、朝食の一部なのではないだろうか。