今年の春おそくから秋にかけて書下ろしたこの小説『頬よせてホノルル』は、連作長編です。五つのストーリーに分かれていて、どのストーリーでも主人公は「ぼく」であり、一人称です。そして舞台はハワイですので、分かれてはいてもどこかでぜんたいがひとつにつながっています。
五つのストーリーを書きおえ、校正刷りを読んだあとで、じつはぼくはひとつの面白い発見をしました。一人称の「ぼく」によって、これまでぼくはあまり多くの小説を書いていませんけれど、ハワイを舞台にして書くと、主人公はいつもきまって「ぼく」であることに、はじめて気づいたのです。
ぼくがいちばんはじめに書いた小説、『白い波の荒野へ』は、ハワイを舞台にしていて、主人公は一人称の「ぼく」でした。このストーリーは、おなじ「ぼく」を主人公にして連作長編となり、『波乗りの島』(角川文庫)となっています。最近になって書いた『時差のないふたつの島』(新潮文庫)の主人公も、「ぼく」。そして、ここにあるこの小説『頬よせてホノルル』の主人公も「ぼく」です。
ハワイを舞台にして書くとき、ぼくはほとんどなにも考えず、自動的に、主人公には一人称の「ぼく」を採択しているようです。なぜだろうか、と自分にきいてみると、答えは簡単に出ます。三人称の「彼」によって書くさまざまなストーリーのなかの「彼」よりもはるかに、ハワイにいる「ぼく」は、現実のぼく自身に近いからです。
ハワイを舞台にして書くと自動的に一人称であり、そのときの「ぼく」は自分自身にたいへんに近くなるのはなぜかと考えていくと、やはりハワイという場所およびその場所でのぼくの体験が、そうさせているのだと思います。
ハワイがぼくにとってことさらに特別な場所である、ということはないと思うのですが、祖父はマウイ島のラハイナで砂糖きび畑に水を供給するための、複雑な給水システムを管理する仕事を続けた人ですし、父親はラハイナで生まれホノルルで育ち、カリフォルニアで仕上げをした日系二世です。ぼくにはどこにも故郷はないのですけれど、ひょっとしたらハワイは故郷かもしれない、と思うことはよくあります。近いような遠いような、不思議なかたちでハワイとぼくとはつながっていて、そのへんがまず面白いところですし、ぼくというひとりの人がもっともいいかたちで表現され得る場所はハワイなのだ、というふうに言うことも出来ると思います。ハワイとぼくとはいい関係にあり、日系の人たちの社会に関してなら、かなり詳しくその雰囲気や成り立ちかたを知らないわけではない、という状態にありますから、毎日の身のまわりにある場所でもないかわりに、とんでもなく遠くでもないという、微妙な中間地点にある。ハワイは、やはりぼくがすんなりとぼく自身になれる場所なのだろう、とぼくは思っています。
ハワイがぼくにとっていちばんいい場所であるのかもしれない、ということ、つまり、ハワイにいるときのぼくの幸福感のようなものが、『頬よせてホノルル』のなかのどのストーリーに対しても、いいかたちで作用していてほしい、とぼくは思います。ぼくのなかのいちばんいいものがすんなりと出ているなら、そのことは、ハワイを、あるいはそこに生きる日系の人たちを、ぼくのこの小説が持っている範囲内で限度いっぱいに肯定していることにもつながります。自分がポジティヴなかたちで出てくるなら、描く対象もまた、ポジティヴな側にあるものとして描きたいのです。
この小説のなかにぼく自身がもっともいいかたちで出ているということは、そこに描かれるハワイがきわめてぼく自身のもの、きわめて個人的なものになっている、ということでもあるのです。典型的なハワイ、というものがあるかどうか、ぼくは知りませんけれど、描かれているハワイは典型でも固定観念でもなく、ぼく個人のハワイです。
一九八七年十一月
片岡義男