そのブック・ストアは、奥行きが深い。奥にむけて歩いていくと、両側にいくつものアルコーヴがある。棚のある壁面をできるだけ多く作り出すためには、数多くのアルコーヴが必要なのだ。アルコーヴごとに領域を設定できるし、そのなかにいるとなかば個室のようであり、本を選ぶ人の気持ちは落ち着く。
ぼくは、奥にむけて歩いていった。フロアは、板張りだ。どんな靴をはいてここを歩いても、感触はとてもいい。店のなかぜんたいに、ほのかにお香が漂っていた。店のなかに、今日は人がすくない。土曜日の午後の、きわめてあいまいな時間だ。そして外は、冬のホノルルにときたまある、どしゃ降りの雨だ。
店のいちばん奥には、宗教書がぎっしりと棚につまっていた。そのすこし手前に、現代の作家たちによる短編集をたんねんに集めたアルコーヴが、ふたつあった。ぼくは、そのアルコーヴに入った。女性の客がひとり、棚にむかって立っていた。
アルコーヴのこちら側の端からむこうの端まで、かなりの距離がある。彼女はむこうの端に立っていて、ぼくはこちら側だ。ぼくは彼女のほうに顔をむけると、棚に面して立っている彼女のうしろ姿を、ほぼまうしろからぼくは見ることができた。
ひょっとしたら日本の女性かな、とぼくは思った。着ている服はこの島で手に入る普通のものだし、姿勢やぜんたいの雰囲気にはアメリカの人らしさがかなり濃くあるけれど、しなやかに強靭そうな印象とは別に、微妙な優しさが体のいろんな部分にほのかにあった。その優しさがひとつに集合して、まっすぐにのびた体の強そうな印象の、縁どりをしていた。
なんの変哲もない白い半袖のシャツに、この島ではやや珍しい、シックな灰色のスカートを、彼女は身につけていた。五センチのヒールのあるサンダルに支えられて、彼女はぼくとちょうどおなじくらいの背たけだ。スカートやシャツの着こなし、そしてその下にある彼女の体の、ひきしまってほっそりとしていると同時に、量感もまた充分にある美しさは、たとえばいまのぼくがそうであるように、見とれてしまってなんら不思議ではなかった。
髪のつくりは、ぜんたいの雰囲気や体のありかたに対して、完璧と言っていいほどに完成されたものだった。無造作に見えて、じつは完璧なのだ。肩幅の広さは、スカートの裾から見えている脚の美しさと対応している。そして背中の広がりとその両側にある腕のきれいに流れる線は、腰の色気と呼応していた。相当な美人なのではないか、とぼくはひとりで思った。彼女は陽焼けしていた。昨日や今日の陽焼けではなく、すでに完全に自分の肌の色となっている陽焼けだ。
隣りのアルコーヴにも、現代のアメリカ人作家たちによる短編集が集めてあった。そちらへ移っていこうとした彼女は、その場を離れようとして体のむきを変え、その動きのなかにある一連の動作の一部分として、ふとぼくを見た。そのまま、彼女の動きは止まった。彼女の視線は、まっすぐにぼくの顔にのびていた。
その視線を受けとめて、ぼくは、ごく淡く微笑した。おなじ場所にいる人と視線が合ったときのための、あの微笑だ。そしてぼくは、いったん彼女の顔から自分の視線を本棚に戻した。だが、彼女は、ぼくを見たままだった。だからぼくは、再び彼女の顔に視線を移した。
ぼくをじっと見ている彼女の表情には、いくつかのニュアンスが重なっていた。まず第一に、彼女は、なにごとかを確認しようとしていた。さぐりあて、呼び戻そうともしていた。ひょっとして、と希望をつなぎつつ、まさか、と打ち消してもいた。まさか、という気持ちのなかには、驚きもあった。そしてその驚きは、きっとそうにちがいない、という確信につながっていた。ぼくとしては、どうすることもできなかった。じつにきれいな人だ、と思いつつ、もう一度、淡い微笑を、ぼくは浮かべなおしてみせた。
「昭彦ちゃん?」
と、彼女は言った。短い台詞だが、日本人の日本語だった。昭彦は、ぼくの名だ。ぼくは、水谷昭彦という。
「そうです」
と、ぼくは答えた。
「やっぱり!」
子供の頃にぼくがたまに観た昔の日本映画のなかの台詞のように、彼女はそう言った。そして、ぼくは、思い出した。いま目のまえにいるひとりの美しい日本女性を、かつてぼくはよく知っていた。毎日のように顔を見ていた。彼女は、中原三津子さんだ。
「お姉さん」
と、ぼくの口から、反射的に出た。かつてぼくが彼女をよく知っていた頃、ぼくは彼女のことをそう呼んでいた。
ぼくは、十二歳から十八歳にかけての期間に、彼女を知っていた。ハワイにむけて東京の空港から出発する彼女を、ぼくは見送っている。ぼくが十八歳のときだった。そのとき以来だ。ぼくより五つ年上である彼女は、二十三歳だった。そして現在のぼくは、二十八歳だ。
まっすぐに、彼女は歩みよってきた。泣き出しそうな顔をしていた。歩みよってさしのべてくる彼女の手を、ぼくはとった。
「お元気ですか」
笑顔で、ぼくは言った。十年ぶりだ。懐かしい。それに、こんなふうに偶然に会えるとは。
「こんなところで」
と、彼女は言った。
「ホノルルにいらしたのですか」
「昭彦ちゃんもここにいたの?」
「昔とすこしも変わっていませんね」
「昭彦ちゃん。面影がそのまんま」
「久しぶりです」
と、ぼくたちのやりとりは、少しも噛み合わなかった。
「ほんとにびっくりしたわ」
ぼくの手を握っている手に、彼女は力をこめた。もう一方の手には、本を三冊持っていた。彼女は昔から本が好きだった。
「驚いたわ」
「ぼくもです」
「元気そう」
「お元気そうですね」
「そんな他人行儀は、いやよ」
と、彼女は言った。こんども、昔の日本映画のなかの女優の台詞のようだった。
「私は、ここに来てからずっと、ここに住んでるの。出発するとき、空港まで昭彦ちゃんは送ってくれたわ」
「よく覚えてます」
「私もよ」
「あれから十年になるのね」
「そうですね」
「昭彦ちゃんも、この島にいるの?」
「ぼくは、いまは日本です」
「日本に住んでるの?」
「そうです」
「あれ以来、ずっと?」