雲が動いている。雨の雲だ。広がっている雲の底辺の大きさは、たとえばメイジャー・リーグの野球のためのボール・パークの、五倍はあるだろうか。ぜんたいが、濃い灰色だ。青い空のかなり低いところを、山のむこうからその雲は動いて来た。
その雲は、やや東へそれつつ、南へむかって移動している。コオラウ山脈の南、尾根の南側の険しいスロープの上空に、その雲はある。地図で見ると、ホノルル・ウォーターシェッド・フォレスト・リザーヴと出ているスロープの上空だ。
雲は、アレワ・ハイツの上空にさしかかっている。パラマをかすめて南へ下っていき、パンチ・ボウルににわか雨を降らせつつ、ルナリロ・ハイウエイの上空を斜めに横切るだろう。雲が上空にあるあたりだけ、そのハイウエイには、ほんのしばらくのあいだ、雨が降る。雲はさらに南に下り、アラモアナ・パークのほぼぜんたいに雨を降らせながら、ワイキキの手まえで、海の上に出るだろう。ワイキキの西のはずれに、ほんのすこしだけ、雨が落ちるかもしれない。
いま南にむけて動いていく雲が降らせるような雨を、なに雨と言えばいいのだろうか。にわか雨の、もっと短いものだ。あるときさあっと降りはじめ、雲が移動してしまうと、あっさりととまってしまう。そのひとかたまりの雲だけが濃い灰色であり、そのほかは、完璧な晴天の、青く輝く空なのだ。見渡す空ぜんたいが雨の雲におおわれているなら、にわか雨と呼んでもいいと思う。しかし、ひとかたまりの雲の周囲はすべて晴天であり、その晴天がどちらの方向にも広く見えているのだから、いくら雨の雲が上空に来て、そのときいくら雨が降ろうとも、にわか雨とは呼びにくい。動いていく雲の下にだけ降る、ほんのちょっとした雨を言いあらわす言葉が、たとえばハワイ語にあるだろうか。
フォード・グラナーダで走っているぼくから、その雨の雲は、ぜんたいがはっきりと見えた。雲の動いていくスピードと方向、そしてぼくがむかっている方向とを考えあわせると、ぼくのフォード・グラナーダは、その雨雲の下をかいくぐることになりそうだ。まもなく、ぼくとその雲とは、交差する。
往復六車線の道路に、交差点があった。その交差点に入っていく自動車にとっての信号が、オレンジ色になっていた。ぼくは、グラナーダを減速させた。信号は、赤となった。
横断歩道のこちら側に、ぼくはグラナーダをとめた。そこにとまっている自動車は、ぼくのグラナーダだけだった。道路の左側から、若い女性がふたり、横断歩道を渡って来た。自動車にとって赤信号のその交差点の横断歩道を渡っていきつつあるのは、そのふたりの女性だけだった。明るく強い陽ざしのなかを、彼女たちは歩いた。ぼくのグラナーダのまえを通りすぎていった。
ふたりとも、白人の女性だった。オフィスで働いている人のような服装をしていた。ひとりが熱心になにか喋り、もうひとりは喉をいっぱいにのばして、空を仰いでいた。
グラナーダのまえを通りすぎ、道路の反対側にむかっていく彼女たちを見ながら、ぼくは、ヘッドライトを一度だけ、点滅させた。ストッキングにつつまれたふたりのふくらはぎが、ヘッドライトの光を受けて、一瞬、明るい陽ざしのなかで鈍く光った。
冬のデトロイトでおなじようなことをやってみたときのことを、ぼくは思い出した。あのときも、横断歩道のこちら側にとまって信号がグリーンに戻るのを待っていたのは、ぼくの自動車だけだった。そして、あのとき横断歩道を渡っていったのは、痩せて背の低いおばあさんだった。
おばあさんがぼくの自動車のまえを通りすぎてさらに二、三歩、彼女が歩いてから、ぼくは、ヘッドライトを一度だけ、点滅させてみた。なんの意味もなく、ただそうしてみただけだ。
道路のむこう側にむけて歩いていたそのおばあさんは、ヘッドライトの点滅に気づいた。くるっとむきを変えた彼女は、ぼくの自動車にむかってまっすぐに歩いてきた。右腕を大きくふり上げ、そしてふり降ろし、ぴんとのばした人さし指でぼくを差し示した。もう一度おなじ動作をくりかえしてぼくを人さし指で突き刺さんばかりに差し示した彼女は、
「いま、なぜ、あなたは、あんなことをしたのか」
と、きわめて鋭い口調でぼくに詰問した。
運転席のドアの外に立ち、再び腕をふり上げ、ふり降ろし、しわだらけの人さし指でぼくの顔のまんなかを差し示し、
「なぜ、いま、あなたは、あんなことをしたのか」
と、おばあさんは、おなじ言葉をくりかえした。おばあさんは、怒っているように見えた。
「道を照らしてあげようかと思ったのです」
と、ぼくは、とっさの思いつきを言葉にした。デトロイトの冬、その日の午後は、うす暗かった。そのうす暗さに触発された、思いつきの返答だった。
「道を照らすことの出来るのは、天上の神のみです」
と、おばあさんは、ぼくをにらんで厳しく言った。
ぼくは自分の軽率な言動を謝り、おばあさんは気持ちがおさまったのだろう、さきほどとおなじようにくるっとむきを変えると、なにごともなかったかのように、道路のむこう側にむけて歩いていった。
交差点の信号が、グリーンに戻った。ぼくは、フォード・グラナーダを発進させた。走りはじめてすぐに、正面のガラスに、左の縁から右の縁にむけて、さあっと、雨滴がいくつも降りかかった。雨滴は、ガラスの上に点々ととまった。その上にさらにもう一度、雨が降りかかった。雨の雲は、ぼくが走っている道路のほぼ上空に来ていた。やがて、ガラスぜんたいが雨滴で埋まっていった。