暗い海を僕は振り返った。ボードの上にのびあがり、遠くを見た。横に一直線のうねりが、こちらに向かっている。充分な高さ、そしてその底に秘めたパワーが、すでに感じられる。この波だ。これを僕はつかまえる。
僕の全身に心地良い緊張が走った。ほどよくゆるんでいた感覚のぜんたいが、近づいて来る波を見て、いっせいにひき締まっていく。ボードに腹ばいになり、波の接近を待った。右肩越しに振り向いた。
前面のスロープを銀色に輝かせ、夜の海そのもののような黒い隆起が僕に向かって来る。充分にひき寄せてからタイミングをはかり、僕は猛然とパドリングを始めた。波の上をボードが滑りだした。両腕から肩に、たしかな手ごたえがあった。
波が僕に追いついた。ボードのテールから夜空に向かって、僕はいっきにほうりあげられる。脚から先に高くあがり、そのまま波の頂上へもんどり打つのではないかと、一瞬、錯覚が走る。次の瞬間、波の力は、僕の腹から胸のあたりにかかる。
下から僕を押しあげる波の水量とそのパワーが、ものすごくうれしい。このうれしい瞬間から、時間は止まる。僕の存在を支えているすべての感覚が、一点に絞りこまれる。
その一点で、僕はあらゆることを感じ抜く。
星空に向かって高くほうりあげられながら、僕はパドリングに最後の力をこめる。背中の筋肉や腹筋が、絞りあげられる。波はなおも大きく盛りあがりつつ、湾の奥に向かって進んでいく。そのスピードとパワーの中心に僕は両腕を突きこみ、必死で水をかく。
さらに波はせりあがる。前へ進む。その頂点に、波のスピードにおくれることなく、僕がサーフボードごとへばりついている。ボード越しに波のパワーを全身に感じる。高く、さらに高く、波はのびあがる。
永遠のようにひき延ばされた時間のなかで、自分をとりまく海のすべてを僕は見る。僕をまんなかにはさみこみ、横に長い峰が一直線にのびている。峰が白く光る。高さを増しつつ、それは湾の入口に向かう。急激に傾斜が強まるスロープの頂上から見ると、黒い海面ははるか下だ。
波がそのパワーの限度ぎりぎりまでのびあがったとき、無重力に酷似した世界が始まる。僕の顔に陸風が当たる。甘い香りを胸いっぱいに吸いこみつつ、僕は両腕を立て、利き足からボードの上に体を引き起こす。ほんの一瞬の出来事だ。ボードに立ちあがると同時に、陸風は波の頂上から水をはぎとる。はぎとられた水は、飛沫となって夜空に弾け飛ぶ。
顔や胸に飛沫を浴びる。痛い。飛沫は月光を受けて内部から青く輝く。その飛沫の滝をボードで突き破り、中空に舞う無数のガラス玉のような飛沫に体当たりをくらわせ、僕はボードごと前に出る。ボードの前部に重心をかけ、内側へ深くえぐれたスロープの頂上から底をのぞきこむ。のぞきこんだおなじ瞬間、逆落としのテイクオフだ。
ボードに乗って空中を飛んでいるようだ。体の両側を最後の飛沫が飛び去る。芳しい夜の空間だけが、僕のまわりに残る。スロープの底から、アーチになろうとする波の頂上へ、水の壁が力強くたくしあげられていく。その動きが、頂上にいる僕に見える。
オーヴァーハングになりかかる波の、ほんのわずかしか水量のない頂上に、無重力のまま僕はいる。翼を得て高いところから空中へ飛び立った瞬間は、ひょっとしてこんなだろうか。全身の感覚が異次元のそれへと、早くも変化している。
高くのびあがった波のエネルギーが、僕をそこに支えてくれている。ボードのスケッグが波にくいこむ。とたんに波のパワーが、サーフボードぜんたいにいきわたり、充満する。両脚をとおして、そのパワーは、僕の体に乗り移って来る。波とサーフボードと僕とが、ひとつにつながる瞬間だ。
えぐれこんだ急スロープの波の腹を、僕はまっすぐに滑り降りる。降りながら加速でたくわえるスピードが、全身にみなぎっていく。ボトムまで降りてターンをする。いちばんスピードがついている地点でのターンだ。
のびあがった波の壁は、僕の背後にそそり立つ。たったいま滑り降りて来た水の壁だ。ボトムに降りきった僕は、その壁に顔を向けた。連動して上半身がひねられ、腹を中心にして体重の移動がなかば本能的におこなわれた。ボードの右側のレールがしっかりと波にくいこんだ。ボードによって切り裂かれた波から、白い航跡が空中に放射された。
ターンする方向に傾いたボードの上で両膝を曲げ、前に倒した体は波の面と平行に空間に張り出している。両腕を広げ、もう少しで波をなめることが出来そうなほどに倒れこむ。ターンしながら僕は頭上を見た。頂上からオーヴァーハングとして空中に突き出た波は、幅広くまっ白い牙をむき、僕にめがけて落下しつつあった。
オーヴァーハングの先端から、飛沫が猛然と噴きあがる。その飛沫の奥から、のびあがりきって前に倒れる波の壁が、轟々と落ちて来る。落ちながら、湾の北へ向かって進んでいく。スピードに乗りきったターンから、そのままスロープをのぼった。裾から頂上に向かってたくしあげられていく水の動きよりも早く、僕はのぼった。
ショルダーの上限で切りかえし、全身でローラーコースターに飛びこんだ。ショルダーの部分をいっぱいに使いながら、波の斜面をのぼったり降りたりを繰り返し、スピードをたくわえる。
最初の切りかえしを終えたとき、巨大なオーヴァーハングが追いついて来た。そして僕の頭上に覆いかぶさった。月の光がさえぎられ、薄暗くなった。
ショルダーを、僕は飛ばした。ボードの前部に体重をかけたノーズ・ライディングだ。頂上に向かってのぼっていく水のパワーに勝つため、ボードをスロープの下に向け続ける。たくわえた加速に体重を乗せてこうしているだけで、ショルダーを飛ばしていける。
オーヴァーハングはアーチを作って僕の頭上を越え、左下に落ちた。すさまじい水量のアーチが、自らを波の裾野に叩きつける。重い轟音が巻きあがっているはずなのだが、もうなにも聞こえない。聞こえてはいるのだろうが、記憶に残らない。