「波が来る」
と、最初に言ったのはエマニュエルだった。僕が北海岸の小屋へいくとエマニュエルがそこにいて、ひとりで興奮していた。
「波が来る。一昼夜のうちには、かならずこのサンセット・ビーチに来る」
いつものエマニュエルはひどく冷静だ。どこか遠いところに自分の心を置き、そのままそれを忘れてしまっているような彼が、その日はトランクス一枚のいでたちで、小屋のなかを歩きまわっていた。小屋に入って来た僕をつかまえた彼は、いきなり、
「波だ」
と、言った。
「波がこっちに向かっているのが、はっきりと感じられる。ここに」
エマニュエルは自分の心臓のあたりを右手で叩いた。
「準備をしよう。バリー、きみも早く自分の準備をしてくれ」
16ミリ映画の撮影のための備品や器材の置いてある部屋に、エマニュエルは入っていった。はいているスイミング・トランクスはふたまわりも大きく、金髪のうぶ毛がいっぱいに生えた胴体から、そのはき古したトランクスはいまにもずり落ちそうだった。
エマニュエルに続いて、僕もその部屋に入った。
「たいへんな映画が撮れるに違いない。こうなったら、カメラ・ヘルメットを使うことだ」
棚に三つならべて置いてある、重いカメラ・ヘルメットのひとつを取りあげて、エマニュエルは細かな点検を始めた。
壁の高い位置に取り付けてあるふたつのスピーカーから、無断で傍受している無線の声が常に聞こえていた。アメリカ海軍および空軍の海洋観測船や気象観測機から、ディリンガム空軍基地や真珠湾に向けて発信されている、さまざまな気象情報だ。
ハワイ諸島周辺の海洋の様子から、アリューシャンに吹き荒れている台風の規模まで、この小屋にいればいつでもすぐにわかる。オアフ島北海岸の波の状況をいちはやくつかむためには、このような装置も必要だ。ふたとおりの電波を同時に受けとめ、部屋ごとにふたつのスピーカーを使って、かけっぱなしにしている。慣れるまでは聞き分けにくい。
「カラー・フィルムのストックは、充分にあるだろうか」
エマニュエルが僕に訊いた。
「だいじょうぶだ」
「ジェニファーは、今日はここへ来るのか」
「来るよ」
「彼女にも撮影を手伝ってもらおう。しかし彼女が海に入るのは無理だ。来る波は彼女には大きすぎる」
カメラ・ヘルメットのカメラは、どれも正常に作動した。沖に出て大きな波に乗りながら、その波のありさまを映画フィルムに撮影するために工夫されたヘルメットだ。モーターサイクル用の、フルフェイスではないヘルメットと形状は似ている。耳の部分に左右両側とも、四角な防水箱がネジどめしてある。この箱のなかに、それぞれエルモの16ミリ高速度カメラが装置してある。露光は自動調節だ。
ヘルメットをかむって右側の箱のカメラは前方を、そして左側のカメラは後方を、撮影するようになっている。波乗りを撮影するには、サーフボードの先端やテールにカメラをマウントする方法もあるのだが、オアフ島北海岸の大きな波のなかでは、カメラはサーファーの少なくとも目の位置にまでは上げておいたほうが、スリリングなフィルムが撮れる。
たとえばサーファーが自分のボードの上で体をかがめたりスタンスを変えたりするとき、その動きにつれてカメラの位置も変化するのはいいことだし、ワイプアウトしてサーフボードから波へ落ちるときには、そのときの様子が当のサーファーが自分の目で見ながら体で感じたのとほぼおなじように、フィルムに記録される。
フィルム保存用の冷蔵庫を僕は調べてみた。冷蔵庫のなかには合計で二千フィートのカラー・フィルムが入っていた。
「今夜は徹夜だ。波は、おそらく朝早くに来るだろう」
エマニュエルは真剣な顔で僕にそう言った。彼はあきらかに興奮していた。
傍受している海軍あるいは空軍の気象情報をもとに、大波の来訪が近いことを自分なりに判断して興奮しているのに違いない、と僕は思った。アリューシャンに大嵐が起こっている、という情報でも聞いたのだろうか。大きな嵐によってアリューシャンの海上にひき起こされた波は、半日ほど太平洋をうねったあとハワイに届く。
二個のカメラ・ヘルメットのカメラ四基に、僕とエマニュエルはカラー・フィルムを装填した。そのあと隣の部屋へいき、いつでも着用出来るよう、ウエット・スーツを整えた。居間へ引き返したエマニュエルは、東側の壁の前に立った。この壁はフロアから天井まできれいな板張りになっていて、白いペイントがいちめんに塗りこめてある。その白いペイントの上に、カワイロア海岸を中心にした北海岸一帯の波地図が、さまざまな色のペイントで描きこまれている。
フロアに近い下のほうに海岸線が引いてあり、そこから上はすべて海だった。海底の深さをあらわす等深線。珊瑚礁がどこにどのように広がっているか。波はいつもおよそどの方向から来て、どこでどんなふうに砕けるか。冬の季節の風の吹きぐあい。これまでにカワイロア海岸で体験された大きな波の位置。そのような何種類もの情報が、その壁いっぱいに描きこんであった。
その壁の前に立ったエマニュエルは、まず僕たちの小屋を右手の人さし指で押さえ、そこから海岸に向かって指を滑らせていった。
「ここから海へ出る。こんなふうに沖へ進んでいき、このあたりで波を待つ」
エマニュエルは、海岸から五百メートルほどの地点を、指先で押さえた。かつて大きな波がいくつも体験された場所からは、かなり離れた地点だった。
「ここだ。ここに波が来る」
自分に言って聞かせるように、エマニュエルはそう繰り返した。波が来る、と僕たちが言うとき、その波は、このオアフ島北海岸での、波乗りに適した波だけを意味する。
僕たちが小屋と呼んでいるこの建物は、カワイロア海岸の南の岬に近い位置に建っている。カメハメハ・ハイウエイで南からハイレワの町を抜け、河を渡ってさらに北へ向かう。ハイウエイから離れたずっと東、山の近くにカワイロアの町がある。