← Library‹ 七月の水玉 彼女が謎だった夏 1

教授きょうじゅの研究けんきゅう室しつのドアは開ひらいていた。立たちどまった彼かれは教授きょうじゅの名なを呼よんだ。部屋へやのなかからいつもとおなじおおまかな返事へんじがあった。彼かれは研究けんきゅう室しつに入はいった。いくつもの本棚ほんだなや書類しょるいキャビネットで部屋へやの壁かべはすべてふさがれ、残のこったスペースのいっぽうに教授きょうじゅのデスクがあり、もういっぽうには三みつ揃そろった肘ひじかけ椅子いすが配置はいちしてあった。教授きょうじゅはそのひとつにすわり、その隣となりの椅子いすには長身ちょうしんにスーツ姿すがたの年配ねんぱいの男性だんせいがいた。

「ああ、きみか」

と教授きょうじゅは言いい、あいている椅子いすを片手かたてで示しめした。彼かれはそこにすわった。クッションは深ふかく沈しずみ、膝ひざよりもずっと低ひくい位置いちに尻しりが収おさまった。

「新聞しんぶん社しゃにいる卒業そつぎょう生せいから、アルバイトの学生がくせいを求もとめられた。適性てきせいによっては入社にゅうしゃしてもらいたいから、その可能かのう性せいのある学生がくせいを、という注文ちゅうもんだった。ふと頭あたまに浮うかんだのが、きみだ」

柔和にゅうわな笑顔えがおでいた年配ねんぱいの男性だんせいが、

「適性てきせいとはなにかね」

と、訊きいた。

「人ひとの言いうことを素直すなおに聞きき、よく働はたらくことでしょう」

教授きょうじゅはそう答こたえた。

「そりゃ大変たいへんだ、だいじょうぶかい」

原田はらだ裕介ゆうすけに顔かおを向むけて、年配ねんぱいの男性だんせいが言いった。

「新聞しんぶん社しゃは嫌いやか」

教授きょうじゅにそう訊きかれた原田はらだは、

「まったくそんなことはありません」

と答こたえた。

部屋へやの外そとに人ひとが来きた。男おとこの声こえが教授きょうじゅを呼よんだ。

「いまいきます」

と教授きょうじゅは言いい、椅子いすを立たち、

「すぐに戻もどります」

と年配ねんぱいの男性だんせいに言いい、足早あしばやに部屋へやを出でていった。

「写真しゃしん科かの学生がくせいかい」

男性だんせいが訊きいた。

「そうです。来年らいねんは卒業そつぎょうです」

「どうだい、写真しゃしんは」

「被写ひしゃ体たいしだいです」

原田はらだの返答へんとうに年配ねんぱいの男性だんせいは、

「ほほう」

と言いい、笑顔えがおの柔和にゅうわさを深ふかめた。その笑顔えがおにあと押おしされた原田はらだは、

「そこにあるものしか写真しゃしんには撮とれませんから」

と言いった。

「ほほう」

「被写ひしゃ体たいは僕ぼくとは関係かんけいなしに、すでにとっくに出来上できあがってそこにあり、写真しゃしん機きを持もった僕ぼくがたまたまそれと遭遇そうぐうし、なんらかの魅力みりょくを感かんじて写真しゃしんに撮とります。魅力みりょくを可能かのうなかぎりその魅力みりょくのとおりに、人ひとに伝つたえる手段しゅだんが写真しゃしんです。魅力みりょくとは、どんなことにせよ、なにかを人ひとに訴うったえかける力ちから、ということです」

「そんな被写ひしゃ体たいが見みつかるかい」

そこへ教授きょうじゅが戻もどってきた。椅子いすにすわりなおした彼かれに、

「写真しゃしん談義だんぎだよ」

と、年配ねんぱいの男性だんせいは言いった。

「被写ひしゃ体たいはとっくに出来上できあがっている。たまたまそれに遭遇そうぐうして魅力みりょくを感かんじる。その魅力みりょくをそのままに人ひとに伝つたえるために、それを写真しゃしんに撮とる。だから写真しゃしんは被写ひしゃ体たいしだいだと、きみの学生がくせいはそう言いうんだ」

「彼かれがそう言いったのですか」

「言いったよ」

「なかなか正解せいかいじゃないですか。先生せんせいでも彫刻ちょうこくを制作せいさくするとき、モデルを使つかうとしたら、そのモデルは写真しゃしん家かにとっての被写ひしゃ体たいのようなものでしょう」

「教授きょうじゅの言げんもまた正解せいかいだね」

教授きょうじゅはその男性だんせいを片手かたてで示しめし、

「彫刻ちょうこく家かの長谷川はせがわ先生せんせい」

と原田はらだに言いった。

「うちではいまは名誉めいよ教授きょうじゅをしていただいている」

彫刻ちょうこく家かの長谷川はせがわという名前なまえは、原田はらだの頭あたまのなかですぐにひとつの像ぞうを結むすんだ。大学だいがくの構内こうないに立たつ、若わかい女性じょせいの全身ぜんしん像ぞうの作者さくしゃではないか。原田はらだは訊きいてみた。そのとおりだと、教授きょうじゅが答こたえた。

「僕ぼくはあの像ぞうが大好だいすきです。素晴すばらしいですよ。入学にゅうがくしてすぐに、写真しゃしんに撮とり始はじめました。いまでも撮とっています。あらゆる季節きせつの、可能かのうなかぎりさまざまな光ひかりのなかで。膨大ぼうだいな量りょうのネガです。プリントも何なん枚まいあるかわかりません。昨年さくねんの台風たいふうの日ひには、脚立きゃたつに立たって彼女かのじょとおなじ目めの位置いちで撮とりました。風かぜに吹ふき飛とばされそうになりながら」

彫刻ちょうこく家かの長谷川はせがわは笑顔えがおを深ふかめて原田はらだを見みた。教授きょうじゅも原田はらだを見みていた。そして彫刻ちょうこく家かに向むけて、

「彫刻ちょうこく家か冥利みょうりにつきますね」

と言いい、原田はらだには、

「その写真しゃしんを見みせてくれ」

と言いった。

「持もってきます」

「忘わすれるなよ」

「あの女性じょせい像ぞうにはモデルがいたのですか」

原田はらだが彫刻ちょうこく家かに訊きいた。

「いましたよ。二十にじゅう年ねん近ちかく前まえのことだから、いまいくつになるかなあ」

「女盛おんなざかりですよ」

「そうかい」

「クロパンという喫茶きっさ店てんを知しってるかい」

教授きょうじゅは原田はらだに訊きいた。

「名前なまえは聞きいたような気きがします」

「ここから商店しょうてん街がいをまっすぐに抜ぬけて、川かわを渡わたって急きゅうに坂道さかみちになる手前てまえ、右側みぎがわ」

「いったことはありません」

「うちの学生がくせいでクロパンを知しらないというのは、一種いっしゅのもぐりだな」

そう言いった教授きょうじゅはさらに説明せつめいを加くわえた。

「クロパンというのは、クロパン・クロパンというフランス語ごのかたわれでね、どうにかこうにか、という意味いみだ。略りゃくしてクロパンと言いっていて、それが店名てんめいさ」

「正式せいしきにはクロパン・クロパンというんだよ」

彫刻ちょうこく家かが訂正ていせいした。

「店みせの前まえの看板かんばんにそう書かいてある」

「そうでしたか。前後ぜんごふたつあるクロパンのうち、どちらなのだろうかという冗談じょうだんがひと頃ころあったのですが。原田はらだ、その店みせへ行いってみろよ。ママさんがいる。いま僕ぼくが言いった、女盛おんなざかりの女性じょせいが。きみが好すきだという、あの女性じょせい像ぞうのモデルを務つとめた女性じょせいが」

「戦争せんそうの時代じだいを続つづけてきた日本にっぽんの、決定けってい的てきな敗戦はいせんの記念きねんに作つくったんだ。これからは民主みんしゅ主義しゅぎだから、なにかその象徴しょうちょうになるようなものを、という依頼いらいだったけれど、僕ぼくとしては敗戦はいせん記念きねんだったね。若わかい女性じょせいの体からだだけが可能かのう性せいを秘ひめているように思おもえていた頃ころさ」

「ママさんはいま四十よんじゅうを過すぎたばかりです。女盛おんなざかりですよ」

「そうかもしれん」

「さっそくいってみます」

「写真しゃしんを忘わすれるなよ」

「明日あす、持もってきます」

「きみのことは新聞しんぶん社しゃの男おとこに伝つたえておく。自宅じたくは東京とうきょうだったね。そこへ直接ちょくせつに連絡れんらくがいくことになる。頼たのむよ」

教授きょうじゅとの用件ようけんはそこで終おわった。原田はらだは椅子いすを立たち、ふたりに礼れいをして部屋へやを出でた。三さん階かいから一いち階かいへ降おりた。女性じょせいの全身ぜんしん像ぞうが立たっているところまで、足早あしばやに歩あるいて七なな分ふんかかった。台座だいざの上うえに立たつその像ぞうを、彼かれは立たちどまって眺ながめた。これで何なん度ど目めとも知しれないが、見飽みあきることはなかった。十じゅう八はちからせいぜい二十にじゅう歳さいくらいまでの年齢ねんれいの、美うつくしい体からだをした女性じょせいの像ぞうだ。彼女かのじょはゆっくりと歩あるいている。持もち上あげられた素足すあしの踵かかとや足あしの裏うらなどが、ちょうど彼かれの目めとおなじ高たかさだった。

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