教授の研究室のドアは開いていた。立ちどまった彼は教授の名を呼んだ。部屋のなかからいつもとおなじおおまかな返事があった。彼は研究室に入った。いくつもの本棚や書類キャビネットで部屋の壁はすべてふさがれ、残ったスペースのいっぽうに教授のデスクがあり、もういっぽうには三つ揃った肘かけ椅子が配置してあった。教授はそのひとつにすわり、その隣の椅子には長身にスーツ姿の年配の男性がいた。
「ああ、きみか」
と教授は言い、あいている椅子を片手で示した。彼はそこにすわった。クッションは深く沈み、膝よりもずっと低い位置に尻が収まった。
「新聞社にいる卒業生から、アルバイトの学生を求められた。適性によっては入社してもらいたいから、その可能性のある学生を、という注文だった。ふと頭に浮かんだのが、きみだ」
柔和な笑顔でいた年配の男性が、
「適性とはなにかね」
と、訊いた。
「人の言うことを素直に聞き、よく働くことでしょう」
教授はそう答えた。
「そりゃ大変だ、だいじょうぶかい」
原田裕介に顔を向けて、年配の男性が言った。
「新聞社は嫌か」
教授にそう訊かれた原田は、
「まったくそんなことはありません」
と答えた。
部屋の外に人が来た。男の声が教授を呼んだ。
「いまいきます」
と教授は言い、椅子を立ち、
「すぐに戻ります」
と年配の男性に言い、足早に部屋を出ていった。
「写真科の学生かい」
男性が訊いた。
「そうです。来年は卒業です」
「どうだい、写真は」
「被写体しだいです」
原田の返答に年配の男性は、
「ほほう」
と言い、笑顔の柔和さを深めた。その笑顔にあと押しされた原田は、
「そこにあるものしか写真には撮れませんから」
と言った。
「ほほう」
「被写体は僕とは関係なしに、すでにとっくに出来上がってそこにあり、写真機を持った僕がたまたまそれと遭遇し、なんらかの魅力を感じて写真に撮ります。魅力を可能なかぎりその魅力のとおりに、人に伝える手段が写真です。魅力とは、どんなことにせよ、なにかを人に訴えかける力、ということです」
「そんな被写体が見つかるかい」
そこへ教授が戻ってきた。椅子にすわりなおした彼に、
「写真談義だよ」
と、年配の男性は言った。
「被写体はとっくに出来上がっている。たまたまそれに遭遇して魅力を感じる。その魅力をそのままに人に伝えるために、それを写真に撮る。だから写真は被写体しだいだと、きみの学生はそう言うんだ」
「彼がそう言ったのですか」
「言ったよ」
「なかなか正解じゃないですか。先生でも彫刻を制作するとき、モデルを使うとしたら、そのモデルは写真家にとっての被写体のようなものでしょう」
「教授の言もまた正解だね」
教授はその男性を片手で示し、
「彫刻家の長谷川先生」
と原田に言った。
「うちではいまは名誉教授をしていただいている」
彫刻家の長谷川という名前は、原田の頭のなかですぐにひとつの像を結んだ。大学の構内に立つ、若い女性の全身像の作者ではないか。原田は訊いてみた。そのとおりだと、教授が答えた。
「僕はあの像が大好きです。素晴らしいですよ。入学してすぐに、写真に撮り始めました。いまでも撮っています。あらゆる季節の、可能なかぎりさまざまな光のなかで。膨大な量のネガです。プリントも何枚あるかわかりません。昨年の台風の日には、脚立に立って彼女とおなじ目の位置で撮りました。風に吹き飛ばされそうになりながら」
彫刻家の長谷川は笑顔を深めて原田を見た。教授も原田を見ていた。そして彫刻家に向けて、
「彫刻家冥利につきますね」
と言い、原田には、
「その写真を見せてくれ」
と言った。
「持ってきます」
「忘れるなよ」
「あの女性像にはモデルがいたのですか」
原田が彫刻家に訊いた。
「いましたよ。二十年近く前のことだから、いまいくつになるかなあ」
「女盛りですよ」
「そうかい」
「クロパンという喫茶店を知ってるかい」
教授は原田に訊いた。
「名前は聞いたような気がします」
「ここから商店街をまっすぐに抜けて、川を渡って急に坂道になる手前、右側」
「いったことはありません」
「うちの学生でクロパンを知らないというのは、一種のもぐりだな」
そう言った教授はさらに説明を加えた。
「クロパンというのは、クロパン・クロパンというフランス語のかたわれでね、どうにかこうにか、という意味だ。略してクロパンと言っていて、それが店名さ」
「正式にはクロパン・クロパンというんだよ」
彫刻家が訂正した。
「店の前の看板にそう書いてある」
「そうでしたか。前後ふたつあるクロパンのうち、どちらなのだろうかという冗談がひと頃あったのですが。原田、その店へ行ってみろよ。ママさんがいる。いま僕が言った、女盛りの女性が。きみが好きだという、あの女性像のモデルを務めた女性が」
「戦争の時代を続けてきた日本の、決定的な敗戦の記念に作ったんだ。これからは民主主義だから、なにかその象徴になるようなものを、という依頼だったけれど、僕としては敗戦記念だったね。若い女性の体だけが可能性を秘めているように思えていた頃さ」
「ママさんはいま四十を過ぎたばかりです。女盛りですよ」
「そうかもしれん」
「さっそくいってみます」
「写真を忘れるなよ」
「明日、持ってきます」
「きみのことは新聞社の男に伝えておく。自宅は東京だったね。そこへ直接に連絡がいくことになる。頼むよ」
教授との用件はそこで終わった。原田は椅子を立ち、ふたりに礼をして部屋を出た。三階から一階へ降りた。女性の全身像が立っているところまで、足早に歩いて七分かかった。台座の上に立つその像を、彼は立ちどまって眺めた。これで何度目とも知れないが、見飽きることはなかった。十八からせいぜい二十歳くらいまでの年齢の、美しい体をした女性の像だ。彼女はゆっくりと歩いている。持ち上げられた素足の踵や足の裏などが、ちょうど彼の目とおなじ高さだった。