← Library‹ 七月の水玉 これは自分の理想だった 2

世田谷せたがや区く役所やくしょへふたりで婚姻こんいん届とどけを提出ていしゅつしにいった帰かえり道みち、舞子まいこはかたわらを歩あるく彼かれに次つぎのように言いった。

「私わたくしたちのこの結婚けっこんは、ふたりにそれぞれ同時どうじに訪おとずれた転機てんきなのだ、ととらえればいちばんいいのではないかしら」

秋晴あきばれの陽ひざしのなかに、いま自分じぶんたちが歩あるいている、世田谷せたがやの一角いっかくの平凡へいぼんきわまりない光景こうけいがあった。その光景こうけいのなかに、舞子まいこの声こえで転機てんきという言葉ことばが放はなたれ、陽ひざしを短みじかくかいくぐって消きえる様子ようすを、彼かれは受うけとめた。

「転機てんきと言いうほかないだろうね」

「転機てんきとはつまり、ここからの私わたくしたち、ということね」

「まさかこうなるとは、思おもってもみなかった。中学ちゅうがくと高校こうこうの先輩せんぱいの、近所きんじょに住すんでいて顔かお見知みしりの、三条さんじょう舞子まいこさんと僕ぼくとが、同時どうじに転機てんきのなかにいるとは」

「これからの私わたくしは、すでに以前いぜんからきまっていたことの実行じっこうとして、ヨーロッパへいきます。自分じぶんのピアノを試ためしてみるのよ。試験しけんを受うける気持きもち、とでも言いえばいいかしら。しかし実際じっさいには試験しけんではないから、合格ごうかくとか不ふ合格ごうかくといった、ある一線いっせん上じょうでの決定けっていというものは、ないのね。だからそのかわりに、時間じかんが必要ひつようなのよ。少すくない場合ばあいでも三さん年ねん。ただし、どんなに長ながくても、五ご年ねんにもなることはないと思おもうの。五ご年ねんになると、それはもう生活せいかつでしょう。私わたくしの場合ばあいは、どこまで自分じぶんのピアノがヨーロッパで通用つうようするか、試ためしてみたいだけなの。住すみついて現地げんちの人ひとになるとか、そういうことではないのよ。私わたくしは日本にっぽんの女おんなですから、日本にっぽんへ帰かえって来きます。帰かえって来きたら、あなたの奥おくさんをします」

「きめたことは実行じっこうしないといけない」

自分じぶんの言葉ことばの平凡へいぼんさを、彼かれはまず自分じぶんで受うけとめた。

「やみくもに実行じっこうするのは、賢かしこい方法ほうほうではないと思おもうわ」

「徹底てっていさせるといい」

「自分じぶんのピアノを、どこまで受うけとめてもらえるか。お客きゃくが余興よきょうに弾ひくピアノではなくて、その土地とちに住すんでピアノで仕事しごとをしていくひとりの人ひととして、どこまで好すいて支持しじしてもらえるのか、どんな拍手はくしゅを受うけることが出来できるのか。そういうことを、ぜひとも試ためしてみたいの」

「あちこちに悔くいを残のこさないように」

「アメリカには両親りょうしんがいるだけで、友ともだちはいないの。ヨーロッパには多おおくて、心強こころづよいのよ。まず落おち着つく場所ばしょはフランクフルトで、そこにいる知しり合あいのかたは、もとは商社しょうしゃの駐在ちゅうざい員いんで、いまはご夫婦ふうふで放送ほうそうの仕事しごとをなさってるかたなの。LPが出来できるたびに送おくって聴きいていただいて、あまりにも気きにいったから地元じもとの放送ほうそう局きょくに話はなしをしたら、局きょくのほうでもたいへんに好すいてくださって、その局つぼねでの仕事しごとがすでになかばきまってるのよ。ウイーク・デーの一日ついたちのしめくくりとして、夕方ゆうがたにニュースがあって、ニュースが終おわると次つぎの定時ていじまで、十じゅう二、三にさん分ふんから十じゅう五ご分ふんくらいの、クッションに使つかえる時間じかんがいつも空あくのですって。ひとりのアナウンサーがいろんな話はなしをしながら、その合間あいまに、私わたくしがスタジオでピアノを弾ひく、という番組ばんぐみなの。くつろいで聴きくことの出来できる、心こころあたたまってほっとするひとときなのだと思おもうわ。毎週まいしゅう、月曜げつようから金曜きんようまで、夕方ゆうがた」

「僕ぼくも聴ききたい」

「カセット・テープに録とって送おくります」

「楽たのしみだ」

「ヨーロッパは、お好このみではないかしら」

「接点せってんはなにもないけれど、あちこち見みておきたい気持きもちはある」

「一いち年ねんくらい、いかがかしら」

「いいね。計画けいかくしよう」

「実現じつげんすると、私わたくしはうれしいわ」

「僕ぼくだってうれしい」

「現地げんちに到着とうちゃくして、日常にちじょう生活せいかつが落おち着ついたら、その局つぼねで簡単かんたんなオーディションを受うけて、すぐにいま言いったような仕事しごとを始はじめることになると思おもうのよ。だからしばらくのあいだは、私わたくしの生活せいかつはそのラジオ番組ばんぐみが中心ちゅうしんになります。三条さんじょう舞子まいこの、ライヴ・イン・フランクフルトだわ」

そう言いって彼女かのじょは笑わらった。

「デュッセルドルフ、ブレーメン、ハンブルク、ベルリンに友人ゆうじんや知人ちじんがいて、アムステルダムやコペンハーゲンにもいるのよ。そういう時代じだいなのかしら」

「世田谷せたがやには僕ぼくがいます」

もう一いち度ど、舞子まいこは笑わらった。

「ホテルのバーで、午後ごごから夕方ゆうがたにかけてピアノを弾ひく仕事しごとの話はなしもあって、早はやくも私わたくしはかけもちなのよ。お店みせの経営けいえい者しゃが私わたくしのLPを聴きいて、気きにいってくださってるのですって」

「そういう話はなしを聞きくと、僕ぼくも安心あんしんだ」

「帝国ていこくホテルのラウンジで弾ひいてたときの話はなしをしておきましょうか。これも安心あんしんの種しゅになると思おもうわ。ある日ひの夕方ゆうがた、見みるからにヨーロッパの人ひとという雰囲気ふんいきの、中年ちゅうねんの男性だんせいたちが四、五しご人にん、そのラウンジに来きたの。ひとりだけ奥おくさんを連つれてたわ。奥おくの席せきに入はいったのですけど、やがてピアノが見みえる席せきへ移うつって来きて、弾ひいてる私わたくしを全員ぜんいんで熱心ねっしんに見みるのよ。これはほんとに偶然ぐうぜんなのですけど、その日ひの私わたくしはコンチネンタル・タンゴばかり弾ひいてたの。『夜よるのタンゴ』『薔薇ばらのタンゴ』『真珠しんじゅ採とりのタンゴ』『ジェラシー』『ただ一いち度どの機会きかい』といった名曲めいきょくを、次々つぎつぎに。感心かんしんしたような雰囲気ふんいきで聴きいてくださってることはよくわかったので、私わたくしも気分きぶん良よく弾ひいたのよ。ラウンジを出でるとき彼かれらは私わたくしのところへきて、親したしみの感情かんじょうを満面まんめんに浮うかべて、私わたくしを見みるの。そしてなにか話はなしかけるのだけど英語えいごではなくて、私わたくしの怪あやしい英語えいごでやりとりしていて突然とつぜんに閃ひらめいたのは、彼かれら男性だんせいたち全員ぜんいんが、音楽おんがくの人ひとだということなの。音楽おんがくのプロフェッショナルだということが、そのとき突然とつぜんに、わかったのよ。だから私わたくしは、どちらのバンドのかたですかと訊きいたら、答こたえを聞きいてびっくりしたわ、マランド楽団がくだんのメンバーなのよ。奥おくさんを連つれてひときわにこにこしてた男性だんせいが、リーダーのアリー・マースランドなの。日本にっぽん公演こうえんに来きていて、その日ひはお休やすみだったのですって。私わたくしがピアノで弾ひいたコンチネンタル・タンゴは、マランド楽団がくだんに褒ほめていただけたのよ」

「オランダで再会さいかいがあるかもしれないよ」

「可能かのう性せいは充分じゅうぶんね」

十じゅう一いち月がつのなかば、舞子まいこはヨーロッパに向むけて出発しゅっぱつした。準備じゅんびはすでに整ととのい、フランクフルトへ送おくるべきものはすべて発送はっそうし終おえていた。だから出発しゅっぱつ当日とうじつの舞子まいこは、気楽きらくな小しょう旅行りょこうに出でる人ひとの雰囲気ふんいきだった。空港くうこうまで彼かれとふたりでいき、空港くうこうにはたくさんの人ひとたちが見送みおくりに来きていた。

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