← Library‹ 七月の水玉 秋風と彼女の足もと 1

若わかい女性じょせいの店員てんいんがいたほうがいいかな、とふと思おもったその日ひの午後ごご、よく来くるその女性じょせいが店みせにあらわれた。カウンターの席せきにすわり、いつものとおり静しずかにコーヒーを飲のんだ。そしてカウンターのなかの中島なかじま裕美子ゆみこに、彼女かのじょは次つぎのように言いった。

「こちらのお店みせでは、アルバイトの店員てんいんはご入いり用ようではありませんか」

裕美子ゆみこは微笑びしょうした。

「いてもいいかな、と思おもってたとこよ」

と、彼女かのじょは答こたえた。

「募集ぼしゅうなさることがあれば、私わたくしは応募おうぼします」

その言葉ことばを受うけとめて、裕美子ゆみこは彼女かのじょの声こえについて判断はんだんした。体からだのなかからまっすぐに出でて来くる、いい声こえだった。細身ほそみの美人びじんで清楚せいそな雰囲気ふんいきがあり、静しずかな陰かげの部分ぶぶんには怜悧れいりさが宿やどっていた。その彼女かのじょを、カウンターの内側うちがわという場所ばしょから、裕美子ゆみこはあらためて観察かんさつした。この喫茶きっさ店てんの店員てんいんとして、悪わるくない。もったいないくらいかもしれない。

「あなたが応募おうぼしてくれるとわかってるなら、わざわざ募集ぼしゅうすることはないわね」

「ありがとうございます」

「仕事しごとはしてないの?」

「いまは無職むしょくです。ラジオの仕事しごとが好すきで、民放みんぽうでアルバイトをしていました。ひとつの番組ばんぐみの専属せんぞくだったのですけれど、その番組ばんぐみが終おわってしまいましたので。裏方うらかたの仕事しごとはあるのですけれど、スタジオ・ワークがしたくて、チャンスを待まっています」

「おいくつ?」

「二十にじゅう七なな歳さいです」

その年齢ねんれいでなぜ喫茶きっさ店てんのアルバイト店員てんいんになりたいのかと思おもいながら、四十よんじゅう六ろく歳さいという自分じぶんの年齢ねんれいに、裕美子ゆみこは照合しょうごうしてみた。

「若わかいわね」

という平凡へいぼんな感想かんそうに、

「ほんとにここで店員てんいんをしたければ、してもらってもいいのよ」

と、裕美子ゆみこはつけ加くわえた。

「お願ねがいします」

「最初さいしょにいらしたのは、半年はんとしほども前まえになるかしら」

「三さん月がつでした」

「そうね」

「すっかり気きにいって、それ以来いらいです」

「いつから始はじめるの?」

「いつからでも」

「日曜にちようと祝日しゅくじつが休やすみなのよ。時間じかんは自由じゆうでいいわ。あんまり一定いっていしないのも困こまるけど。お好すきな時間じかん帯たいで、無理むりのないところを」

「はい」

「営業えいぎょう時間じかんは午前ごぜん十じゅう一いち時じから午後ごごの七なな時じまで、八はち時間じかん営業えいぎょう。午後ごご一いち時じから六ろく時じまでの五ご時間じかん、というのはどうかしら」

「そうさせていただければ、たいへんうれしいです」

「あなたがいてくれれば、私わたくしは散歩さんぽが出来できるわ。買かい物ものにも歩あるけるし。服装ふくそうは、働はたらきやすければ、なんでもいいのよ。いまのような服ふくで充分じゅうぶんよ。いけなければ、私わたくしからそう言ゆうわ。経験けいけんは?」

「ありません」

すんなりとした、しかし存分ぞんぶんに頼たよりなくもあるそのひと言ことを受うけとめて、いまの自分じぶんは面接めんせつをおこなっている採用さいよう担当たんとう者しゃのようだ、と裕美子ゆみこは思おもった。苦笑くしょうが唇くちびるの端はしに宿やどって消きえた。

「よろしくお願ねがいします」

「こちらこそ」

「店みせの外そとへ出でてみて」

ふたりは店みせの外そとへ出でた。

「五十ごじゅうメートルほど歩あるいて、引ひき返かえして来きて」

歩あるきかたさえ見みればすべてわかる、と口癖くちぐせのように言いっていた演出えんしゅつ家かがいた。中島なかじま裕美子ゆみこが踊おどり子ことして舞台ぶたいに立たっていた頃ころのことだ。あの演出えんしゅつ家かと最後さいごに仕事しごとをしてから、早はやくも二十にじゅう年ねんになるだろうか、と裕美子ゆみこは思おもった。

店みせのドアの前まえまで戻もどって来きて、

「私わたくしは川崎かわさき律子りつこと申もうします」

と、彼女かのじょは名乗なのった。そして字じを説明せつめいした。

「私わたくしは中島なかじま裕美子ゆみこよ。四十よんじゅう六ろく歳さい」

ふたりは店みせのなかに入はいり、裕美子ゆみこはカウンターのなか、そして律子りつこは、さきほどとおなじ席せきにすわった。

「お若わかくておきれいですね」

律子りつこがそう言いった。

「私わたくしが?」

「はい。どんな経歴けいれきのかたなのかと、いつも思おもっていました」

中島なかじま裕美子ゆみこはこの喫茶きっさ店てんの店主てんしゅだ。五ご階かい建だての小こぶりな建物たてものの一いち階かいのフロアぜんたいがこの店みせだ。五ご階かいに住すんでいる大家おおやに賃貸ちんたい料りょうを払はらっている。営業えいぎょう権けんだけが彼女かのじょのものだ。彼女かのじょが自分じぶんで始はじめた店みせではない。前まえの経営けいえい者しゃが引退いんたいしたあとを、店名てんめいから造作ぞうさ、メニュー、コーヒー豆まめの仕入しいれなど、すべてをそのままに引ひき継ついだものだ。四十よんじゅう歳さいになる直前ちょくぜんのことだった。それ以来いらい、ここが彼女かのじょの仕事場しごとばだ。

カウンターの内側うちがわが彼女かのじょの定てい位置いちだ。客きゃくが入はいって来くると、笑顔えがおを向むけていらっしゃいませと言ゆう。どうぞお好すきなところへ、奥おくの席せきもございます、などと言いうこともある。グラスに水みずを入いれて席せきへ持もっていき、注文ちゅうもんを受うける。カウンターのなかでそれを作つくる。そして席せきまで持もっていく。あとはその客きゃくが店みせを出でるとき、代金だいきんを受うけ取とるだけだ。店みせで客きゃくに接せっする仕事しごととしては、それだけのことの繰くり返かえしでしかない。気楽きらくでいい、と裕美子ゆみこは思おもっている。

姿すがたのいい大柄おおがらな女性じょせいだ。ひと目め見みて、ぱっと目立めだつ。彫ほりのきいた目鼻めはなだちの美人びじんであることとあいまって、明あかるく開放かいほう的てきで華はなやいだ雰囲気ふんいきが持もち味あじだが、それは外見がいけんだけから生うまれるものではない、とたいていの人ひとは感かんじる。身みについたものがにじみ出でて来くるものであり、そのいちばん底そこにあるのは、体からだつきや身みのこなしなどを支ささえる、鍛きたえ抜ぬかれた様子ようすだ。

だからごく普通ふつうの堅気かたぎの主婦しゅふに見みえることは、まずない。かと言いって、水みず商売しょうばいでもない。色気いろけは充分じゅうぶんだがどこか品しなの良よさ、あるいは人ひとの良よさが、否定ひていしがたい感触かんしょくとして常つねにある。一いち度ども結婚けっこんしたことはなく、いまも独身どくしんだ。喫茶きっさ店てんのある場所ばしょから電車でんしゃで四十よんじゅう分ふんほどのところに、自分じぶんのものとしての一いち軒けん家やを持もっている。そこにひとりで暮くらしている。

いま初はじめて名前なまえを知しった、二十にじゅう七なな歳さいの常連じょうれん客きゃくの女性じょせいから、どんな経歴けいれきなのかと興味きょうみを持もたれた自分じぶんの過去かこへと、裕美子ゆみこは視線しせんをのばしてみた。経歴けいれきは生せい年ねん月がつ日ひから始はじまるのだろう、と彼女かのじょは思おもった。鹿児島かごしまのとある町まちで生うまれてそこで育そだった。彼女かのじょが十じゅう五ご歳さいのとき、太平たいへい洋よう戦争せんそうは敗戦はいせんで終おわった。父親ちちおやは柔道じゅうどうと剣道けんどうの師範しはんとして知しられた人ひとで、その町まちおよび近隣きんりんに、三みつの道場どうじょうを持もっていた。

裕美子ゆみこは三さん人にん姉妹しまいのまんなかだ。いちばん体からだが使つかえるのは彼女かのじょであることを見抜みぬいた父親ちちおやは、柔道じゅうどうと剣道けんどうを彼女かのじょに厳きびしく教おしえた。彼女かのじょが地元じもとの高校こうこうを卒業そつぎょうするまで、それは続つづいた。裕美子ゆみこにとっては、かならずしも望のぞんだことではなかったが、鍛きたえられた身体からだはすぐに貴重きちょうな財産ざいさんとして機能きのうすることとなった。

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