十年前の中島裕美子は三十六歳だった。ちらし広告のモデルをしていたのはこの頃だ。写真家のモデルを務めたのも、おなじ時期だ。この仕事は楽しいものだった。写真家が月刊雑誌に連載した仕事で、一年続いた。毎月一度、二、三泊の予定で、日本国内のどこかへいく。写真家と担当の編集者、そしてモデルの裕美子の三人だ。三人そろって出かけるときもあれば、三人が現地で集合することもあった。裕美子としてはとにかく万全の体調で、指定された日時に指定された場所へいけばそれでよかった。写真家が撮る街なみや景色のなかに、なにげなくふといる、ひとりの謎めいた美しい女性、という役どころを裕美子は演じた。タクシーであちこち移動しながら、場所を見つけては撮影する。夕方には終わり、夕食をともにすればその日はそれで終了だった。帰りの時間に合わせて、次の日も多少は撮影した。
一年続いたこの仕事が終わったあと、裕美子は女性の友人から一軒のバーを預かった。日本を留守にするから、そのあいだだけの三か月、という約束だった。ひと月のびて四か月になった。戦後に出来た歓楽街としては東京でおそらく一番の地帯の、ややはずれに近いあたり、幅のせまい路地が複雑に交錯する奥に、その店はあった。
歓楽街にある酒と食事の店の、ありとあらゆる種類や形態のぎっちりと詰まった、屋根裏まで含めると三階建ての、大きな木造の建物の隙間のような部分に、そのバーはあった。路地に面したせまい入口から、急な傾斜の階段を上がっていき、小さな踊り場の奥にあるドアを開くと、目の前にそのバーの内部すべてが見えた。
片方には壁を背にしてカウンター、そしてもういっぽうのスペースでは、低いテーブルをソファが囲んでいた。ただそれだけの店だ。カウンターの端に小さなドアがひとつあった。そのなかは仮眠室のように作ったスペースで、物置として使われていた。その壁に垂直な梯子段があり、それを上がると屋根裏だった。かがんでしか歩くことは出来ないが、仮眠するなら下のスペースよりここのほうが楽だった。売春防止法以前からある建物だから、屋根裏は売春に使用されることが多く、バーは売春のための簡略な助走路として機能したのではないか。年配の男性客が裕美子にそんな説明をした。
そのバーに、ある日の夜、彼があらわれた。十年前のことだから、彼は二十七歳だった。裕美子が写真家のモデルを務めて一年続いた、月刊雑誌の仕事の担当編集者とともに、夜のまだ早い時間、彼は裕美子が預かるバーの客になった。編集者は裕美子よりふたつ年下の同世代だった。二十七歳の彼は、裕美子にはたいそう若く思えた。今度うちの雑誌で仕事をしてもらうんですよ、と編集者は彼を裕美子に引き合わせた。
当時の彼はまだ作家ではなく、いろんな雑誌からさまざまな注文を受けて文章を書く、フリーランスの書き手だった。雑多な文章を書くから雑文書きなのだ、と彼は言った。だから裕美子にとっての彼の最初の印象は、つかみどころがないまでに若い雑文書き、というものだった。
さほど日を置かずに、彼はふたたびあらわれた。そのときは別な編集者といっしょだった。そして三度めのときには、彼はひとりで裕美子の店の客となった。夜の八時前という、まだ客のいない時間だった。
「これで三度めね」
どこへ向かうとも知れない会話のきっかけとして、裕美子はそう言ってみた。
「そうです」
「今夜はひとりなの?」
「そうです」
おなじ言葉を繰り返した彼に、
「なぜ?」
と、裕美子は訊いた。
「三度めの正直ですから」
裕美子は微笑した。
「今夜のあなたは、正直な人なの?」
「そうです」
「なぜ?」
「裕美子さんに強く惹かれている自分に対して、正直なのです」
「あら、まあ。普通はそこが嘘の始まりなのよ」
「どんな嘘ですか」
男を相手のたいていの会話では、裕美子は先手を取り続けることが出来た。生まれついての気性がその方向だし、踊り子としての日々のなかで、気性は鍛え上げられた。その裕美子が、彼のその言葉に対して、
「どうしましょ」
と言った。
「返す言葉がないわ。惹かれてる人のところへは、ひとりで足を運ぶの?」
「ほかに人がいても、邪魔なだけですから」
「あら、なぜ?」
気のきいた返事など、裕美子は期待していなかった。だからただ微笑している彼を、裕美子は正解として受けとめた。
「お仕事は忙しいの?」
「多忙です」
「最初に見えたとき、あの雑誌のかたといっしょだったわね。仕事は始まったの?」
「まだです。なにか書けと言われていて、考えているところです」
「なにか見つかるといいわね」
「連載です」
「毎月、ということね」
「そうです」
「これまで、どんなことを書いてきたの?」
「いろんなことです。学生の頃から」
「だったら、もうひとかどのヴェテランでしょう」
「仕事はあります」
「なにか目ざしてるものがあるのかしら。目標とか」
「なにもありません」
「二十七歳だとおっしゃってたわね。あと三年で三十よ。三十路と呼ぶのよ」
「どうなるのか、わかりません」
「自分でしてることなのに」
「これからどうなるのか、まるで不明です」
「早くからきめる必要はないのよ」
「そうだと思います」
「でも、このままずっと、というのも困るでしょう」
「困ります」
というような会話を、カウンターをあいだにはさんで、ふたりは交わした。
カウンターを出て彼のかたわらへいきたい、と裕美子はふと思った。これからの自分がどうなるのか、まったくわからない状況というものに、彼女は共感があった。いまの自分もそうなのだ。歳を取ったとは言いがたい年齢だが、踊り子として現役であった頃からはすでに遠い。前方に確たる当てがあるわけではなく、現在がこれから先に向けての足場として、期待出来るわけでもない。ないと言うならなにもない。これからどうするの、と人に訊かれると、さあ、としか答えられない裕美子だ。