次の日の午後、スクラップ・ブックを一冊持って、原田裕介は昨日の喫茶店へいった。席につくとやがて彼女が水のグラスを持って来た。彼はコーヒーを注文した。そしてスクラップ・ブックを彼女に向けて差し出した。
「あの女性像の写真です。ご覧になってください。教授にも見せる約束があります。これからその教授のところへいきます。何日か預けることになると思いますから、先に見ていただきたいのです」
スクラップ・ブックを受け取って彼女は微笑した。微笑ひとつで相手との距離を自在に操作することが出来る。いま彼女が浮かべたのは、彼との距離をほとんどなしにしてしまう種類のものだった。
三年間、彼が撮り続けたあの像の写真から、厳選してプリントしたものが、考え抜いた配列で、一冊のスクラップ・ブックの全ページに貼ってあった。ほとんど写真集と言っていい出来ばえなのだ、と彼は自分では思っていた。スクラップ・ブックを受け取った彼女はカウンターへ戻った。
ほどなく、彼女が彼のテーブルまで、コーヒーを持って来た。彼はコーヒーを飲んだ。生地の薄いスカートに半袖のシャツ。像とまったくおなじではないか、と彼は思った。十八年間という時間は、彼女の体つきには変化をもたらしていなかった。ただし成熟とそこから生まれる充実感は、彫刻家によって像に写しとられた二十歳の頃とは、くらべものにならなかった。
一杯のコーヒーの時間を終えて、彼は席を立った。カウンターで支払いをした。彼女はスクラップ・ブックを返してくれた。
「あなたは才能のある人なのね」
「そうですか」
「見ればわかるのよ」
彼は店を出た。大学まで歩き、教授の研究室へいった。教授は在室していた。原田から受け取ったスクラップ・ブックを、最初のページから見ていった。数ページ見てから、
「これはほとんど写真集だ」
と、教授は言った。
「しかも完成している。じっくりと見るだけの価値がある。一週間ほど預からせてくれないか」
「どうぞ」
スクラップ・ブックを閉じた教授は、
「クロパンへは、いってみたか」
と訊いた。
「いきました」
「どうだった」
「店主の外見はあの銅像とおなじままです。シャツやスカートもおなじです」
原田の言葉に教授はうなずいた。
「内面はもはや別人だろうな。いまいくつだ。四十を過ぎたかな」
「三十八歳です」
「うーむ」
と教授は言っただけだった。
「名前をご存じですか」
「直子だよ。藤村、ではなくて、藤森。藤森直子。よし、これは預かる。それから新聞社のアルバイトの件だが、きみのことは伝えておいた。来週にはきみのところへ直接に連絡がいくことになっている」
用件を終えて原田は教授の部屋を出た。一階まで階段を降りていき、女性像の立つところまで歩いた。自分は昨日とおなじ動きかたをしている、と彼は思った。時間が循環している、というふうに彼は受けとめた。ただし螺旋状の循環であり、まったくおなじところで循環しているのではなかった。
銅像の周囲を彼は歩いた。歩きながら考えた。考えはすぐにまとまった。この像の写真は撮り終えた、という結論に彼は到達した。次に撮るものがあるとすれば、それはこの像から十八年後の藤森直子をおいてほかにない。大学の構内を出て商店街を歩き、彼女の喫茶店へいった。
店は混んでいた。空いているテーブルがふたつだけあり、そのうちのひとつに彼は席をとった。水の入ったグラスと引き換えのように、彼はコーヒーを注文した。彼女はさきほどとおなじ微笑を浮かべた。やがてコーヒーがテーブルに届き、彼はそれを飲んだ。半分ほど飲んだところで、直子が水の入ったグラスを持って来た。さきほどのグラスと交換した。
「藤森さんの写真を撮らせてください」
と、原田は言った。
「私の?」
「そうです」
「銅像ではなくて、いまの私を撮りたいの?」
「撮らせてください」
「撮るに値するの?」
「写真を撮るには被写体が必要です」
「私がそうなの?」
「そうです」
「どんなふうに撮るの?」
「無理のないところで、ごく自然に、いろんなふうに」
原田の言葉に直子はうなずいた。そしてテーブルを離れ、ほかの客に応対した。コーヒーを飲み終わって店を出るとき、支払いをしながら原田は、
「撮らせてください」
と、繰り返した。
「店が休みの日なら、いつでも」
というのが彼女の返答だった。
「お願いします」
「いいわよ」
近くの客に呼ばれてその席へいこうとした直子は、振り返って原田を見た。表情を特定することの出来ない目で彼女が自分を見るその視線を、彼は受けとめた。撮る約束を交わした直後、振り返って自分を見た彼女の目で、自分は止めを刺されたかのように彼は感じた。彼は店を出た。
新聞社の酒井という人から、アルバイトに関して連絡があった。会いたいと言われた。だから今日これから、その新聞社へいって酒井という人に会う。都電を乗り継いだ原田は、新聞社の正面にある停留所で降りた。正面玄関から建物に入り、ロビーのかたわらの受付けで来意を告げた。五階へ上がり写真部A班の部屋へいくように言われた。
ぶかぶかのチーノにランニング・シャツの男性が、その部屋の入口近くにいた。約束した時間よりも十五分ほど早かった。待っていただくように酒井部長に言われています、とランニング・シャツの男は言い、原田を応接室へ案内した。
狭い長方形の部屋だった。突き当たりに窓があり、両側は壁だ。横長の低いテーブルが中央にあり、それをはさんで両側の壁にソファが寄せてあった。ソファのクッションは白い布で覆われていた。ドアは開いたまま、原田はソファにすわって待った。
壁の電気時計で約束の時間ちょうどに、男性がひとり部屋に入って来た。
「原田裕介さん。私が酒井です」
そう言って彼は差し向かいのソファに腰を降ろした。
「書類は大学から届いてます。そのかぎりでは、きみのことはわかってます。ま、よろしく」
原田は礼をした。
「きみは体は丈夫か」
酒井が訊いた。
「ごく普通に健康です」