← Library‹ 七月の水玉 彼女が謎だった夏 2

次つぎの日ひの午後ごご、スクラップ・ブックを一いち冊さつ持もって、原田はらだ裕介ゆうすけは昨日きのうの喫茶きっさ店てんへいった。席せきにつくとやがて彼女かのじょが水みずのグラスを持もって来きた。彼かれはコーヒーを注文ちゅうもんした。そしてスクラップ・ブックを彼女かのじょに向むけて差さし出だした。

「あの女性じょせい像ぞうの写真しゃしんです。ご覧らんになってください。教授きょうじゅにも見みせる約束やくそくがあります。これからその教授きょうじゅのところへいきます。何なん日にちか預あずけることになると思おもいますから、先さきに見みていただきたいのです」

スクラップ・ブックを受うけ取とって彼女かのじょは微笑びしょうした。微笑びしょうひとつで相手あいてとの距離きょりを自在じざいに操作そうさすることが出来できる。いま彼女かのじょが浮うかべたのは、彼かれとの距離きょりをほとんどなしにしてしまう種類しゅるいのものだった。

三さん年間ねんかん、彼かれが撮とり続つづけたあの像ぞうの写真しゃしんから、厳選げんせんしてプリントしたものが、考かんがえ抜ぬいた配列はいれつで、一いち冊さつのスクラップ・ブックの全ぜんページに貼はってあった。ほとんど写真しゃしん集しゅうと言いっていい出来できばえなのだ、と彼かれは自分じぶんでは思おもっていた。スクラップ・ブックを受うけ取とった彼女かのじょはカウンターへ戻もどった。

ほどなく、彼女かのじょが彼かれのテーブルまで、コーヒーを持もって来きた。彼かれはコーヒーを飲のんだ。生地きじの薄うすいスカートに半袖はんそでのシャツ。像ぞうとまったくおなじではないか、と彼かれは思おもった。十じゅう八はち年間ねんかんという時間じかんは、彼女かのじょの体からだつきには変化へんかをもたらしていなかった。ただし成熟せいじゅくとそこから生うまれる充実じゅうじつ感かんは、彫刻ちょうこく家かによって像ぞうに写うつしとられた二十にじゅう歳さいの頃ころとは、くらべものにならなかった。

一いち杯はいのコーヒーの時間じかんを終おえて、彼かれは席せきを立たった。カウンターで支払しはらいをした。彼女かのじょはスクラップ・ブックを返かえしてくれた。

「あなたは才能さいのうのある人ひとなのね」

「そうですか」

「見みればわかるのよ」

彼かれは店みせを出でた。大学だいがくまで歩あるき、教授きょうじゅの研究けんきゅう室しつへいった。教授きょうじゅは在室ざいしつしていた。原田はらだから受うけ取とったスクラップ・ブックを、最初さいしょのページから見みていった。数すうページ見みてから、

「これはほとんど写真しゃしん集しゅうだ」

と、教授きょうじゅは言いった。

「しかも完成かんせいしている。じっくりと見みるだけの価値かちがある。一いち週間しゅうかんほど預あずからせてくれないか」

「どうぞ」

スクラップ・ブックを閉とじた教授きょうじゅは、

「クロパンへは、いってみたか」

と訊きいた。

「いきました」

「どうだった」

「店主てんしゅの外見がいけんはあの銅像どうぞうとおなじままです。シャツやスカートもおなじです」

原田はらだの言葉ことばに教授きょうじゅはうなずいた。

「内面ないめんはもはや別人べつじんだろうな。いまいくつだ。四十よんじゅうを過すぎたかな」

「三十さんじゅう八はち歳さいです」

「うーむ」

と教授きょうじゅは言いっただけだった。

「名前なまえをご存ぞんじですか」

「直子なおこだよ。藤村ふじむら、ではなくて、藤森ふじもり。藤森ふじもり直子なおこ。よし、これは預あずかる。それから新聞しんぶん社しゃのアルバイトの件けんだが、きみのことは伝つたえておいた。来週らいしゅうにはきみのところへ直接ちょくせつに連絡れんらくがいくことになっている」

用件ようけんを終おえて原田はらだは教授きょうじゅの部屋へやを出でた。一いち階かいまで階段かいだんを降おりていき、女性じょせい像ぞうの立たつところまで歩あるいた。自分じぶんは昨日きのうとおなじ動うごきかたをしている、と彼かれは思おもった。時間じかんが循環じゅんかんしている、というふうに彼かれは受うけとめた。ただし螺旋らせん状じょうの循環じゅんかんであり、まったくおなじところで循環じゅんかんしているのではなかった。

銅像どうぞうの周囲しゅういを彼かれは歩あるいた。歩あるきながら考かんがえた。考かんがえはすぐにまとまった。この像ぞうの写真しゃしんは撮とり終おえた、という結論けつろんに彼かれは到達とうたつした。次つぎに撮とるものがあるとすれば、それはこの像ぞうから十じゅう八はち年ねん後ごの藤森ふじもり直子なおこをおいてほかにない。大学だいがくの構内こうないを出でて商店しょうてん街がいを歩あるき、彼女かのじょの喫茶きっさ店てんへいった。

店みせは混こんでいた。空あいているテーブルがふたつだけあり、そのうちのひとつに彼かれは席せきをとった。水みずの入はいったグラスと引ひき換かえのように、彼かれはコーヒーを注文ちゅうもんした。彼女かのじょはさきほどとおなじ微笑びしょうを浮うかべた。やがてコーヒーがテーブルに届とどき、彼かれはそれを飲のんだ。半分はんぶんほど飲のんだところで、直子なおこが水みずの入はいったグラスを持もって来きた。さきほどのグラスと交換こうかんした。

「藤森ふじもりさんの写真しゃしんを撮とらせてください」

と、原田はらだは言いった。

「私わたくしの?」

「そうです」

「銅像どうぞうではなくて、いまの私わたくしを撮とりたいの?」

「撮とらせてください」

「撮とるに値あたいするの?」

「写真しゃしんを撮とるには被写ひしゃ体たいが必要ひつようです」

「私わたくしがそうなの?」

「そうです」

「どんなふうに撮とるの?」

「無理むりのないところで、ごく自然しぜんに、いろんなふうに」

原田はらだの言葉ことばに直子なおこはうなずいた。そしてテーブルを離はなれ、ほかの客きゃくに応対おうたいした。コーヒーを飲のみ終おわって店みせを出でるとき、支払しはらいをしながら原田はらだは、

「撮とらせてください」

と、繰くり返かえした。

「店みせが休やすみの日ひなら、いつでも」

というのが彼女かのじょの返答へんとうだった。

「お願ねがいします」

「いいわよ」

近ちかくの客きゃくに呼よばれてその席せきへいこうとした直子なおこは、振ふり返かえって原田はらだを見みた。表情ひょうじょうを特定とくていすることの出来できない目めで彼女かのじょが自分じぶんを見みるその視線しせんを、彼かれは受うけとめた。撮とる約束やくそくを交かわした直後ちょくご、振ふり返かえって自分じぶんを見みた彼女かのじょの目めで、自分じぶんは止とめを刺さされたかのように彼かれは感かんじた。彼かれは店みせを出でた。

新聞しんぶん社しゃの酒井さかいという人ひとから、アルバイトに関かんして連絡れんらくがあった。会あいたいと言いわれた。だから今日きょうこれから、その新聞しんぶん社しゃへいって酒井さかいという人ひとに会あう。都電とでんを乗のり継ついだ原田はらだは、新聞しんぶん社しゃの正面しょうめんにある停留ていりゅう所しょで降おりた。正面しょうめん玄関げんかんから建物たてものに入はいり、ロビーのかたわらの受付うけつけで来意らいいを告つげた。五ご階かいへ上あがり写真しゃしん部ぶA班はんの部屋へやへいくように言いわれた。

ぶかぶかのチーノにランニング・シャツの男性だんせいが、その部屋へやの入口いりぐち近ちかくにいた。約束やくそくした時間じかんよりも十じゅう五ご分ふんほど早はやかった。待まっていただくように酒井さかい部長ぶちょうに言いわれています、とランニング・シャツの男おとこは言いい、原田はらだを応接おうせつ室しつへ案内あんないした。

狭せまい長ちょう方形ほうけいの部屋へやだった。突つき当あたりに窓まどがあり、両側りょうがわは壁かべだ。横長よこながの低ひくいテーブルが中央ちゅうおうにあり、それをはさんで両側りょうがわの壁かべにソファが寄よせてあった。ソファのクッションは白しろい布ぬので覆おおわれていた。ドアは開ひらいたまま、原田はらだはソファにすわって待まった。

壁かべの電気でんき時計とけいで約束やくそくの時間じかんちょうどに、男性だんせいがひとり部屋へやに入はいって来きた。

「原田はらだ裕介ゆうすけさん。私わたくしが酒井さかいです」

そう言いって彼かれは差さし向むかいのソファに腰こしを降おろした。

「書類しょるいは大学だいがくから届とどいてます。そのかぎりでは、きみのことはわかってます。ま、よろしく」

原田はらだは礼れいをした。

「きみは体からだは丈夫じょうぶか」

酒井さかいが訊きいた。

「ごく普通ふつうに健康けんこうです」

Click a word · hold for the whole sentence 0%