彼は電車を降りた。各駅停車のいちばん最後の車両だった。発車していくその電車を見送りながら、彼は階段まで歩いた。ストラップで右手に下げていた一眼レフを、首にかけなおした。階段を上がり、改札を出て、北口の階段を降りた。正面にある道を反対側へ渡った。そこから西に向けて、駅前の商店街が始まっていた。西に向けて彼は歩道を歩いた。五分も歩くと商店街は終わる。歩ききる前に彼は右へ曲がった。しばらくいくとその道は登り坂になった。坂は長く続いた。
途中に十字路があり、彼はそれを左へ折れた。道順は完全に記憶していた。三年前、西本恵子がここに自分の家を作って以来だ。これで何度目だろうか、と彼は思った。恵子にはもっと頻繁に会わなくてはいけない。彼女に会わないでいることは、自分にとって損失なのではないか。会わないでいると損失は重なり、やがては自分にとって大きな赤字として計上されるのではないか。
五月の終わりの週、快晴の火曜日。彼は腕の時計を見た。午後三時だった。五日前、彼は恵子に電話をかけた。相談したいことがあるから会いたい、と彼は言った。締切りが終わったあとの今日を、恵子は指定した。だからいま彼はここを歩いていた。駅から七、八分、高台の南側の縁をまわっていく、静かな道だ。歩いているのは彼だけだった。
手前にある家の竹林の向こうに、平屋建ての恵子の家があった。高台の南側の縁に建っている。敷地の南西の角が、高台の突端と重なっていた。簡単な門を開いて歩道から敷地に入り、彼は階段を上がった。途中で方向の変わる階段を上がり、郵便受けのある煉瓦の壁のインタフォンのボタンを押した。インタフォンに向けてかがみ込んで喋ると、その顔を内部に隠された小さなレンズがとらえ、屋内のモニターに映し出す。その顔がいかに歪んで面白いか、この家が完成したとき、恵子はやってみせてくれた。
恵子はうかつには返事をしないことになっている。ただしモニターの画面は見ている。玄関わきの縦長の小さな窓からは、階段のぜんたいを見渡すことができる。
「田島です」
と言った彼に、
「どうぞ」
と、恵子の声が答えた。
すぐに玄関のドアが開き、彼はなかに入った。恵子はドアを二重にロックした。ほどよい広さの玄関ホールに立っている恵子を、田島は観察した。黒いジーンズに、明るい華やぎのある、きわめて洒落たマドラス・チェックの半袖のシャツ。髪のまとめかたは、本来なら時代を超越した女性らしいものなのだが、手間がかかるからいまではする人は少ない。そしてそのまとめかたが、これしかないほどに彼女には良く似合っていた。立ち姿の良さも美貌も、恵子は母親からそっくりに譲り受けていた。これほどの美人だったかと、見るたびに彼は驚く。その驚きは軽度ではあるけれど動揺と言ってもよかった。
「白だなあ」
彼が言った。
「なにが?」
「足もとは白だ。白いハイヒール・サンダル」
「いまの私が履くとしたら?」
という恵子の言葉に、彼はうなずいた。
「私もそう思うわ」
歩み寄って手をのばした恵子に、彼は一眼レフを渡した。
「どうぞ、お上がりになって」
彼は靴の紐をほどいた。
「また新しい靴なのね」
「作ってもらった」
「どの靴もどことなく似てる革の靴なのよ。色は黒が多くて」
「作りがしっかりしているところは、みんなおなじだね」
玄関ホールは間取りの中央に位置している廊下のまんなかでもあった。
「ヴェランダに出てみましょうか」
と彼女が言い、
「陽ざしが素晴らしい」
と、彼は答えた。
廊下から居間に入り、南側のガラス戸のまえにふたりは立った。一眼レフを彼に渡し、恵子はガラス戸を開いた。煉瓦敷きのヴェランダに置いていある白いハイヒール・サンダルを、彼女は笑顔で指さした。
「なるほど。用意は整ってるわけだ。こんなふうに正しく気のまわるところも、女優のお母さん譲りだろうか」
「そうかもしれないですね」
素足にサンダルを履いた彼女は、腰を落としてストラップをかけた。
この家の南側の底辺いっぱいに、煉瓦敷きのヴェランダがあった。居間の南東の角をまがり込み、東に面した窓の手前まで、ヴェランダはのびていた。
「今日もここがいい」
彼の言葉に恵子は微笑した。
「定点観測のための一定点なのね」
隣の家の背後にある竹林は、恵子の家の敷地にも大きく入り込んでいた。正しくぼかしてそれを背景に使い、これまでに何度もここで恵子を写真に撮った。前回は三月なかばの雨の日だった。白いパンプスにピンクの水着、そして黒い大きなこうもり傘をさす、というアイディアを彼女が出した。その姿で雨の竹林に向かって立っている恵子のうしろ姿は、絶品と言っていいできばえの写真となった。
五月の陽ざしのなかで、田島は彼女を写真に撮り始めた。彼はポーズを注文しないし、彼女もポーズはとらない。なにげない立ち姿が持つふとした瞬間は、しかし、いくらでもあった。それをかたっぱしから彼は撮影した。ふたりは高校で同級生だった。写真部で活躍していた彼にとって、西本恵子は専属のモデルと言っていい存在だった。現在の彼らは三十八歳だ。二十年にわたって、彼は彼女を写真に撮ってきた。
ひとしきり撮った彼はフィルムを二本使い、ふたりは居間に入った。片手にサンダルを持って恵子はガラス戸を閉じ、
「今日は抱いてくださるの?」
と彼に言った。
「相談ごともあるし」
「コーヒーをいれるわ。お話をうかがいましょう」
「やがて時刻は四時をまわり五時となる」
彼のその言葉に、恵子は振り向いた。引き締めた表情で彼を見て、彼女は居間を出ていった。いまのようなとき、下手に微笑したりしないところが、彼女の勘の鋭さのあらわれなのだ、と彼は思った。午後の五時から六時、そして七時にかけての時間、自分の体温はもっとも高くなるから、肉体的にも心理的にも、性的な行為にいちばん適した状態になるのだと、三十歳を過ぎた頃に恵子は彼に語った。