梅雨が明けた日の夜、天井で回転する扇風機からの風を頭のうしろに受けながら、川島健一郎は車両のドアへ向かった。減速を終えた電車は停止した。ドアが開いた。会社の勤めから帰って来た、白い半袖のワイシャツにネクタイという姿の男たち数人といっしょに、川島はドアを出た。プラットフォームには、昼間の暑さとその匂いが、まだ残っていた。改札口は前方の端にある。そちらに向けて歩き始めた彼は、
「川島」
と、背後から男の声で呼ばれた。
知っている声だと思いながら、川島は振り返った。高校の三年間をとおして同級だった岡部孝雄が、いつものおだやかな笑顔で近づいて来た。川島は立ちどまった。車掌の笛の音に続いて、電車のドアが閉じた。改札に向けて歩く人たちを避け、川島は塀のかたわらへ移動した。そこで岡部と向き合って立った。各駅停車の電車は発車した。
「いま帰りか」
岡部が訊いた。
「そうだよ」
「いつもこの時間なのか」
「今日は少し遅い」
「俺もだ」
「元気か」
「就職してから初めてだね」
岡部孝雄は気持ちの動きのおだやかな優しい男だ。怒っている彼、苛立っている彼などを、川島はこれまで一度も見ていない。あわてている岡部すら、記憶のなかになかった。彼はいつも静かに落ち着いておだやかだ。
「これから何度も、いまみたいにおなじ電車のなかで、ばったり会うよ」
川島の言葉に岡部は微笑した。プラットフォームの前方に視線を向け、それを自分の足もとまで戻し、顔を上げて川島を見た。
「そうもいかないだろう」
と、岡部は言った。
「なぜ」
「転勤だよ。大阪へ移る。大阪が本社なんだ。転勤と言うよりも、入社三か月が経過して、配属が正式にきまった」
「大阪本社勤務か」
「そうだね」
「嫌なのか」
川島の質問に岡部は首を振った。
「大阪には住んでみたい。楽しみにしている」
ふたりは前方に向けて歩いた。プラットフォームに屋根のあるところまで歩くと、そこからは壁と一体の造りになって、ひとつにつながったベンチのような、木製の席があった。ふたりはそこにすわった。
「そうか、大阪か」
「どうなんだ、仕事は」
「たいへんに忙しい」
と、川島は答えた。
「忙しいとは、写真を撮り歩いて忙しい、ということなのか」
「単に仕事がたくさんあるという状態ではなく、エネルギーの消費が常軌を逸している印象が強い。エネルギーとは、人ひとりずつのエネルギーではなく、社会ぜんたいを動かしていく動力としてのエネルギー、という意味だ」
「同感だなあ。俺のとこもそうだ。会社ぜんたいが、わんわん言っている」
ふたりともおなじ私立大学を卒業した。川島健一郎は写真学科をへて、新聞社の写真部に就職した。岡部は法学部なのだが、法律とはなんの関係もなく、大阪に本社のある会社に就職した。
「お前には知らせようと思っていた。三日後に東京を発つ」
「木曜日か」
「午後一時三分発の新幹線。初めて乗るよ」
小さな駅のすぐ外に踏切があった。夜のなかに警報が鳴り始め、やがて上りの急行がふたりの目の前を通過していった。入れ違いのように下りの急行が通過した。
「見送りにいくよ」
川島が言った。
「仕事があるだろう。無理するな」
「いくよ」
「午後一時三分、東京発大阪行き」
「プラットフォームで待っている」
「母親が来るよ」
「お母さんはひとりになるわけだ」
岡部孝雄が三歳のとき、彼の父親は死亡した。それからは母親がひとりで息子の孝雄を育てた。
「母親は喜んでるよ。青春がまた始まると言っている。一九二五年生まれだから、一九六七年のいまは四十二歳だ。物心ついてから一九三〇年代を成長していき、戦争で中断され、戦争が終わった年に僕を生んでいる。中断されていた青春が再開されるのだと言っている。力説していた。よろしく頼むよ」
ふたりの青年は笑った。踏切の警報がふたたび鳴り始めた。
「下りの各駅停車が来るよ」
川島が言った。岡部は立ち上がった。川島も立った。
「うちへ寄っていくか」
川島の言葉に岡部は首を振った。彼は駅の数で三つ先までいく。
「たまには会おう」
「大阪へ来てくれ。新聞社なら、出張の口実くらい、すぐに作れるだろう」
「大阪で大事件があるのが、いちばんいい」
岡部は笑った。
「荷物はすべて発送した」
「送りにいく。二十分前にはプラットフォームに上がって待っている」
岡部はうなずいた。各駅停車の下りが、減速しながら駅へ入って来た。そして停止しドアが開き、どのドアからも乗客が降りた。岡部は車両に入り、向きなおって川島に片手を上げた。ドアが閉じ、電車は発車した。岡部はもう一度、川島に片手を上げた。川島は改札口に向けて歩き、最後の車両が駅を出てから、振り返った。下りのプラットフォームに人の姿はなかった。
三日後の木曜日、川島健一郎はたまたま代休だった。しかし用事はあったから午前中に社へいき、そこで昼すぎまで過ごしてから、東京駅へ向かった。新幹線のプラットフォームに上がると、定刻より二十分ほど早かった。彼はひとりベンチにすわって待った。
高校で同級だった女性たちがふたり、あらわれた。高校を卒業して、彼女たちは丸の内のおなじ会社に就職した。いまもおなじ職場だという。ふたりとも会社の制服を着ていた。岡部孝雄が母親の恵子と姿を見せた。そして岡部が働いている会社の、東京におけるこれまでの三か月間の上司であった係長、そして岡部と同期の男が、岡部を送る人たちに加わった。誰もがおたがいに挨拶をして、名刺を交換し合った。
制服の女性たちふたりは、新幹線の発車を待たずに帰っていった。彼女たちが岡部恵子に挨拶している様子を、川島は見るともなく見た。若い彼女たちよりもはるかに自由で華やいだ雰囲気が恵子にあるのを、川島は確認した。川島がいちばん最初に岡部の母親に会ったのは、高校一年生の日々が始まって間もない頃だった。岡部からやや年齢の離れた姉なのだと、川島は思い込んだ。母親だと知ったときには、かなり驚いた。母親というものが持っているはずの、多くの場合たいそう窮屈そうでかしこまった枠のようなものが、岡部恵子にはまったくなかったからだ。