← Library‹ 七月の水玉 寝室には天窓を 1

梅雨つゆが明あけた日ひの夜よる、天井てんじょうで回転かいてんする扇風せんぷう機きからの風かぜを頭あたまのうしろに受うけながら、川島かわしま健一郎けんいちろうは車両しゃりょうのドアへ向むかった。減速げんそくを終おえた電車でんしゃは停止ていしした。ドアが開ひらいた。会社かいしゃの勤つとめから帰かえって来きた、白しろい半袖はんそでのワイシャツにネクタイという姿すがたの男おとこたち数すう人にんといっしょに、川島かわしまはドアを出でた。プラットフォームには、昼間ひるまの暑あつさとその匂においが、まだ残のこっていた。改札かいさつ口こうは前方ぜんぽうの端はしにある。そちらに向むけて歩あるき始はじめた彼かれは、

「川島かわしま」

と、背後はいごから男おとこの声こえで呼よばれた。

知しっている声こえだと思おもいながら、川島かわしまは振ふり返かえった。高校こうこうの三さん年間ねんかんをとおして同級どうきゅうだった岡部おかべ孝雄たかおが、いつものおだやかな笑顔えがおで近ちかづいて来きた。川島かわしまは立たちどまった。車掌しゃしょうの笛ふえの音おとに続つづいて、電車でんしゃのドアが閉とじた。改札かいさつに向むけて歩あるく人ひとたちを避さけ、川島かわしまは塀へいのかたわらへ移動いどうした。そこで岡部おかべと向むき合あって立たった。各駅かくえき停車ていしゃの電車でんしゃは発車はっしゃした。

「いま帰かえりか」

岡部おかべが訊きいた。

「そうだよ」

「いつもこの時間じかんなのか」

「今日きょうは少すこし遅おそい」

「俺おれもだ」

「元気げんきか」

「就職しゅうしょくしてから初はじめてだね」

岡部おかべ孝雄たかおは気持きもちの動うごきのおだやかな優やさしい男おとこだ。怒おこっている彼かれ、苛立いらだっている彼かれなどを、川島かわしまはこれまで一いち度ども見みていない。あわてている岡部おかべすら、記憶きおくのなかになかった。彼かれはいつも静しずかに落おち着ついておだやかだ。

「これから何なん度ども、いまみたいにおなじ電車でんしゃのなかで、ばったり会あうよ」

川島かわしまの言葉ことばに岡部おかべは微笑びしょうした。プラットフォームの前方ぜんぽうに視線しせんを向むけ、それを自分じぶんの足あしもとまで戻もどし、顔かおを上あげて川島かわしまを見みた。

「そうもいかないだろう」

と、岡部おかべは言いった。

「なぜ」

「転勤てんきんだよ。大阪おおさかへ移うつる。大阪おおさかが本社ほんしゃなんだ。転勤てんきんと言いうよりも、入社にゅうしゃ三さんか月げつが経過けいかして、配属はいぞくが正式せいしきにきまった」

「大阪おおさか本社ほんしゃ勤務きんむか」

「そうだね」

「嫌いやなのか」

川島かわしまの質問しつもんに岡部おかべは首くびを振ふった。

「大阪おおさかには住すんでみたい。楽たのしみにしている」

ふたりは前方ぜんぽうに向むけて歩あるいた。プラットフォームに屋根やねのあるところまで歩あるくと、そこからは壁かべと一体いったいの造つくりになって、ひとつにつながったベンチのような、木製もくせいの席せきがあった。ふたりはそこにすわった。

「そうか、大阪おおさかか」

「どうなんだ、仕事しごとは」

「たいへんに忙いそがしい」

と、川島かわしまは答こたえた。

「忙いそがしいとは、写真しゃしんを撮とり歩あるいて忙いそがしい、ということなのか」

「単たんに仕事しごとがたくさんあるという状態じょうたいではなく、エネルギーの消費しょうひが常軌じょうきを逸いっしている印象いんしょうが強つよい。エネルギーとは、人ひとひとりずつのエネルギーではなく、社会しゃかいぜんたいを動うごかしていく動力どうりょくとしてのエネルギー、という意味いみだ」

「同感どうかんだなあ。俺おれのとこもそうだ。会社かいしゃぜんたいが、わんわん言いっている」

ふたりともおなじ私立しりつ大学だいがくを卒業そつぎょうした。川島かわしま健一郎けんいちろうは写真しゃしん学科がっかをへて、新聞しんぶん社しゃの写真しゃしん部ぶに就職しゅうしょくした。岡部おかべは法学ほうがく部ぶなのだが、法律ほうりつとはなんの関係かんけいもなく、大阪おおさかに本社ほんしゃのある会社かいしゃに就職しゅうしょくした。

「お前まえには知しらせようと思おもっていた。三み日か後ごに東京とうきょうを発たつ」

「木曜もくよう日ひか」

「午後ごご一いち時じ三さん分ぶん発はつの新しん幹線かんせん。初はじめて乗のるよ」

小ちいさな駅えきのすぐ外そとに踏切ふみきりがあった。夜よるのなかに警報けいほうが鳴なり始はじめ、やがて上のぼりの急行きゅうこうがふたりの目めの前まえを通過つうかしていった。入いれ違ちがいのように下くだりの急行きゅうこうが通過つうかした。

「見送みおくりにいくよ」

川島かわしまが言いった。

「仕事しごとがあるだろう。無理むりするな」

「いくよ」

「午後ごご一いち時じ三さん分ふん、東京とうきょう発はつ大阪おおさか行いき」

「プラットフォームで待まっている」

「母親ははおやが来くるよ」

「お母ははさんはひとりになるわけだ」

岡部おかべ孝雄たかおが三さん歳さいのとき、彼かれの父親ちちおやは死亡しぼうした。それからは母親ははおやがひとりで息子むすこの孝雄たかおを育そだてた。

「母親ははおやは喜よろこんでるよ。青春せいしゅんがまた始はじまると言いっている。一いち九きゅう二に五ご年ねん生うまれだから、一いち九きゅう六ろく七なな年ねんのいまは四十よんじゅう二に歳さいだ。物心ものごころついてから一いち九きゅう三さん〇れい年ねん代だいを成長せいちょうしていき、戦争せんそうで中断ちゅうだんされ、戦争せんそうが終おわった年としに僕ぼくを生うんでいる。中断ちゅうだんされていた青春せいしゅんが再開さいかいされるのだと言いっている。力説りきせつしていた。よろしく頼たのむよ」

ふたりの青年せいねんは笑わらった。踏切ふみきりの警報けいほうがふたたび鳴なり始はじめた。

「下くだりの各駅かくえき停車ていしゃが来くるよ」

川島かわしまが言いった。岡部おかべは立たち上あがった。川島かわしまも立たった。

「うちへ寄よっていくか」

川島かわしまの言葉ことばに岡部おかべは首くびを振ふった。彼かれは駅えきの数かずで三みつ先さきまでいく。

「たまには会あおう」

「大阪おおさかへ来きてくれ。新聞しんぶん社しゃなら、出張しゅっちょうの口実こうじつくらい、すぐに作つくれるだろう」

「大阪おおさかで大だい事件じけんがあるのが、いちばんいい」

岡部おかべは笑わらった。

「荷物にもつはすべて発送はっそうした」

「送おくりにいく。二十にじゅう分ふん前まえにはプラットフォームに上あがって待まっている」

岡部おかべはうなずいた。各駅かくえき停車ていしゃの下くだりが、減速げんそくしながら駅えきへ入はいって来きた。そして停止ていししドアが開ひらき、どのドアからも乗客じょうきゃくが降おりた。岡部おかべは車両しゃりょうに入はいり、向むきなおって川島かわしまに片手かたてを上あげた。ドアが閉とじ、電車でんしゃは発車はっしゃした。岡部おかべはもう一いち度ど、川島かわしまに片手かたてを上あげた。川島かわしまは改札かいさつ口くちに向むけて歩あるき、最後さいごの車両しゃりょうが駅えきを出でてから、振ふり返かえった。下くだりのプラットフォームに人ひとの姿すがたはなかった。

三み日か後ごの木曜もくよう日ひ、川島かわしま健一郎けんいちろうはたまたま代休だいきゅうだった。しかし用事ようじはあったから午前ごぜん中ちゅうに社しゃへいき、そこで昼ひるすぎまで過すごしてから、東京とうきょう駅えきへ向むかった。新しん幹線かんせんのプラットフォームに上あがると、定刻ていこくより二十にじゅう分ふんほど早はやかった。彼かれはひとりベンチにすわって待まった。

高校こうこうで同級どうきゅうだった女性じょせいたちがふたり、あらわれた。高校こうこうを卒業そつぎょうして、彼女かのじょたちは丸まるの内うちのおなじ会社かいしゃに就職しゅうしょくした。いまもおなじ職場しょくばだという。ふたりとも会社かいしゃの制服せいふくを着きていた。岡部おかべ孝雄たかおが母親ははおやの恵子けいこと姿すがたを見みせた。そして岡部おかべが働はたらいている会社かいしゃの、東京とうきょうにおけるこれまでの三さんか月げつ間かんの上司じょうしであった係かかり長ちょう、そして岡部おかべと同期どうきの男おとこが、岡部おかべを送おくる人ひとたちに加くわわった。誰だれもがおたがいに挨拶あいさつをして、名刺めいしを交換こうかんし合あった。

制服せいふくの女性じょせいたちふたりは、新しん幹線かんせんの発車はっしゃを待またずに帰かえっていった。彼女かのじょたちが岡部おかべ恵子けいこに挨拶あいさつしている様子ようすを、川島かわしまは見みるともなく見みた。若わかい彼女かのじょたちよりもはるかに自由じゆうで華はなやいだ雰囲気ふんいきが恵子けいこにあるのを、川島かわしまは確認かくにんした。川島かわしまがいちばん最初さいしょに岡部おかべの母親ははおやに会あったのは、高校こうこう一いち年ねん生せいの日々ひびが始はじまって間まもない頃ころだった。岡部おかべからやや年齢ねんれいの離はなれた姉あねなのだと、川島かわしまは思おもい込こんだ。母親ははおやだと知しったときには、かなり驚おどろいた。母親ははおやというものが持もっているはずの、多おおくの場合ばあいたいそう窮屈きゅうくつそうでかしこまった枠わくのようなものが、岡部おかべ恵子けいこにはまったくなかったからだ。

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