川島健一郎のひとり暮らしの家へ、岡部恵子はそれから何度も来た。彼が彼女の自宅へいくこともあったが、彼女が川島の家へ来ることのほうが多かった。そのことのごく自然な延長として、恵子はその家に住むことになった。川島がそれを熱心に提案した。恵子に異存はなかった。
「恵子さんはこの家に似合ってますよ。恵子さんに関して、僕が早くに発見したことのひとつは、恵子さんがこの家に似合っているということです」
「この家のほうが、はるかに好きだわ」
「いまの家は借家ですか」
「そうよ。格安のお家賃」
「この家の家賃は、いまの家賃とおなじになります」
「そんなことが出来るの?」
「父親にそう言えばいいのです」
「あなたは、どうするの?」
「自宅の離れに戻ります」
「戻ったきりでは、いけないのよ。足しげくここへかよってくださらなければ」
「帰り道の途中ですからね。ここへ帰れば、それでいいのです」
「あなたの部屋があるといいのだわ。ひとつだけ、あなたの部屋にしておきましょう」
「西側にふたつある部屋のうちの、北側の部屋にします。僕の勉強部屋です。机と椅子、それに本棚を置いて、写真のプリントはすべてここへ持って来る、ということにしておきます。写真をめぐって、いろいろと考え、模索するための勉強部屋です」
川島は父親に話をした。ちゃんとした人に住んでもらえるならそれがいちばんいい、というのが父親の反応だった。家賃の額を川島は恵子から聞いておいた。その額を父親に伝えた。充分だよ、と父親は言った。恵子は引っ越して来た。その日の夜、クーラーのおかげでほんのりと涼しい寝室のなかで、ふたりは長椅子にすわって話をした。天窓からの明かりが、ベッドの下半分を中心に、柔らかく広がっていた。
「お母さまに挨拶したのよ」
「僕の部屋がここにあることは、伝えてあります」
「お母様は、筋のとおったかたなのね」
「自分ひとりの主観では判断しない人です」
「あなたの部屋があれば、あなたがいつここへ来ていても、それはごく当然の、あたりまえのことなのよ。ね」
最後のひと言である「ね」に託されたニュアンスを、川島は受けとめた。
「ここに私が住むことを、孝雄も喜んでたわ。電話で伝えたの。あなたの部屋があることも、伝えておいたのよ」
「最初から明らかにしておかなくてはいけないことですからね。明らかにしておかなければ、それは秘密にしておくことですし、秘密にしておくことは、僕たちの件に関して、岡部を欺くことになります」
「お母さまについても、それはおなじよ」
「最初からすべてを打ち明ける必要はないのです。なにも隠し立てをしていない、無理のない成りゆきのなかで、やがて誰もが気づいていけばいいことです」
「そこに自分の部屋があれば、そこへあなたは来る。私とふたりでひとつの家のなかにいれば、手が触れ合うこともある、ふと抱き寄せることもある、唇も重なるでしょう。そういうことだわ」
「そのとおりです」
「こんなふうに?」
片手で恵子は川島の手を取り、もういっぽうの手で彼を抱き寄せた。ふたりの唇は重なるほかなかった。
「あなたが言うとおりだわ」
唇が離れてから、恵子が言った。
「ああ、そうか、そういうことなのかと、無理なく気づいてもらうのが、いちばんいいのね。なぜなら、私たちは、そういうことなのだから」
恵子が住み始めたその家は、川島が言ったとおり、駅から自宅への帰り道の途中にあった。足しげくかよってくれなくてはいけない、と恵子は言っていたが、かようと言うよりは立ち寄るであり、立ち寄ればそこに泊まることがしばしばだから、結局のところ、川島にとってもその家は、帰っていくところとなった。彼が自宅には戻らない日が頻繁にあり、恵子は家賃を払いにいくたびに川島の母親と会い、恵子は彼女から信頼を得た。恵子という女性と自分の息子との関係に、母親はおそらく気づいたのだろう、ある日いきなり、川島は母親から次のように言われた。
「あなたが原因であの人が泣くようなことがあったら、私は承知しませんよ。いいですね」
隅々まで筋をとおした関係を維持しろ、という意味に川島は解釈した。人が守るべき社会的な、あるいは個人的なルールに関して、川島の母親はきわめて厳しい人だ。ひとり息子の川島は、幼い頃から、彼女がその厳しさを発揮するための、絶好の対象だった。母親の言葉を彼は恵子に伝えた。恵子は喜んだ。
「お母さまは私の味方なのよ」
と、恵子は言った。
それから二年が経過した。川島は二十五歳になった。あなたはいまようやくそんな年齢なのかと、恵子は言った。川島が二十代のなかばを過ぎても、恵子との関係は続いていった。いい関係だった。不調和や食い違い、軋轢など、ひと組の男女の関係のなかにほぼかならずあるはずのものが、ふたりの関係のなかには、どこを探しても見つからなかった。
これはいったいなになのか、と川島は思うようになった。私はあなたのなににでもなれる、と最初に恵子は言った。そのとおりになった。彼にとって恵子は、魅力のつきることのない多面体だった。二十代後半の日々が進んでいくなかで、
「またあるときは、私はあなたの奥さんでもあるのよ」
という台詞を、彼は恵子から受けた。これもそのとおりであり、現実そのままと言ってよかった。
「あなたにとって、なんらかのかたちで、私は力になりたいのよ。なんでもいいから、私から取っていって」
と恵子は言い、さらに次のようにも言った。
「二十歳も若いあなたから体を求められるだけでも、私は充分にうれしいのよ。私がもっとも端的に役立つのは、まずそのような文脈のなかではないかしら。ワイシャツにアイロンをかけたり、遅く帰ったあなたにお茶漬けを作ったりするよりもはるかに、私はそういう意味で役に立ってるわ」
だからふたりの関係は、このような関係でもあった。恵子は彼にとって、たいへんに親しい年上の女性であり、その女性は、状況によってなににでもなることが出来た。彼がまだ二十代なのだから、状況とは言っても、ほとんどの場合それは、単なるニュアンスの問題でしかないのだが。