← Library‹ 七月の水玉 寝室には天窓を 2

川島かわしま健一郎けんいちろうのひとり暮ぐらしの家いえへ、岡部おかべ恵子けいこはそれから何なん度ども来きた。彼かれが彼女かのじょの自宅じたくへいくこともあったが、彼女かのじょが川島かわしまの家いえへ来くることのほうが多おおかった。そのことのごく自然しぜんな延長えんちょうとして、恵子けいこはその家いえに住すむことになった。川島かわしまがそれを熱心ねっしんに提案ていあんした。恵子けいこに異存いぞんはなかった。

「恵子けいこさんはこの家いえに似合にあってますよ。恵子けいこさんに関かんして、僕ぼくが早はやくに発見はっけんしたことのひとつは、恵子けいこさんがこの家いえに似合にあっているということです」

「この家いえのほうが、はるかに好すきだわ」

「いまの家いえは借家しゃくやですか」

「そうよ。格安かくやすのお家賃やちん」

「この家いえの家賃やちんは、いまの家賃やちんとおなじになります」

「そんなことが出来できるの?」

「父親ちちおやにそう言いえばいいのです」

「あなたは、どうするの?」

「自宅じたくの離はなれに戻もどります」

「戻もどったきりでは、いけないのよ。足あししげくここへかよってくださらなければ」

「帰かえり道みちの途中とちゅうですからね。ここへ帰かえれば、それでいいのです」

「あなたの部屋へやがあるといいのだわ。ひとつだけ、あなたの部屋へやにしておきましょう」

「西側にしがわにふたつある部屋へやのうちの、北側きたがわの部屋へやにします。僕ぼくの勉強べんきょう部屋へやです。机つくえと椅子いす、それに本棚ほんだなを置おいて、写真しゃしんのプリントはすべてここへ持もって来くる、ということにしておきます。写真しゃしんをめぐって、いろいろと考かんがえ、模索もさくするための勉強べんきょう部屋へやです」

川島かわしまは父親ちちおやに話はなしをした。ちゃんとした人ひとに住すんでもらえるならそれがいちばんいい、というのが父親ちちおやの反応はんのうだった。家賃やちんの額がくを川島かわしまは恵子けいこから聞きいておいた。その額がくを父親ちちおやに伝つたえた。充分じゅうぶんだよ、と父親ちちおやは言いった。恵子けいこは引ひっ越こして来きた。その日ひの夜よる、クーラーのおかげでほんのりと涼すずしい寝室しんしつのなかで、ふたりは長ちょう椅子いすにすわって話はなしをした。天窓てんまどからの明あかりが、ベッドの下もと半分はんぶんを中心ちゅうしんに、柔やわらかく広ひろがっていた。

「お母ははさまに挨拶あいさつしたのよ」

「僕ぼくの部屋へやがここにあることは、伝つたえてあります」

「お母はは様さまは、筋すじのとおったかたなのね」

「自分じぶんひとりの主観しゅかんでは判断はんだんしない人ひとです」

「あなたの部屋へやがあれば、あなたがいつここへ来きていても、それはごく当然とうぜんの、あたりまえのことなのよ。ね」

最後さいごのひと言ことである「ね」に託たくされたニュアンスを、川島かわしまは受うけとめた。

「ここに私わたくしが住すむことを、孝雄たかおも喜よろこんでたわ。電話でんわで伝つたえたの。あなたの部屋へやがあることも、伝つたえておいたのよ」

「最初さいしょから明あきらかにしておかなくてはいけないことですからね。明あきらかにしておかなければ、それは秘密ひみつにしておくことですし、秘密ひみつにしておくことは、僕ぼくたちの件けんに関かんして、岡部おかべを欺あざむくことになります」

「お母ははさまについても、それはおなじよ」

「最初さいしょからすべてを打うち明あける必要ひつようはないのです。なにも隠かくし立だてをしていない、無理むりのない成なりゆきのなかで、やがて誰だれもが気きづいていけばいいことです」

「そこに自分じぶんの部屋へやがあれば、そこへあなたは来くる。私わたくしとふたりでひとつの家いえのなかにいれば、手てが触ふれ合あうこともある、ふと抱だき寄よせることもある、唇くちびるも重かさなるでしょう。そういうことだわ」

「そのとおりです」

「こんなふうに?」

片手かたてで恵子けいこは川島かわしまの手てを取とり、もういっぽうの手てで彼かれを抱だき寄よせた。ふたりの唇くちびるは重かさなるほかなかった。

「あなたが言いうとおりだわ」

唇くちびるが離はなれてから、恵子けいこが言いった。

「ああ、そうか、そういうことなのかと、無理むりなく気きづいてもらうのが、いちばんいいのね。なぜなら、私わたくしたちは、そういうことなのだから」

恵子けいこが住すみ始はじめたその家いえは、川島かわしまが言いったとおり、駅えきから自宅じたくへの帰かえり道みちの途中とちゅうにあった。足あししげくかよってくれなくてはいけない、と恵子けいこは言いっていたが、かようと言いうよりは立たち寄よるであり、立たち寄よればそこに泊とまることがしばしばだから、結局けっきょくのところ、川島かわしまにとってもその家いえは、帰かえっていくところとなった。彼かれが自宅じたくには戻もどらない日ひが頻繁ひんぱんにあり、恵子けいこは家賃やちんを払はらいにいくたびに川島かわしまの母親ははおやと会あい、恵子けいこは彼女かのじょから信頼しんらいを得えた。恵子けいこという女性じょせいと自分じぶんの息子むすことの関係かんけいに、母親ははおやはおそらく気きづいたのだろう、ある日ひいきなり、川島かわしまは母親ははおやから次つぎのように言いわれた。

「あなたが原因げんいんであの人ひとが泣なくようなことがあったら、私わたくしは承知しょうちしませんよ。いいですね」

隅々すみずみまで筋すじをとおした関係かんけいを維持いじしろ、という意味いみに川島かわしまは解釈かいしゃくした。人ひとが守まもるべき社会しゃかい的てきな、あるいは個人こじん的てきなルールに関かんして、川島かわしまの母親ははおやはきわめて厳きびしい人ひとだ。ひとり息子むすこの川島かわしまは、幼おさない頃ころから、彼女かのじょがその厳きびしさを発揮はっきするための、絶好ぜっこうの対象たいしょうだった。母親ははおやの言葉ことばを彼かれは恵子けいこに伝つたえた。恵子けいこは喜よろこんだ。

「お母ははさまは私わたくしの味方みかたなのよ」

と、恵子けいこは言いった。

それから二に年ねんが経過けいかした。川島かわしまは二十にじゅう五ご歳さいになった。あなたはいまようやくそんな年齢ねんれいなのかと、恵子けいこは言いった。川島かわしまが二十にじゅう代だいのなかばを過すぎても、恵子けいことの関係かんけいは続つづいていった。いい関係かんけいだった。不ふ調和ちょうわや食くい違ちがい、軋轢あつれきなど、ひと組くみの男女だんじょの関係かんけいのなかにほぼかならずあるはずのものが、ふたりの関係かんけいのなかには、どこを探さがしても見みつからなかった。

これはいったいなになのか、と川島かわしまは思おもうようになった。私わたくしはあなたのなににでもなれる、と最初さいしょに恵子けいこは言いった。そのとおりになった。彼かれにとって恵子けいこは、魅力みりょくのつきることのない多面ためん体たいだった。二十にじゅう代だい後半こうはんの日々ひびが進すすんでいくなかで、

「またあるときは、私わたくしはあなたの奥おくさんでもあるのよ」

という台詞せりふを、彼かれは恵子けいこから受うけた。これもそのとおりであり、現実げんじつそのままと言いってよかった。

「あなたにとって、なんらかのかたちで、私わたくしは力ちからになりたいのよ。なんでもいいから、私わたくしから取とっていって」

と恵子けいこは言いい、さらに次つぎのようにも言いった。

「二十にじゅう歳さいも若わかいあなたから体からだを求もとめられるだけでも、私わたくしは充分じゅうぶんにうれしいのよ。私わたくしがもっとも端的たんてきに役立やくだつのは、まずそのような文脈ぶんみゃくのなかではないかしら。ワイシャツにアイロンをかけたり、遅おそく帰かえったあなたにお茶漬ちゃづけを作つくったりするよりもはるかに、私わたくしはそういう意味いみで役やくに立たってるわ」

だからふたりの関係かんけいは、このような関係かんけいでもあった。恵子けいこは彼かれにとって、たいへんに親したしい年上としうえの女性じょせいであり、その女性じょせいは、状況じょうきょうによってなににでもなることが出来できた。彼かれがまだ二十にじゅう代だいなのだから、状況じょうきょうとは言いっても、ほとんどの場合ばあいそれは、単たんなるニュアンスの問題もんだいでしかないのだが。

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