電車を降りた彼はプラットフォームから階段を上がった。そして改札口へと向かった。うしろ姿の美しい女性が、彼のすぐ前を歩いていた。中年の男性がひとり、彼女のすぐうしろへ、かたわらから割り込んだ。彼女が改札口に入り、続いて中年男性、そのあとを彼が、それぞれ改札を出た。中年の男性は右手の北口へ向かった。うしろ姿の美しい女性は、立ちどまって振り返った。うしろ姿を裏切らない顔だちであることを、彼は確認した。この姿にこの顔なのか、と思っている彼をまっすぐに見て、
「おなじ電車だったのね」
と、その女性は言った。
これほどの美人がなぜ自分に話しかけるのか。話しかけられているのは自分ではないのではないか、と思う途中で彼は気づいた。彼女は舞子という名の年上の女性だ。舞子という名は記憶に残りやすかった。彼が中学生のときに越してきた家の、すぐ近くに住んでいる女性だ。その頃からの顔見知りだ。中学と高校がおなじで、高校に入ったときには確か彼女と入れ違いだったはずだ、というあたりまで彼は思い出した。
「久しぶりです」
「いつもこの時間なの?」
ふたりは南口の階段へ向かった。
「お勤めは新聞社だったわね。お母さまからうかがったのよ」
「五年前に辞めました」
「そうだったの。ではお母さまからうかがってから、もう五年以上がたつのね」
「大学を出て新聞社に就職したのです」
「なぜ辞めたの?」
階段を降りながら彼女が訊いた。
「転勤の辞令が出たのです。神戸への転勤命令でした。僕は断りました。たとえこれを断っても、これから転勤は何度もあるよと言われて、辞めたのです」
階段を降りたふたりは、まっすぐに南口の商店街の入口に向けて歩いた。大半の店は一日の営業を終えて閉まっていたが、人どおりはまだあった。
「おうちへ帰るの?」
「そうです」
「いつもこの時間なの?」
「いまは自由業ですから、時間はまちまちです」
「この下北沢を中心に、よくいろんなところで、偶然に会ったわね」
「最近は会いませんでしたね」
「新聞社ではどんな仕事をしてたの?」
「社会部で記事を書いてました。最後の記事は、上野動物園のパンダについてでした」
「まあ、そうだったの」
という彼女の言葉に、彼は舞子に顔を向けた。彼女とこうして肩をならべて歩くのは初めてだし、微笑している顔を至近距離から見るのも初めてだ。舞子の目鼻だちは彫りが存分に効いている。そしてぜんたいのまとまりかたは整いすぎの美人だから、表情を消しているときには冷たい印象があった。人の視線はかならず引きつける。しかし、冷たい印象が、その視線を硬く跳ね返す。さきほど、改札口を出て振り返ったときの彼女は、まさにそのとおりだった。
「あのとき私もパンダを見にいったのよ」
舞子の顔に微笑が深まった。相手を受けとめて許容する力の、幅と奥行がたいへんに広い微笑だ、と彼は思った。
「寒い頃だったわ」
「初日は十一月五日でした。いまでも日付を覚えてます。中国から贈られたパンダが、その日に初公開されたのです」
「私、おそらくその記事を読んだわ。おそらくではなくて、確かに読んだ。じつはトキヒコちゃんが書いたのだとは、知らないままに。トキヒコちゃんなんて呼んではいけないわね」
「僕は三十歳になりました」
「あらあ、ショックだわ、そんなに時間がたってしまったの。あなたが高校生だったのが、ついこないだのことよ」
「そうです」
「だから私は三十三歳なの。独身で、以前からの家にひとりで住んでいて」
「僕も独身です」
「ご両親は?」
「健在です」
「五年前と言えば、私もいまからちょうど五年前に、大きな転機がひとつあったのよ。父親が電子工学の研究者で、私の母を連れて、五年前にアメリカへいってしまったの。もう帰ってはこないのだと思うのよ。私はいきたくないので、東京にひとりでいるの。私たちはふたりとも五年前に転機があって、それから等しく五年が経過してたのね」
南口の商店街を抜けていく道を、ふたりは歩ききった。道が三つの方向へ分かれる地点にさしかかった。右へ上がっていく細い坂道に、ふたりは入っていった。ふたりの家は、歩いて三分かからない近所どうしだ。
「偶然に会うのは、そう言えば久しぶりね」
「最後はいつでしたか」
「覚えてないわ」
「僕がいまの家へ両親と引っ越してきたのは一九六〇年で、僕は十三歳でした。それ以前は浜田山にいました」
「まあ、そこにも一致してるものがあるわ。一九六〇年と言えば私は十六歳で、いまの家を建てた年よ。おなじ場所にあったそれまでの家を壊して、建て直したの」
「節目が一致してますね」
「どうしてかしら」
「おなじ世代だということでしょう」
「ふたりともおなじ時代を生きてるのね」
ふたりは坂道を上がりきった。交差している道を彼らは左へ向かった。舞子の怜悧な受け答えの奥に、少なくとも自分にとっては、きわめて快適な居心地の良さのようなものを、彼は感じた。肩をならべて夜道を歩きながら彼女と話をする。彼女の受け答えは的確であり、優しく先導する力を常にたたえていた。先導しながら相手を受けとめ、相手を充分に取り込んだところから、自分の反応が出てくる。そのような受容力の大きさは、彼にとって新鮮な発見だった。女性と話をしていて、これほどの心地よさを覚えるのは、彼にとっては初めてのことだった。舞子は誰に対してもこうなのだろうか、と彼は思った。
しばらく歩いてふたりは道を横切った。そして脇道へと入った。どの家も敷地の広い、閑静な住宅地のなかとなった。ほどなく舞子の家が道の右側にあった。門の前にふたりは立ちどまった。
「夜は怖いから、塀を取り払って改装したのよ。ここから玄関まで、周囲も含めてすべて、見渡せるようにしたの」
舞子が説明した。
「そう言えば、以前は高い塀がありましたね」
「ここで私はひとり暮らしなの。忍んできてくださってもいいのよ。ほんとに、遊びにきて。何度も会いましょうよ。と言うよりも、ちょっとお寄りになったら。夜はまだこんな時間だし」
丈の低い門を彼女は外から開いた。
「お邪魔してもいいのですか」