← Library‹ 七月の水玉 これは自分の理想だった 1

電車でんしゃを降おりた彼かれはプラットフォームから階段かいだんを上あがった。そして改札かいさつ口くちへと向むかった。うしろ姿すがたの美うつくしい女性じょせいが、彼かれのすぐ前まえを歩あるいていた。中年ちゅうねんの男性だんせいがひとり、彼女かのじょのすぐうしろへ、かたわらから割わり込こんだ。彼女かのじょが改札かいさつ口くちに入はいり、続つづいて中年ちゅうねん男性だんせい、そのあとを彼かれが、それぞれ改札かいさつを出でた。中年ちゅうねんの男性だんせいは右手みぎての北口きたぐちへ向むかった。うしろ姿すがたの美うつくしい女性じょせいは、立たちどまって振ふり返かえった。うしろ姿すがたを裏切うらぎらない顔かおだちであることを、彼かれは確認かくにんした。この姿すがたにこの顔かおなのか、と思おもっている彼かれをまっすぐに見みて、

「おなじ電車でんしゃだったのね」

と、その女性じょせいは言いった。

これほどの美人びじんがなぜ自分じぶんに話はなしかけるのか。話はなしかけられているのは自分じぶんではないのではないか、と思おもう途中とちゅうで彼かれは気きづいた。彼女かのじょは舞子まいこという名なの年上としうえの女性じょせいだ。舞子まいこという名なは記憶きおくに残のこりやすかった。彼かれが中学ちゅうがく生せいのときに越こしてきた家いえの、すぐ近ちかくに住すんでいる女性じょせいだ。その頃ころからの顔かお見知みしりだ。中学ちゅうがくと高校こうこうがおなじで、高校こうこうに入はいったときには確たしか彼女かのじょと入いれ違ちがいだったはずだ、というあたりまで彼かれは思おもい出だした。

「久ひさしぶりです」

「いつもこの時間じかんなの?」

ふたりは南口みなみぐちの階段かいだんへ向むかった。

「お勤つとめは新聞しんぶん社しゃだったわね。お母ははさまからうかがったのよ」

「五ご年ねん前まえに辞やめました」

「そうだったの。ではお母ははさまからうかがってから、もう五ご年ねん以上いじょうがたつのね」

「大学だいがくを出でて新聞しんぶん社しゃに就職しゅうしょくしたのです」

「なぜ辞やめたの?」

階段かいだんを降おりながら彼女かのじょが訊きいた。

「転勤てんきんの辞令じれいが出でたのです。神戸こうべへの転勤てんきん命令めいれいでした。僕ぼくは断ことわりました。たとえこれを断ことわっても、これから転勤てんきんは何なん度どもあるよと言いわれて、辞やめたのです」

階段かいだんを降おりたふたりは、まっすぐに南口みなみぐちの商店しょうてん街がいの入口いりぐちに向むけて歩あるいた。大半たいはんの店みせは一日ついたちの営業えいぎょうを終おえて閉しまっていたが、人ひとどおりはまだあった。

「おうちへ帰かえるの?」

「そうです」

「いつもこの時間じかんなの?」

「いまは自由じゆう業ぎょうですから、時間じかんはまちまちです」

「この下北沢しもきたざわを中心ちゅうしんに、よくいろんなところで、偶然ぐうぜんに会あったわね」

「最近さいきんは会あいませんでしたね」

「新聞しんぶん社しゃではどんな仕事しごとをしてたの?」

「社会しゃかい部ぶで記事きじを書かいてました。最後さいごの記事きじは、上野うえの動物どうぶつ園えんのパンダについてでした」

「まあ、そうだったの」

という彼女かのじょの言葉ことばに、彼かれは舞子まいこに顔かおを向むけた。彼女かのじょとこうして肩かたをならべて歩あるくのは初はじめてだし、微笑びしょうしている顔かおを至近しきん距離きょりから見みるのも初はじめてだ。舞子まいこの目鼻めはなだちは彫ほりが存分ぞんぶんに効きいている。そしてぜんたいのまとまりかたは整ととのいすぎの美人びじんだから、表情ひょうじょうを消けしているときには冷つめたい印象いんしょうがあった。人ひとの視線しせんはかならず引ひきつける。しかし、冷つめたい印象いんしょうが、その視線しせんを硬かたく跳はね返かえす。さきほど、改札かいさつ口くちを出でて振ふり返かえったときの彼女かのじょは、まさにそのとおりだった。

「あのとき私わたくしもパンダを見みにいったのよ」

舞子まいこの顔かおに微笑びしょうが深ふかまった。相手あいてを受うけとめて許容きょようする力ちからの、幅はばと奥行おくゆきがたいへんに広ひろい微笑びしょうだ、と彼かれは思おもった。

「寒さむい頃ころだったわ」

「初日しょにちは十じゅう一いち月がつ五ご日にちでした。いまでも日付ひづけを覚おぼえてます。中国ちゅうごくから贈おくられたパンダが、その日ひに初はつ公開こうかいされたのです」

「私わたくし、おそらくその記事きじを読よんだわ。おそらくではなくて、確たしかに読よんだ。じつはトキヒコちゃんが書かいたのだとは、知しらないままに。トキヒコちゃんなんて呼よんではいけないわね」

「僕ぼくは三十さんじゅう歳さいになりました」

「あらあ、ショックだわ、そんなに時間じかんがたってしまったの。あなたが高校こうこう生せいだったのが、ついこないだのことよ」

「そうです」

「だから私わたくしは三十さんじゅう三さん歳さいなの。独身どくしんで、以前いぜんからの家いえにひとりで住すんでいて」

「僕ぼくも独身どくしんです」

「ご両親りょうしんは?」

「健在けんざいです」

「五ご年ねん前まえと言いえば、私わたくしもいまからちょうど五ご年ねん前まえに、大おおきな転機てんきがひとつあったのよ。父親ちちおやが電子でんし工学こうがくの研究けんきゅう者しゃで、私わたくしの母ははを連つれて、五ご年ねん前まえにアメリカへいってしまったの。もう帰かえってはこないのだと思おもうのよ。私わたくしはいきたくないので、東京とうきょうにひとりでいるの。私わたくしたちはふたりとも五ご年ねん前まえに転機てんきがあって、それから等ひとしく五ご年ねんが経過けいかしてたのね」

南口みなみぐちの商店しょうてん街がいを抜ぬけていく道みちを、ふたりは歩あるききった。道みちが三みつの方向ほうこうへ分わかれる地点ちてんにさしかかった。右みぎへ上あがっていく細ほそい坂道さかみちに、ふたりは入はいっていった。ふたりの家いえは、歩あるいて三さん分ふんかからない近所きんじょどうしだ。

「偶然ぐうぜんに会あうのは、そう言いえば久ひさしぶりね」

「最後さいごはいつでしたか」

「覚おぼえてないわ」

「僕ぼくがいまの家いえへ両親りょうしんと引ひっ越こしてきたのは一いち九きゅう六ろく〇れい年ねんで、僕ぼくは十じゅう三さん歳さいでした。それ以前いぜんは浜田はまだ山やまにいました」

「まあ、そこにも一致いっちしてるものがあるわ。一いち九きゅう六ろく〇れい年ねんと言いえば私わたくしは十じゅう六ろく歳さいで、いまの家いえを建たてた年としよ。おなじ場所ばしょにあったそれまでの家いえを壊こわして、建たて直なおしたの」

「節目ふしめが一致いっちしてますね」

「どうしてかしら」

「おなじ世代せだいだということでしょう」

「ふたりともおなじ時代じだいを生いきてるのね」

ふたりは坂道さかみちを上あがりきった。交差こうさしている道みちを彼かれらは左ひだりへ向むかった。舞子まいこの怜悧れいりな受うけ答こたえの奥おくに、少すくなくとも自分じぶんにとっては、きわめて快適かいてきな居心地いごこちの良よさのようなものを、彼かれは感かんじた。肩かたをならべて夜道よみちを歩あるきながら彼女かのじょと話はなしをする。彼女かのじょの受うけ答こたえは的確てきかくであり、優やさしく先導せんどうする力ちからを常つねにたたえていた。先導せんどうしながら相手あいてを受うけとめ、相手あいてを充分じゅうぶんに取とり込こんだところから、自分じぶんの反応はんのうが出でてくる。そのような受容じゅよう力りょくの大おおきさは、彼かれにとって新鮮しんせんな発見はっけんだった。女性じょせいと話はなしをしていて、これほどの心地ここちよさを覚おぼえるのは、彼かれにとっては初はじめてのことだった。舞子まいこは誰だれに対たいしてもこうなのだろうか、と彼かれは思おもった。

しばらく歩あるいてふたりは道みちを横切よこぎった。そして脇道わきみちへと入はいった。どの家いえも敷地しきちの広ひろい、閑静かんせいな住宅じゅうたく地ちのなかとなった。ほどなく舞子まいこの家いえが道みちの右側みぎがわにあった。門もんの前まえにふたりは立たちどまった。

「夜よるは怖こわいから、塀へいを取とり払はらって改装かいそうしたのよ。ここから玄関げんかんまで、周囲しゅういも含ふくめてすべて、見渡みわたせるようにしたの」

舞子まいこが説明せつめいした。

「そう言いえば、以前いぜんは高たかい塀へいがありましたね」

「ここで私わたくしはひとり暮ぐらしなの。忍しのんできてくださってもいいのよ。ほんとに、遊あそびにきて。何なん度ども会あいましょうよ。と言いうよりも、ちょっとお寄よりになったら。夜よるはまだこんな時間じかんだし」

丈たけの低ひくい門もんを彼女かのじょは外そとから開ひらいた。

「お邪魔じゃましてもいいのですか」

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