昼食には洋食の店でコロッケを食べた。右隣の席にいる三年だけ先輩の同僚が教えてくれた店だ。初めてのその店で食べたあと、まだ歩いたことのない道を経由して会社へ向かった。途中に画材の店があった。本来は卸問屋なのだが、店先では小売りもしていた。スケッチ・ブックが目玉商品として安く出ていた。B6サイズで百枚綴じのを一冊、北原亜紀男は買った。
会社の建物へ戻り、エレヴェーターで六階へ上がった。このワン・フロアが営業の大部屋だ。片方の壁にタイム・カードとその印字機があり、その前を横へ奥に入ると、そこは湯沸かし室だった。正面には曇りガラスのドアが観音開きにあった。ドアを入ると右手のスペースがタイピスト・プールで、通路をはさんで左側には営業庶務の人たちの机がならんでいた。その向こうに会議室がふたつあり、さらにその奥はテレックス・マシーンとそのオペレーターのコーナーだった。
新卒で入社してまだ三か月にならない北原の席は、大部屋のほぼまんなかあたりにあった。昼休みはまだ終わっていない。だから部屋に人は少なかった。女性たちはまだ全員が席に戻っていなかった。自分の机までいき、椅子にすわり、買ったばかりのスケッチ・ブックを手に持って開いた。B6のサイズで白い画用紙が連続していた。裏と表では感触が違った。表は鉛筆のひっかかりが良さそうだ、と北原は思った。
濃紺のスーツ・ジャケットの内ポケットから、彼は黒いシャープ・ペンシルを取り出した。速記者が使うものだということで、0・9ミリで2Bの芯が入っていた。芯を繰り出しながら彼がふと思ったのは、今日もエレヴェーターを使って何度も出たり入ったりしたが、まだ長谷川裕子の姿を見ていない、ということだった。
右開きのスケッチ・ブックを半回転させて左開きとした彼は、表紙を開いた。最初のページの白いスペースのなかの、ある一点にシャープ・ペンシルの芯先を下ろした彼は、そこから絶妙な滑らかさと素早さで、まるでひと筆描きのように若い女性をひとり、描き出した。ドアの開いているエレヴェーターから、ふと外に出てみたというポーズの、制服のエレヴェーター・ガールだ。九階まであるこの建物は、ワン・ブロックのほとんどをふさいでいた。一階の長方形のロビーの片側に、五基のエレヴェーターがならんでいた。六人のエレヴェーター・ガールが、交代でこの五基を操作していた。スケッチ・ブックに北原亜紀男が描いたのは、そのうちのひとりである、長谷川裕子だった。
昼食から帰って来た隣の部の課長代理が、北原の椅子のうしろをとおりかかった。スケッチ・ブックに目をとめて立ちどまり、北原の肩ごしにかがみ込んだ。
「うわっ、うまい」
倉本というその男が言った。
「長谷川じゃないか。おまえが描いたのか」
「そうです」
「ものすごくうまいねえ」
「そうですか」
「そうですかじゃないんだよ。どうやって描いたんだ」
「僕が、これで」
と、北原はシャープ・ペンシルを見せた。
大部屋のいちばん奥にある第三部の男が、通路をとおりかかった。倉本は彼を呼びとめた。
「おい、見てみろ。傑作だよ」
そう言って北原の背後から、北原の手のなかのスケッチ・ブックを、彼は示した。呼ばれた男も北原のうしろへ来た。そしてスケッチ・ブックをのぞき込み、
「ほほう、長谷川だ。あのこの感じが出てるね。いまにも動きそうだ。エレヴェーターのなかへ入っていきそうだ」
「こんなに絵のうまい男が、なぜ商社の営業にいるんだ」
倉本がそう言い、第三部の男は笑った。北原とおなじ部にいる、北原よりも七、八年は先輩の男が、足早に北原のかたわらへ来た。三、四人以上の人たちがかたまってなにか話をしていると、かならず顔を突っ込むことで知られている、山中という男だった。
「この絵を見ろ」
「長谷川の裕子じゃないか。すごいね、これは。そっくりだ。六人のうち、あのこがいちばんの美人だからなあ」
「この絵はこれで完成かい」
倉本に言われて、北原はエレヴェーターのドア枠そして壁などを、ほんの少しだけ描き加えた。
「長谷川がさらに浮き立つね」
「傑作だよ」
と、山中が言った。
「これだけ描ければ、末は画伯だ。末まで待たなくても、たちまち画伯だ。日付けを入れとけよ。まずこのビルの名前を書いて。長浜ビル。そう。日本橋蠣殻町。絵は描けるけど、字は大丈夫か。日付け。一九六三年六月十九日。長谷川、なんと言ったっけ。裕子か。よし、それでいい。彼女のサインをもらっとけ。自筆の署名入りだと、値打ちもまた違ってくるよ。俺がいまサインをもらって来てやる」
山中が北原のスケッチ・ブックに片手を差しのべたとき、
「おい、山中」
と、部長が席から呼んだ。山中は足早に部長の席へ向かった。
「あいつを追っ払うには、部長に呼んでもらうのがいちばんだな」
倉本が言い、第三部の男は北原の肩に手をかけて揺すった。そして、
「そんなに絵の才能があって、どうするんだよ」
と言いながら、通路へ出ていった。倉本は自分の席へいき、ベルの鳴った隣の席の電話に出た。北原はスケッチ・ブックを閉じた。そして長谷川裕子のことを思った。昨日、彼女と交わした短い会話を、彼は思い起こした。
外出する彼が、六階で壁のボタンを押して待っていると、正面のドアが開いた。エレヴェーター・ガールは長谷川裕子だった。なかに入った彼は、
「九階」
と言った。
いぶかしげな表情が、裕子の顔に淡く浮かんだ。
「かしこまりました」
と彼女は言い、ドアを閉じた。
「いつでもいいですから、僕と会ってください。一日の仕事のあと。あるいは休みの日に」
エレヴェーターの奥の壁を背にして、北原は裕子のうしろ姿にそう言った。振り返って彼を見た彼女は、
「私は会社の営業の人が、大っ嫌いなのよ」
と答えた。
「営業の人が嫌いということは、サラリーマンが嫌いということですね」
「そう言ってもいいわね」
目の前にある操作盤に向けて、彼女は静かに言った。
「営業の人でなければ、どうですか。会社を辞めれば」
九階に着くまで彼女は無言だった。エレヴェーターは停止し、彼女はドアを開いた。ドアまで歩いた北原は、彼女に顔を向けた。