店の奥、壁に沿ってならんでいるふたり用の席には、空席がいくつかあった。そのひとつに深町と順子は差し向かいにすわった。ふたりともチキン・カリーを注文した。
「絵を持って来てくださった?」
テーブルの向こうで上体を彼に向けて傾け、順子が訊いた。
「持って来た」
鞄から深町はスケッチ・ブックを取り出し、あいだにはさんだままのあの絵を抜き出した。そして順子に手渡した。壁に肩を寄せ、その方向に体を傾けて、順子は絵を見た。チキン・カリーが届くまで、順子は絵を見ていた。ウェイトレスがテーブルへ来ると、順子は絵を膝に伏せた。そして上体をのばし、なにごともないかのように澄ました表情となった。若いのにあれだけの色気、と加納は言った。その色気とは、一例としていまのような順子なのか、と深町は思った。ウェイトレスが下がってから、順子は伏せたままの絵を深町に返した。
「そっくりだわ。江利子さんがおっしゃってたとおり」
順子は笑顔でそう言った。そしてチキン・カリーを食べ始めた。
「私の裸をあなたは見てないのに、よくこれだけそっくりに描けるわね。どこに秘訣があるの?」
「似てますか」
「そっくりよ」
「それは良かった」
「いつも、こうなの?」
「いつもとは?」
「見ないで描くの? それとも、見なくても描けるのかしら」
「見たほうがいいかな」
「見ないまま描いて、よく似ていて、絵は完成して、それでいいの?」
彼女との会話がどこへたどり着くのか、まだ見当がつかないままに、深町は順子の食べかたにも気を取られていた。両手や顔の動きが端正で、食べかたはきれいだった。よく食べる人という印象がそこに重なると、彼女という人の元気さが、食べかたのぜんたいとして浮かび上がった。
「私は見なくてもいいの?」
「いまこうして見てるよ」
「裸の私。現実の、生身の、現物の私。しかも裸の」
「見ることが出来るなら」
「見せるわよ」
「見ますよ」
「見たら、どうなるのかしら。もう一度、描いたりするの?」
「描くにきまってます」
「では、描いて。見せるから。裸くらい、いくらでも見せるのよ」
順子といまこうして向き合っている自分は、彼女によってあっけなく問いつめられ、追い込まれ、どこかへ囲い込まれた自分であるように、深町は感じた。
「いくらでも見せる、と私は言ってるのよ」
「見たいです」
「ホテルの部屋があの絵の背景として、ヒントになってるのですって? 江利子さんがおっしゃってたわ」
加納に頼まれた挿絵の仕事でホテルの和室を訪ねたいきさつを、深町は説明した。
「そこで見せてあげる。そのホテルの、その部屋で」
「絵に現実を重ねるわけだ」
「いま、これから」
「なるほど」
食事を終えてふたりは店を出た。店の入口のかたわらに赤電話があった。仕事に関係したあらゆる事柄を書きとめておく手帳を、深町は鞄から取り出した。たしかこの手帳の前のほうだと思いながら、彼はページを繰った。あのホテルの名や電話番号、そして部屋の番号まで、書いてあった。その番号に彼は電話をかけた。おなじ和室が空いているという。彼はその部屋を予約した。
地下街へ降りていく階段の上で、順子は彼と腕を組んだ。ふたりは地下鉄に乗った。五つ目の駅で降り、地上に出ると道路の向かい側にそのホテルがあった。彼女はロビーのソファで待ち、彼がチェック・インして部屋の鍵を受け取った。ナイト・クラブの入口にエレヴェーターがあり、ふたりはそれで部屋のある階まで上がった。そして部屋に入った。
「不思議なお部屋なのね」
空間のぜんたいを見渡しながら、順子が言った。彼女の言うとおりだった。畳の敷いてあるスペースは、縁側としか呼びようのない木製の縁に上がり、障子を開いたなかにあった。縁側をへて障子で仕切られたそのほぼ正方形のスペースは、部屋ぜんたいのおなじく正方形の広がりの奥に、“いれこ”となっていた。縁側と障子のある二辺は直角に交わり、その直角の角が部屋に入ると正面にあった。二辺のうちひとつはソファのある壁に面し、もうひとつはドレッサーや小さなデスクのある壁に面していた。深町は靴を脱いで縁側に上がり、障子を開いた。彼女も上がって来た。
「絵にあるとおりだわ」
そう言って彼女はバッグから絵を取り出した。布団の敷いてある位置を、絵のなかの布団と突き合わせた。そして布団のかたわらへいき、そこにしゃがんで片膝をついた。
「こういうポーズなのね」
「そうだね」
「私、裸になるわ。障子の外に出て、障子を閉めて待ってて。どうぞ、と言ったら入って来ていいのよ」
深町はそのとおりにした。待つほどもなく、
「どうぞ」
という順子の声を、彼は障子ごしに受けとめた。障子を開いて彼はなかに入った。裸の彼女が布団のかたわらでさきほどとおなじポーズをとっていた。自分が絵に描いたのとおなじだ、と深町は思った。その彼に順子は絵を差し出した。
「くらべてみて」
絵を受け取った彼は障子の近くまで下がった。そして順子を見た。
布団のかたわらで片膝をついたポーズの順子の、自分を斜めに見上げる視線を彼は受けとめた。彼はかなりの衝撃を受けた。自分が絵に描いたのは、いまのこの彼女なのだ、という認識がもたらす衝撃だった。いま目の前にいる裸の彼女を、自分は予見してそれを絵に描いたのだろうか。彼女は誰かを見ている、と加納は言った。なにかを提案しているような、判定を求めているような、期待を込めた視線を、彼女は自分を見ている人に向けている、と加納は言った。彼女が見ているのはこの自分だ。ほんの戯れに描いた絵がいま目の前で現実となり、その現実のなかに自分もその身を置いている。
「どう?」
順子のひと言に促されて、
「そっくりだ。絵とまったくおなじだ」
と、深町は言った。
「この絵のなかできみはすぐそばにいる誰かを見ているけれど、それは僕だったのだ」
「見るだけでは済まないのよ。あなたも裸になって」