四日後の祝日に江利子から深町の自宅に電話があった。
「翻訳の原稿がまた少したまったのよ。ヨシオに見てもらいたいのだけれど、連絡がつかないのよ。彼はいったい、どこにいてなにをしてるのかしら」
「いったん僕が受け取りましょうか」
「それでもいいわ。でも、使い立てしてしまうわね」
「いっこうに構いません」
「お店でもいいかしら」
「どこでも」
「お店はちょっと直すところがあって、人が入って工事してるのよ。午前中にほとんど終わると言ってるわ」
「午後三時くらいならいいですか」
「三時ね。店にいるわ」
そして三時ちょうどに、深町はミロンガへいった。ドアは開いていた。なかに江利子がひとりでいた。彼女はカウンターを示した。原稿の入っているA4の封筒が斜めに置いてあった。
「これですね」
「電話してるのだけれど、ヨシオはまだつかまらないのよ」
「僕がかならず渡します」
「どこでなにをしてるのかしら。休みの日に引っぱり出して、ごめんなさいね」
原稿の入った封筒を深町は鞄に入れた。
「順子さんがまた来てくれたのよ。友だちとふたりで。水曜日だったかな」
「聞いてます」
「あら、そう」
「二時間いて、後半はお客さんがたくさんいて、楽しかったと言ってました」
「カウンターに入ってもらったのよ。こういうところにどのくらい似合うか、試してみたくて。いい女性ね。あれだけきれいで、頭が良くて、よく気がついて。しかもいろんな人と話が出来て。たちまち人気だったわ。ここは順子さんに代わってもらいたいくらいよ。私は小説に専念して」
彼女は店の奥へ歩いた。
「こっちへいらっしゃい」
振り返って江利子は深町にそう言った。
カウンターの奥の端まで、彼は歩いた。カウンターの縁に腰を軽くもたせかけて、江利子はまっすぐに立った。両腕を開き、
「ここへいらっしゃい」
と江利子は言った。
彼女のすぐ前に深町は立った。
「もっと近く。遠慮しなくていいのよ」
彼の腰に片手をかけ、江利子は彼を引き寄せた。
「体を重ねて。ぴったりと」
彼を両腕で抱き寄せた江利子は、顔をうしろに引いて彼を見た。
「僕のお嫁さんになる人に水商売はさせられない、とあなたの顔に書いてあるわよ」
そう言った江利子は、ない、と平仮名で、深町の口もとに人さし指の先で書いた。
「抱いて。腕をまわして、しっかりと」
両腕に江利子を抱き込むと、彼女の骨格の良さを彼ははっきりと感じた。シャツのすぐ下にある胸のふくらみは思いのほか固さをたたえていた。彼女の太腿の曲面を彼は自分の脚に受けとめた。その曲面には引き込まれる奥行きがあると同時に、撥ねのける反発力のようなものも充分にある、と彼は感じた。しっかり深く抱けと言われてそのとおりにしていると、やがて自分の体に伝わってくるのは、中野江利子という人の異性そのものの体の魅力だった。
「順子さんと結婚するの?」
江利子が訊いた。
「そんなこと、まだなにもきめてませんよ。知り合ったばかりだし」
「順子さんは完全にその気よ」
さらに深く彼を抱き寄せた江利子は、彼の肩に顔を軽く横たえ、
「残念だわ」
と、小さな声で彼のうなじに言った。
「タッチの差だったわ。あなたを口説いて、あるいは誘って、体の関係を作って、私の体で発散することを覚えさせて、私の言うことを聞く人にしようかな、と思ってたのよ。いまの私は男はいらないけれど、あなたならいいわ。あなたが私に一途になるようだったら、私はそれに応えてもいいのだし。でも、ほんのちょっと、遅かったわね。急ぐことはない、なんて思ったのが失敗ね」
抱き合ったままで江利子の言葉を彼は受けとめた。江利子の言葉が江利子そのものとして、体から体へ、直接に伝わってくるような錯覚があった。
「どう?」
「ヨシオがいいですよ」
深町が言った。
「私にヨシオを押しつけるの?」
「ヨシオは江利子さんのような成熟した美人が好きです。たいへん妙な奴ですけれど、いい奴です。ひどいことはしません」
「そうね。そう言われると、ヨシオでもいいような気がしてくるわ。さっそく、誘ってみよう」
「僕からも言っておきましょうか」
「リーゼントのことを言っといてよ。嫌われるからそれはもうやめろ、と言って。ねぎ坊主のはじけたような髪をした、英語の出来る青年を、私の体になじませよう。楽しみだわ」
そう言って笑った江利子は、
「あら、あなた」
腰を彼に押しつけ、彼女は左右の太腿を前後に動かした。
「勃起してるの?」
左右の太腿で彼女は交互にさぐった。彼は腰を引いた。
「駄目よ、逃げないで」
彼の腰を両手で引き寄せ、それを自分の下腹で迎えた。
「立ってるわ」
「あたりまえですよ」
「なぜ?」
「江利子さんとこうすれば、誰だって立ちます」
「いくら立ててもいいけれど、順子さんに貧乏させたらいけないのよ」
「させません」
「絵描きは貧乏の代名詞ではなかったかしら」
「僕は違います」
「順子さんが所帯やつれしても、あれだけきれいなら、かえって色気が深まっていいかもしれないわね」
「僕は大丈夫です」
「今日はこれからどうするの?」
「もう自宅へ帰ります」
今日は夕方から順子さんがうちへ遊びに来ます、という台詞を深町は頭のなかで言ってみた。ひとりの女性ゆえに、もうひとりの女性にうしろめたさのような気持ちを抱くという、彼にとっては初めての体験がそこにあった。
「帰ってヨシオをつかまえます。自宅はおたがいにすぐ近くなのです」
「ここへ来るように言っといて」
「僕はもう帰ります」
「残念ねえ、こんなに勃起してるのに。これをどうやって鎮めるの?」
「駅まで歩いていくあいだに、おさまります」
「鞄で前を隠して歩くといいわ」
両腕から江利子は彼を解放した。彼は鞄を置いたところまで歩いた。江利子が店のドアを開き、彼は外へ出た。
「ヨシオに言っといて」
「かならず」
江利子はいったんドアを閉じた。少しだけ間を置いて、彼女はドアを開いて外に出た。鞄を前に持って歩いていく深町を、
「康祐さん」
と、声を可愛く張り上げて呼んだ。
深町は振り返った。
「鞄がよく似合うわよ」
それだけ言って江利子は店に入り、ドアを閉じた。