改札口を抜けて目の前の階段を上がり、線路を越えて上りのプラットフォームへ階段を降りていく。駅に入って来た上りの電車が停止する寸前に、柴崎夏彦は階段を降りきった。プラットフォームは直線で前方にのびていた。なかばあたりまでは屋根があり、板壁と一体になって木製のベンチがあった。停止した電車から車掌が降りた。彼はドアを開いた。電車を待っていたのは、ベンチの手前にすわっていた女性ひとりだけだった。立ち上がった彼女は、いちばんうしろの車両の、まんなかあたりのドアに向けて歩いた。柴崎はおなじ車両の最後部のドアへと歩きながら、彼女の姿の良さや体の動きかたの美しさに目をとめた。前方の車両から数人の乗客が降りた。
柴崎は車両に入った。午後の各駅停車は空いていた。自分とおなじ車両に入ったその女性が席にすわるのを、彼は見た。彼女の横顔にも惹かれるものが充分にあった。車掌は発車の合図を声に出し、ドアを閉じた。電車はゆっくりと発進した。彼女の姿や顔だちを、少しでいいから観察したいと、彼は反射的に思った。だから彼女のほうへ歩いていき、見るともなく彼女のぜんたいを見ながら、彼女の前をとおりすぎた。そして彼女が目を上げて彼を見た。
「あら、柴崎さん」
そう言って彼女は軽やかに立ち上がった。吊り革に軽く片手をかけ、彼と向き合って立った。自分とほぼおなじ背丈をした、彫りの利いた顔の、全身に魅力のいきわたったこの女性が誰なのか、柴崎には考える時間が必要だった。そのあいだ彼女は、微笑を浮かべて彼を見ていた。高校の三年間、おなじクラスだった津田雄二という親友の母親だと、柴崎はやがて気づいた。
「お元気?」
彼女が言った。
「津田はどうしてますか」
微笑を返して柴崎が言った。
「あれから葉書一枚くれないのよ」
津田と柴崎は昨年、それぞれに大学を出た。そして就職し、半年後に津田は大阪に転勤となった。昨年の秋に送別会を開き、柴崎は幹事のひとりだった。あれからとは、そのときのことだ。高校二年生の春に、柴崎は津田の母親に初めて会った。そのときこの女性は津田の姉なのだ、と彼は思った。昨年の送別会のときでも、おなじく姉だと思った。そしていまは、彼女が誰なのかしばらく思い出せなかった。津田の母親はそれほどに若く見える。柴崎は就職した会社を三か月で辞めた。それ以来、フリーランスのイラストレーターだ。
「津田は仕事が忙しいのでしょう」
柴崎が言った。
「あなたは?」
「いまの僕はイラストレーターです」
イラストレーターという言葉はまだ新しい言葉だった。
「雑誌その他に、いろんなイラストレーションを描くのです。挿絵のような」
と、柴崎は説明した。
「あら、そうなの。絵を描く人だったのね」
柴崎は次の下北沢で降りる。電車は減速を始めていた。
「僕はここで降ります」
「またお会いしたいわね。雄二からあなたになにか連絡があったら、私にも教えてね」
親しさを込めた言いかたを、彼女の魅力の一部分として、柴崎は受けとめた。ドアまでいっしょに歩いた彼女は、車両を降りた彼に手を振った。そしてドアが閉じた。発進していく電車のドア・ガラスの向こうで、成熟したひとりの美人がきわめて親しく微笑しながら自分に手を振っている不思議さを感じながら、柴崎は軽くおじぎをした。最後部の車両は彼の前を走り去った。
彼は井の頭線に乗り換えた。高校で三年間おなじクラスだった津田雄二のことを、彼は思った。あのような女性が彼の母親なのかと、あらためて認識すると同時に、柴崎は自分の母親のことを思い、ひとりで苦笑した。
その日、快晴で気温の高い四月なかばの夕方、柴崎は渋谷でふたたび津田雄二の母親と偶然に出会った。国電の渋谷駅東口のターミナルで都電を降りた彼は、国電の下を抜けて北口へまわり、東横百貨店の前へと歩いた。たくさんの人がいろんな方向へと急ぎ足で歩くなかに、まるでここで待ち合わせでもしたかのように、くっきりと美しく際立った彼女が、自分に向けて歩いて来るのを彼は見た。
「あら、まあ、こんなところで」
ふたりは向き合って立ちどまった。そしてそこからどうするのか、すべてを相手である自分に委ねている彼女の様子を、彼は受けとめた。
「今日は絵を描いたの?」
彼の手を取りながら彼女が訊いた。
「絵のためのスケッチをしてきました。スケッチと観察です」
「なにをスケッチしたの?」
「都電です」
行き交う人々の流れからはずれた場所へ、ふたりは移った。
「私は東横に用があったの。事務所長に頼まれた贈り物を発送して、もう帰るのよ。井の頭線に乗ろうとしてたの。あなたは?」
「餃子を食べようと思いました」
「餃子が好きなの? そしてそれは、夕食なのかしら」
「そうです」
「お寿司にしない?」
自分に対してなされるほんのちょっとした小さな提案が、彼女の魅力の全開のように作用するのを、柴崎は不思議な気持ちで受けとめた。今日の午後早く、いつものあの駅で乗った電車のなかで彼女に感じたのと、おなじ質の不思議さだった。
「お寿司を食べたいな、と思ってたところなの。だけどひとりだし、早く帰ってお魚屋さんに寄れば、なにかあるかなと考えてたのよ」
「では、お寿司を食べましょう」
「お寿司でいいの?」
「食べたいです」
「百軒店のなかのお店」
ふたりは歩き始めた。横断歩道で道を渡り、道玄坂に向かった。その坂を下って来た路面電車をやり過ごして向こう側へ渡り、道玄坂を上がっていき、やがて百軒店の坂を右へ入った。坂を上がりきって左へいき、ふと路地に入ったような場所にある寿司屋に、彼女は彼とともに入った。カウンターにならんですわり、
「まかせるから握って。ふたりおなじものを」
と、若い職人に言った。
主人らしき男性があらわれ、
「先日は所長がお見えに」
と、挨拶した。
「ここは事務所でよく使うお店なの」
「なんの事務所ですか」
「私が働いてるとこ。会計事務所。私は会計士なのよ。若い頃は看護婦だったわ。いまから何年前かしら。国家総動員の頃よ。知ってる?」
「知識としては、なんとなく知ってます」