← Library‹ 物のかたちのバラッド いまはそれどころではない 1

改札かいさつ口くちを抜ぬけて目めの前まえの階段かいだんを上あがり、線路せんろを越こえて上のぼりのプラットフォームへ階段かいだんを降おりていく。駅えきに入はいって来きた上のぼりの電車でんしゃが停止ていしする寸前すんぜんに、柴崎しばざき夏彦なつひこは階段かいだんを降ふりきった。プラットフォームは直線ちょくせんで前方ぜんぽうにのびていた。なかばあたりまでは屋根やねがあり、板壁いたかべと一体いったいになって木製もくせいのベンチがあった。停止ていしした電車でんしゃから車掌しゃしょうが降おりた。彼かれはドアを開ひらいた。電車でんしゃを待まっていたのは、ベンチの手前てまえにすわっていた女性じょせいひとりだけだった。立たち上あがった彼女かのじょは、いちばんうしろの車両しゃりょうの、まんなかあたりのドアに向むけて歩あるいた。柴崎しばざきはおなじ車両しゃりょうの最後さいご部ぶのドアへと歩あるきながら、彼女かのじょの姿すがたの良よさや体からだの動うごきかたの美うつくしさに目めをとめた。前方ぜんぽうの車両しゃりょうから数すう人にんの乗客じょうきゃくが降おりた。

柴崎しばざきは車両しゃりょうに入はいった。午後ごごの各駅かくえき停車ていしゃは空あいていた。自分じぶんとおなじ車両しゃりょうに入はいったその女性じょせいが席せきにすわるのを、彼かれは見みた。彼女かのじょの横顔よこがおにも惹ひかれるものが充分じゅうぶんにあった。車掌しゃしょうは発車はっしゃの合図あいずを声こえに出だし、ドアを閉とじた。電車でんしゃはゆっくりと発進はっしんした。彼女かのじょの姿すがたや顔かおだちを、少すこしでいいから観察かんさつしたいと、彼かれは反射はんしゃ的てきに思おもった。だから彼女かのじょのほうへ歩あるいていき、見みるともなく彼女かのじょのぜんたいを見みながら、彼女かのじょの前まえをとおりすぎた。そして彼女かのじょが目めを上あげて彼かれを見みた。

「あら、柴崎しばざきさん」

そう言いって彼女かのじょは軽かろやかに立たち上あがった。吊つり革かわに軽かるく片手かたてをかけ、彼かれと向むき合あって立たった。自分じぶんとほぼおなじ背丈せたけをした、彫ほりの利きいた顔かおの、全身ぜんしんに魅力みりょくのいきわたったこの女性じょせいが誰だれなのか、柴崎しばざきには考かんがえる時間じかんが必要ひつようだった。そのあいだ彼女かのじょは、微笑びしょうを浮うかべて彼かれを見みていた。高校こうこうの三さん年間ねんかん、おなじクラスだった津田つだ雄二ゆうじという親友しんゆうの母親ははおやだと、柴崎しばざきはやがて気きづいた。

「お元気げんき?」

彼女かのじょが言いった。

「津田つだはどうしてますか」

微笑びしょうを返かえして柴崎しばざきが言いった。

「あれから葉書はがき一いち枚まいくれないのよ」

津田つだと柴崎しばざきは昨年さくねん、それぞれに大学だいがくを出でた。そして就職しゅうしょくし、半年はんとし後ごに津田つだは大阪おおさかに転勤てんきんとなった。昨年さくねんの秋あきに送別そうべつ会かいを開ひらき、柴崎しばざきは幹事かんじのひとりだった。あれからとは、そのときのことだ。高校こうこう二に年ねん生せいの春はるに、柴崎しばざきは津田つだの母親ははおやに初はじめて会あった。そのときこの女性じょせいは津田つだの姉あねなのだ、と彼かれは思おもった。昨年さくねんの送別そうべつ会かいのときでも、おなじく姉あねだと思おもった。そしていまは、彼女かのじょが誰だれなのかしばらく思おもい出だせなかった。津田つだの母親ははおやはそれほどに若わかく見みえる。柴崎しばざきは就職しゅうしょくした会社かいしゃを三さんか月げつで辞やめた。それ以来いらい、フリーランスのイラストレーターだ。

「津田つだは仕事しごとが忙いそがしいのでしょう」

柴崎しばざきが言いった。

「あなたは?」

「いまの僕ぼくはイラストレーターです」

イラストレーターという言葉ことばはまだ新あたらしい言葉ことばだった。

「雑誌ざっしその他たに、いろんなイラストレーションを描えがくのです。挿絵さしえのような」

と、柴崎しばざきは説明せつめいした。

「あら、そうなの。絵えを描えがく人ひとだったのね」

柴崎しばざきは次つぎの下北沢しもきたざわで降おりる。電車でんしゃは減速げんそくを始はじめていた。

「僕ぼくはここで降おります」

「またお会あいしたいわね。雄二ゆうじからあなたになにか連絡れんらくがあったら、私わたくしにも教おしえてね」

親したしさを込こめた言いいかたを、彼女かのじょの魅力みりょくの一いち部分ぶぶんとして、柴崎しばざきは受うけとめた。ドアまでいっしょに歩あるいた彼女かのじょは、車両しゃりょうを降おりた彼かれに手てを振ふった。そしてドアが閉とじた。発進はっしんしていく電車でんしゃのドア・ガラスの向むこうで、成熟せいじゅくしたひとりの美人びじんがきわめて親したしく微笑びしょうしながら自分じぶんに手てを振ふっている不思議ふしぎさを感かんじながら、柴崎しばざきは軽かるくおじぎをした。最後さいご部ぶの車両しゃりょうは彼かれの前まえを走はしり去さった。

彼かれは井いの頭かしら線せんに乗のり換かえた。高校こうこうで三さん年間ねんかんおなじクラスだった津田つだ雄二ゆうじのことを、彼かれは思おもった。あのような女性じょせいが彼かれの母親ははおやなのかと、あらためて認識にんしきすると同時どうじに、柴崎しばざきは自分じぶんの母親ははおやのことを思おもい、ひとりで苦笑くしょうした。

その日ひ、快晴かいせいで気温きおんの高たかい四よん月がつなかばの夕方ゆうがた、柴崎しばざきは渋谷しぶやでふたたび津田つだ雄二ゆうじの母親ははおやと偶然ぐうぜんに出会であった。国電こくでんの渋谷しぶや駅えき東口ひがしぐちのターミナルで都電とでんを降おりた彼かれは、国電こくでんの下したを抜ぬけて北口きたぐちへまわり、東横とうよこ百貨ひゃっか店てんの前まえへと歩あるいた。たくさんの人ひとがいろんな方向ほうこうへと急いそぎ足あしで歩あるくなかに、まるでここで待まち合あわせでもしたかのように、くっきりと美うつくしく際立きわだった彼女かのじょが、自分じぶんに向むけて歩あるいて来くるのを彼かれは見みた。

「あら、まあ、こんなところで」

ふたりは向むき合あって立たちどまった。そしてそこからどうするのか、すべてを相手あいてである自分じぶんに委ゆだねている彼女かのじょの様子ようすを、彼かれは受うけとめた。

「今日きょうは絵えを描えがいたの?」

彼かれの手てを取とりながら彼女かのじょが訊きいた。

「絵えのためのスケッチをしてきました。スケッチと観察かんさつです」

「なにをスケッチしたの?」

「都電とでんです」

行いき交かう人々ひとびとの流ながれからはずれた場所ばしょへ、ふたりは移うつった。

「私わたくしは東横とうよこに用ようがあったの。事務じむ所長しょちょうに頼たのまれた贈おくり物ものを発送はっそうして、もう帰かえるのよ。井いの頭かしら線せんに乗のろうとしてたの。あなたは?」

「餃子ぎょーざを食たべようと思おもいました」

「餃子ぎょーざが好すきなの? そしてそれは、夕食ゆうしょくなのかしら」

「そうです」

「お寿司すしにしない?」

自分じぶんに対たいしてなされるほんのちょっとした小ちいさな提案ていあんが、彼女かのじょの魅力みりょくの全開ぜんかいのように作用さようするのを、柴崎しばざきは不思議ふしぎな気持きもちで受うけとめた。今日きょうの午後ごご早はやく、いつものあの駅えきで乗のった電車でんしゃのなかで彼女かのじょに感かんじたのと、おなじ質しつの不思議ふしぎさだった。

「お寿司すしを食たべたいな、と思おもってたところなの。だけどひとりだし、早はやく帰かえってお魚屋さかなやさんに寄よれば、なにかあるかなと考かんがえてたのよ」

「では、お寿司すしを食たべましょう」

「お寿司すしでいいの?」

「食たべたいです」

「百ひゃく軒けん店てんのなかのお店みせ」

ふたりは歩あるき始はじめた。横断おうだん歩道ほどうで道みちを渡わたり、道玄坂どうげんざかに向むかった。その坂さかを下くだって来きた路面ろめん電車でんしゃをやり過すごして向むこう側がわへ渡わたり、道玄坂どうげんざかを上あがっていき、やがて百ひゃく軒けん店てんの坂さかを右みぎへ入はいった。坂さかを上あがりきって左ひだりへいき、ふと路地ろじに入はいったような場所ばしょにある寿司すし屋やに、彼女かのじょは彼かれとともに入はいった。カウンターにならんですわり、

「まかせるから握にぎって。ふたりおなじものを」

と、若わかい職人しょくにんに言いった。

主人しゅじんらしき男性だんせいがあらわれ、

「先日せんじつは所長しょちょうがお見みえに」

と、挨拶あいさつした。

「ここは事務じむ所しょでよく使つかうお店みせなの」

「なんの事務じむ所しょですか」

「私わたくしが働はたらいてるとこ。会計かいけい事務じむ所しょ。私わたくしは会計かいけい士しなのよ。若わかい頃ころは看護かんご婦ふだったわ。いまから何なん年ねん前まえかしら。国家こっか総そう動員どういんの頃ころよ。知しってる?」

「知識ちしきとしては、なんとなく知しってます」

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