それからひと月後、五月のなかばには、津田美枝子と柴崎夏彦とのあいだに、ともに過ごす時間をめぐって、ゆるやかなきまりのようなものが出来上がっていた。土曜日あるいは日曜日のどちらかを、ふたりで過ごす。土曜と日曜の二日にまたがることも、少なくはない。週の初めから後半にいたるまでのどこかで、逢うこともなくはない。美枝子の仕事は忙しい。しかし、週末は自由な時間だ。だから五月なかば、土曜日、曇った日の午後、美枝子は柴崎の家へ来た。父親からの返信どおり、売却はまだためらわれるけれど、借りて住んでいただくのは歓迎する、ということにきまった、柴崎家の別宅のようなあの家だ。
ふたりは買い物に出た。下北沢で材料を買い揃え、美枝子が柴崎の家で夕食を作る。作るとは、彼女が柴崎に料理を教える過程でもあった。白いシャツに灰色のスカート、そしてスカートよりも濃い灰色の、細いヒールのあるサンダルを、今日の美枝子は履いていた。南口商店街の通りへ入ったところで、柴崎はひとりの女性に呼びとめられた。道の反対側を足早に歩いていた彼女は、柴崎に気づいて斜めに歩み寄った。
「柴崎さん。久しぶり」
声と笑顔を受けとめた柴崎は、時間が過去のなかへと逆行する錯覚を覚えた。逆行とは言っても、わずかに三年ほどだ。美人と世話女房の中間のような雰囲気は、以前のままだった。顔だちのなかにある華やかさが、よく出来た世話女房の座持ちの良さ、といったものを思わせた。
「変わりませんね」
と、柴崎は言った。丁寧な言葉は両親のしつけによるものだ。年上の人に対して使う言葉というものを、特に母親から、柴崎は厳しく言われて育った。
「あなたも。懐かしいわ。絵は描いてるの?」
水谷啓子が訊いた。
「会社はすぐに辞めたのですってね。木村さんに聞いたわ」
木村とは柴崎の高校の同級生のひとりだ。
「エトワールには、ときどきいくのよ」
その高校の生徒たちがもっとも多く利用する私鉄駅の近くに、商店街があった。そのなかのひときわ建て込んだ一角に、エトワールという喫茶店はいまでもある。高校生の頃にはそこが柴崎にとっても溜まり場のひとつだった。親族の経営する店だというエトワールで、啓子はウェイトレスをしていた。そしてなかば以上、店の切り盛りを引き受けてもいた。
「私はいま、中野にいるの」
そう言って啓子は美枝子に顔を向け、視線を柴崎に返してから、
「お姉さんなの?」
と言った。
美枝子は柴崎に体を寄せ、腕を深く組み、その腕をシャツの下にある胸のふくらみに引き寄せ、甘えた微笑を浮かべて彼の横顔を見た。そしてその微笑をそのまま啓子に向けた。柴崎をめぐる関係において、啓子よりも美枝子のほうがはるかに密接で親密である事実は、それだけで明白となった。その明白さを、美枝子は次のような言葉で、念を押した。
「優しいお姉さんにもなれるのよ」
美枝子が伝えようとしたことは、充分すぎるほどに啓子に伝わった。その啓子の反応は率直なものだった。一歩下がった啓子は心から驚いた表情となり、その驚きは全身のポーズへと広がった。見てはいけないものを見た人のような、複雑なものへと彼女の表情は変化し、
「いい絵を描いてね」
と言い、さらにもう一歩だけ、下がった。
「仕事はしてるの?」
「してます」
「元気でね」
「啓子さんも」
美枝子には視線を戻すことなく、したがって啓子なりに美枝子を無視して、啓子は歩み去り人通りのなかに見えなくなった。美枝子と柴崎も歩き始めた。
「尽くす奥さんになれる人よ」
美枝子が言った。
「鳥取県出身の水谷啓子さんという人です。宍道湖に沈む夕陽で育った、という言葉を覚えています。自宅の二階に勉強部屋があり、その隣は布団を敷いて寝る部屋だったそうです。布団を敷かなければ、なにもない畳の部屋です。勉強部屋もそうなのですが、この布団を敷いて寝る部屋は、窓からまっすぐに射し込んだ夕陽が、いっぱいに満ちる部屋だったと、彼女は言ってました。壁に自分の影を写してみるのが好きで、裸で壁に写してみる自分の姿を、これが自分なのかと思ったりしたそうです。雄二も知っている人です」
喫茶店エトワールについて、柴崎は美枝子に説明した。
「卒業してからも、みんなよくそこに集まってました。啓子さんは僕にはなぜか親切で、ある日の夕方、いっしょに新宿へいきました。そしてロール・キャベツを食べたのです。その席で、女をまだ知らないなら教えてあげる、私でよければ、と言われたのです」
「啓子さんが、あなたにとって初めての人になったの?」
美枝子の質問に柴崎は、
「その先がもうひとりあるのです」
と答えた。
「若いのに大変ね。忙しいのねえ」
「啓子さんとは、二十歳から二十一歳にかけてです。啓子さんは三歳年上ですから、いまは二十六歳か二十七歳です」
「絵に描いてあげたりしたの?」
「スケッチはしました。水彩でポートレートを描いて、それは進呈しました」
「最初の人とは、どんなふうに出来たの?」
喫茶店に入ることを柴崎は提案した。駅の南口の脇を抜けて線路沿いの道に入り、すぐ右側にある喫茶店にふたりは入った。中二階の席にふたりはすわった。
「啓子さんは、驚いてましたよ」
ウェイトレスが注文を聞いたあと、柴崎が言った。
「なぜあんなふうに、ばらさなくてはいけないんですか」
「だって、いまのあなたの女は、私なのよ」
自信といたずら心が同居した魅力が、美枝子のぜんたいにいきわたっていた。その様子を受けとめながら、柴崎は高校で三年間にわたって同級だった、津田雄二について思った。雄二は無駄口をきかない静かで穏やかな少年だった。誰とも均等につきあい、言った言葉は額面どおりで裏表はいっさいなく、なにごともひとり集中して黙ってやりとげる。あのような性格は美枝子との生活のなかで、雄二が自前で獲得したものに違いない、と柴崎は確信した。
「初めての人について、聞かせて」
美枝子に促された彼は、