一九六六年の梅雨の頃、少なくとも十歳は年上の手塚という名の雑誌編集者に誘われて、二十四歳の矢野哲郎はコンパルサというバーへ初めて入った。手塚に依頼された雑誌の挿絵を、矢野は編集部まで届けにいった。平日の夕方だった。その出版社は矢野が美大の学生だった頃、アルバイトをしていたところだ。アルバイトとしての矢野の仕事場に、ある日、手塚があらわれた。きみは絵が描けるんだって、と手塚は矢野に訊いた。描けますと答えた矢野を手塚は編集部へ連れていき、短編小説の挿絵を三点、その場で描かせた。手塚とはそれ以来のつきあいだった。彼は若い矢野にいろんな仕事をくれた。連載小説の挿絵を、その完結までまかされたこともあった。
挿絵を届けにいったその日の夕方、「飲みにいこう、すぐに出るからちょっと待ってくれ」と、手塚は矢野に言った。ふたりで会社を出て、駅前の蕎麦屋で月見うどんを食べてから、電車を乗り継いだ。コンパルサは初めてだったし、その歓楽街に入るのも、ほとんど初めてだと言ってよかった。ドアだけが間口のようなコンパルサは、奥に向けて深い店だった。片側にカウンターが長くあった。直線ではなく、妙に湾曲していたり段がついたりした、居心地の良いカウンターだ。カウンターのストゥールにすわる客たちの背後は、窓の代わりに窓枠だけを三つ取りつけた壁だった。店の奥は、ソファで囲まれたテーブルがひとつだけあるスペースとなっていた。そのさらに奥がトイレットのドアで、すぐとなりにあるおなじようなドアを間違えて開けた人は、客の忘れ物がぎっしりと詰まったいくつもの棚に直面した。カウンターの内側は、店にとってのさまざまな物の収納場所だった。
カウンターのなかにいた女性が、ならんでストゥールにすわった手塚と矢野の前に立った。彼女を片手で示して矢野に向きなおり、
「見てのとおりの美人ママ。若い美人ママ」
と、手塚が言った。
「若いと言うなら、彼のほうがずっと若いわよ」
矢野に笑顔を向けて、彼女が言った。
「いくつなんだ、きみは」
手塚は矢野に訊いた。
「二十四です」
「なぜそんなに若いんだ」
「あらまあ、私よりひとまわりも年下よ。一九三〇年生まれですもの、私は」
「昭和五年だね」
手塚が言った。
「黄金バットの頃だ。エロ、グロ、ナンセンス。歌では祇園小唄。そして、すみれの花咲く頃。天津乙女。知ってるかい」
矢野にそう言った手塚に、
「知らないわよ。知るわけないわ」
と、美人の彼女が言った。
「映画では、なにが彼女をそうさせたか」
手塚のその言葉に、
「自分でそうしたのよ」
と、彼女は笑った。言葉の内容とその言いかた、声、笑いかたなど、きれいにひとつにまとまって、魅力的だった。
「うちの母がその頃ちょうど二十歳を超えたかという歳なのよ。母を見てるとよくわかるわ、自分でそうしたのよ。なにがそうさせたかなんて、とんでもない話」
「僕はきみよりさらに十歳近く年上だ。歴史年表に載ってないほどの昔の生まれさ」
絵を描く人としての矢野から見て、整いきったと言っていい彼女の目鼻立ちの、どことは言いがたい多くの意外な部分に、華やいだ雰囲気がいきわたっていた。口紅が鮮やかに赤い様子を、矢野は観察した。白い長袖のシャツに黒い小さなボウ・タイ、そして黒いタイト・スカート。シャツの下の存分な肩幅、胸板の広がりと厚みなどを、矢野は視覚をとおして感じ取った。
「いつものやつ」
と、手塚が言った。
「ウイスキーの炭酸ソーダ割りだよ。きみもそれにしたまえ。ここの炭酸はきついから、ウイスキーとよく合ってうまいんだ。それから、あれも。文字どおり、摘むやつ」
手塚の注文を彼女は笑顔で受けた。
「美人だろう」
手塚が矢野に言った。
「そうですね」
「絵心をかき立てられるかい」
「シャツの下にある体ですね」
「画家はモデルの骨格を透視するからね。彼女は三人姉妹のいちばん下で、上から順にひとつ、ふたつ、三つと数えて三つ目だから、三津子というんだ。服部三津子」
ふたりのコースターの上にウイスキーのソーダ割りが置かれた。グリーン・ピーズを油で揚げたものが、やや深い皿にいっぱい、出て来た。
「摘むと指に油がつくから箸をくれ、と言ったお客さんがいたのよ」
三津子が矢野に言った。
「割り箸でひとつずつつまんで食べてたわ。しかも飲むものが、私には作れないカクテルで。お客さんのなかに外国航路の船でバーテンダーをやってたというかたがいて、そのかたがカウンターのなかに入って、見事に作ってくださったわ」
「摘むんだよ」
かたわらから手塚が言った。
揚げたグリーン・ピーズを矢野は食べてみた。塩がいい、と彼は思った。
「うちの親戚の人が、瀬戸内で趣味で作ってる塩なの」
三津子が言った。
「苦みがほどよく効いた、うまい塩だ」
手塚がそう言い、次のように続けた。
「仕事が終わったらここへ来てね、ウイスキーの炭酸割りを飲んで、油で揚げたグリーン・ピーズを摘んでるとね、ひとつまたひとつと、いつのまにか歳を取るんだ。なかなかいいもんだよ」
これが矢野にとっての、コンパルサの最初だった。奥に向けて長く続くカウンターぜんたいを三津子ひとりでこなすことは出来ず、まんなかあたりから奥までを、二十代の女性が受け持っていた。色白細面の見本のような顔立ちの、きわめて座持ちのいい彼女は、なぜかいつも浴衣を着ていた。
二度目も矢野は手塚に誘われた。三度目は手塚とそこで待ち合わせた。その時間が九時過ぎというのは、三津子によれば「間違いよ」ということだった。待っていても手塚はあらわれず、十時になって店に電話があった。三津子がそれを矢野に取り次いだ。
「どこかのお店の女性。手塚さんは酔っていて、今日はうかがえそうにありませんから、お待ち合わせのかたにお伝えください、ということ。今度はひとりで来てよ、いつでもいいから」