← Library‹ 物のかたちのバラッド 孤独をさらに深める 2

一いち九きゅう六ろく六ろく年ねんの梅雨つゆの頃ころ、少すくなくとも十じゅう歳さいは年上としうえの手塚てづかという名なの雑誌ざっし編集へんしゅう者しゃに誘さそわれて、二十にじゅう四よん歳さいの矢野やの哲郎てつろうはコンパルサというバーへ初はじめて入はいった。手塚てづかに依頼いらいされた雑誌ざっしの挿絵さしえを、矢野やのは編集へんしゅう部ぶまで届とどけにいった。平日へいじつの夕方ゆうがただった。その出版しゅっぱん社しゃは矢野やのが美大びだいの学生がくせいだった頃ころ、アルバイトをしていたところだ。アルバイトとしての矢野やのの仕事場しごとばに、ある日ひ、手塚てづかがあらわれた。きみは絵えが描えがけるんだって、と手塚てづかは矢野やのに訊きいた。描えがけますと答こたえた矢野やのを手塚てづかは編集へんしゅう部ぶへ連つれていき、短編たんぺん小説しょうせつの挿絵さしえを三さん点てん、その場ばで描えがかせた。手塚てづかとはそれ以来いらいのつきあいだった。彼かれは若わかい矢野やのにいろんな仕事しごとをくれた。連載れんさい小説しょうせつの挿絵さしえを、その完結かんけつまでまかされたこともあった。

挿絵さしえを届とどけにいったその日ひの夕方ゆうがた、「飲のみにいこう、すぐに出でるからちょっと待まってくれ」と、手塚てづかは矢野やのに言いった。ふたりで会社かいしゃを出でて、駅前えきまえの蕎麦屋そばやで月見つきみうどんを食たべてから、電車でんしゃを乗のり継ついだ。コンパルサは初はじめてだったし、その歓楽かんらく街がいに入はいるのも、ほとんど初はじめてだと言いってよかった。ドアだけが間口まぐちのようなコンパルサは、奥おくに向むけて深ふかい店みせだった。片側かたがわにカウンターが長ながくあった。直線ちょくせんではなく、妙みょうに湾曲わんきょくしていたり段だんがついたりした、居心地いごこちの良よいカウンターだ。カウンターのストゥールにすわる客きゃくたちの背後はいごは、窓まどの代かわりに窓枠まどわくだけを三みつ取とりつけた壁かべだった。店みせの奥おくは、ソファで囲かこまれたテーブルがひとつだけあるスペースとなっていた。そのさらに奥おくがトイレットのドアで、すぐとなりにあるおなじようなドアを間違まちがえて開あけた人ひとは、客きゃくの忘わすれ物ものがぎっしりと詰つまったいくつもの棚たなに直面ちょくめんした。カウンターの内側うちがわは、店みせにとってのさまざまな物ものの収納しゅうのう場所ばしょだった。

カウンターのなかにいた女性じょせいが、ならんでストゥールにすわった手塚てづかと矢野やのの前まえに立たった。彼女かのじょを片手かたてで示しめして矢野やのに向むきなおり、

「見みてのとおりの美人びじんママ。若わかい美人びじんママ」

と、手塚てづかが言いった。

「若わかいと言ゆうなら、彼かれのほうがずっと若わかいわよ」

矢野やのに笑顔えがおを向むけて、彼女かのじょが言いった。

「いくつなんだ、きみは」

手塚てづかは矢野やのに訊きいた。

「二十にじゅう四よんです」

「なぜそんなに若わかいんだ」

「あらまあ、私わたくしよりひとまわりも年下とししたよ。一いち九きゅう三さん〇れい年ねん生うまれですもの、私わたくしは」

「昭和しょうわ五ご年ねんだね」

手塚てづかが言いった。

「黄金おうごんバットの頃ころだ。エロ、グロ、ナンセンス。歌うたでは祇園ぎおん小唄こうた。そして、すみれの花はな咲さく頃ころ。天津てんしん乙女おとめ。知しってるかい」

矢野やのにそう言いった手塚てづかに、

「知しらないわよ。知しるわけないわ」

と、美人びじんの彼女かのじょが言いった。

「映画えいがでは、なにが彼女かのじょをそうさせたか」

手塚てづかのその言葉ことばに、

「自分じぶんでそうしたのよ」

と、彼女かのじょは笑わらった。言葉ことばの内容ないようとその言いいかた、声こえ、笑わらいかたなど、きれいにひとつにまとまって、魅力みりょく的てきだった。

「うちの母ははがその頃ころちょうど二十にじゅう歳さいを超こえたかという歳としなのよ。母ははを見みてるとよくわかるわ、自分じぶんでそうしたのよ。なにがそうさせたかなんて、とんでもない話はなし」

「僕ぼくはきみよりさらに十じゅう歳さい近ちかく年上としうえだ。歴史れきし年表ねんぴょうに載のってないほどの昔むかしの生うまれさ」

絵えを描えがく人ひととしての矢野やのから見みて、整ととのいきったと言いっていい彼女かのじょの目鼻めはな立だちの、どことは言いいがたい多おおくの意外いがいな部分ぶぶんに、華はなやいだ雰囲気ふんいきがいきわたっていた。口紅くちべにが鮮あざやかに赤あかい様子ようすを、矢野やのは観察かんさつした。白しろい長袖ながそでのシャツに黒くろい小ちいさなボウ・タイ、そして黒くろいタイト・スカート。シャツの下したの存分ぞんぶんな肩幅かたはば、胸板むないたの広ひろがりと厚あつみなどを、矢野やのは視覚しかくをとおして感かんじ取とった。

「いつものやつ」

と、手塚てづかが言いった。

「ウイスキーの炭酸たんさんソーダ割わりだよ。きみもそれにしたまえ。ここの炭酸たんさんはきついから、ウイスキーとよく合あってうまいんだ。それから、あれも。文字もじどおり、摘つむやつ」

手塚てづかの注文ちゅうもんを彼女かのじょは笑顔えがおで受うけた。

「美人びじんだろう」

手塚てづかが矢野やのに言いった。

「そうですね」

「絵心えごころをかき立たてられるかい」

「シャツの下したにある体からだですね」

「画家がかはモデルの骨格こっかくを透視とうしするからね。彼女かのじょは三さん人にん姉妹しまいのいちばん下したで、上うえから順じゅんにひとつ、ふたつ、三みつと数かぞえて三みつ目めだから、三津子みつこというんだ。服部はっとり三津子みつこ」

ふたりのコースターの上うえにウイスキーのソーダ割わりが置おかれた。グリーン・ピーズを油あぶらで揚あげたものが、やや深ふかい皿さらにいっぱい、出でて来きた。

「摘つむと指ゆびに油あぶらがつくから箸はしをくれ、と言いったお客きゃくさんがいたのよ」

三津子みつこが矢野やのに言いった。

「割わり箸ばしでひとつずつつまんで食たべてたわ。しかも飲のむものが、私わたくしには作つくれないカクテルで。お客きゃくさんのなかに外国がいこく航路こうろの船ふねでバーテンダーをやってたというかたがいて、そのかたがカウンターのなかに入はいって、見事みごとに作つくってくださったわ」

「摘つむんだよ」

かたわらから手塚てづかが言いった。

揚あげたグリーン・ピーズを矢野やのは食たべてみた。塩しおがいい、と彼かれは思おもった。

「うちの親戚しんせきの人ひとが、瀬戸せと内うちで趣味しゅみで作つくってる塩しおなの」

三津子みつこが言いった。

「苦にがみがほどよく効きいた、うまい塩しおだ」

手塚てづかがそう言いい、次つぎのように続つづけた。

「仕事しごとが終おわったらここへ来きてね、ウイスキーの炭酸たんさん割わりを飲のんで、油あぶらで揚あげたグリーン・ピーズを摘つんでるとね、ひとつまたひとつと、いつのまにか歳としを取とるんだ。なかなかいいもんだよ」

これが矢野やのにとっての、コンパルサの最初さいしょだった。奥おくに向むけて長ながく続つづくカウンターぜんたいを三津子みつこひとりでこなすことは出来できず、まんなかあたりから奥おくまでを、二十にじゅう代だいの女性じょせいが受うけ持もっていた。色白いろじろ細面ほそおもての見本みほんのような顔立かおだちの、きわめて座持ざもちのいい彼女かのじょは、なぜかいつも浴衣ゆかたを着きていた。

二に度ど目めも矢野やのは手塚てづかに誘さそわれた。三さん度ど目めは手塚てづかとそこで待まち合あわせた。その時間じかんが九きゅう時じ過すぎというのは、三津子みつこによれば「間違まちがいよ」ということだった。待まっていても手塚てづかはあらわれず、十じゅう時じになって店みせに電話でんわがあった。三津子みつこがそれを矢野やのに取とり次ついだ。

「どこかのお店みせの女性じょせい。手塚てづかさんは酔よっていて、今日きょうはうかがえそうにありませんから、お待まち合あわせのかたにお伝つたえください、ということ。今度こんどはひとりで来きてよ、いつでもいいから」

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